――第20話 世界平和――
2026年2月16日 月曜日 14:20
重く沈んだ沈黙が、久我家の屋敷の事務室に残っていた。
怒気というほど激しくはない。だが、拗ねた猫のような不機嫌さが、空気に薄く染みついている。
「エウラ。……いい加減、機嫌を直してくれないか」
慎重に言葉を選びながら、悠斗は声をかけた。
「祈さんも、もうあれ以上は言わないって言ってたし。
結乃も今は学校でいない。……少しくらい、話してくれてもいいんじゃないか?」
しばしの沈黙。
「……ふん」
エウラは鼻を鳴らし、そっぽを向いたまま答える。
「いいわ。どうせ聞きたいのは、トマとアールティのことでしょ?」
一拍置いて、釘を刺すように続けた。
「先に言っておくけど、奴らのリネアについては、私はよく知らないわ」
「え?」
思わず声が漏れる。
「でも……天使って――」
「トマ……」
その名を口にしかけて、エウラは小さく言い直した。
「いえ。アーサー、だったわね」
わずかに視線が揺れる。
「以前、一時期……守られていたことがあったのよ」
「……」
「戦争を無くすって」
「平和な世界を作るって」
遠い記憶をなぞるように、静かに言う。
「そう。――大言壮語していたわ」
エウラは、わずかに目を伏せて続けた。
「……アイツが、まだ“トマ”と呼ばれていた頃の話よ。
大きな戦争があった時代。人が、国同士が連合を組んで――世界規模で初めて行われた、大戦争」
静かな声とは裏腹に、言葉は重かった。
「トマは、ただの一般兵として派兵されたの。
英雄でも指揮官でもない。名も残らない、数ある兵士の一人としてね」
エウラは遠くを見るように語る。
「空を飛ぶ鉄の塊が、容赦なく爆弾を落とし、
地を走る戦車が、倒れた兵士の死体ごと踏み潰していく。
砲声と悲鳴が混ざり合って、昼も夜も区別がつかない戦場だったそうよ」
一瞬、言葉が途切れる。
「塹壕の中で――彼は下半身を吹き飛ばされた。
逃げ場もなく、助けも来ない。
ただ、血を流しながら……死を待つだけの状態だった」
淡々と語られるその内容が、かえって惨さを際立たせる。
「その時に、リネアに覚醒した……と聞いているわ」
エウラは、小さく首を振った。
「いいえ。正確には、“リネアを否定した”と」
悠斗の視線が、自然と彼女に向く。
「彼はね、理樹を“神”だと勘違いした。
そして、その神を否定したの」
低く、断言するような口調。
「神を否定し、その力を自分が奪い取る。
自分こそが、その力を振るう存在になる。
――そうすれば、世界から争いを無くせると」
皮肉を含んだ笑みが、エウラの唇に浮かぶ。
「……そう決意したそうよ」
「……どうして、君はそんな話を知っているんだ?」
悠斗が問いかけると、エウラは小さく息を吐いた。
「本人から聞いたのよ」
淡々とした口調だった。
「何十年も前の話。
あの“世界大戦”と、その次の“世界大戦”の、ちょうど狭間の頃ね」
視線が、遠い過去へ沈む。
「彼は、私のもとへ来たわ。
――“君を救いに来た”って」
ふ、と小さく笑う。
「ねえ、悠斗。
あなたが私に向ける目と、少し似ていたわ」
胸の奥をなぞるような沈黙。
「でもね……彼の言う“救い”は、
私を終わらせてくれるものじゃなかった」
声が低くなる。
「私を“女神”にすること。
永遠の御神体として、世界の頂点に据えることだった」
拒絶とも肯定ともつかない微妙な間。
「……悪くなかったわ。
この苦しみから、一時的にでも解放されるなら」
十年――と、指で空をなぞる。
「それくらいの間、私は崇められた。
一人、また一人と信者は増えていって……」
エウラは、吐き捨てるように言った。
「彼は、それを“天使の力”と呼んだわ」
静かな断言。
「今の宗教団体――
“天啓和合会”の母体を作ったのは、私と彼よ」
でも、と続ける。
「私は……見てしまったの」
瞳に、冷たい嫌悪が宿る。
「天使に魅入られた人間が、
どんな結末を迎えるのかを」
魂をトマに捧げ、
思考を失い、
ただ、彼と私を神として崇める存在へと堕ちていく。
「……それはね」
声が震える。
「私のリネアと、何も変わらなかった」
低く、強く。
「人の意思をねじ曲げ、剥奪する。
それなら――
私が今までやってきたことと、同じじゃない」
沈黙。
「……変わらないのよ」
だから、とエウラは言った。
「私は彼と口論になった」
だが――。
「彼は、もう最初の頃の彼じゃなかった」
冷え切った声。
「世界を平和にするには、
人類全員を信者にする必要がある」
不可能な理想を、当然のように語った。
「……そんなこと、できるはずないのにね」
天啓和合会の本部は、フランスのある街にあった。
その頃には組織は巨大化し、
信者も、資金も、力も集まっていた。
「トマは忙しくなって、外遊に出ることが増えた」
エウラは静かに告げる。
「私は――
意思も尊厳も奪われた信者たちに囲まれて、暮らしていた」
半分、軟禁。
「……そんな時、乱入者が来たわ」
“土のアールティ・カルパナ・ナグ”
“金のアザール・サンカラ“
「あの二人は昔から仲が悪くて、
会えば必ず争っていた」
その日も、例外じゃなかった。
「たぶん……私を奪いに来たのね」
戦いは、虐殺だった。
信者は一人、また一人と
幻獣に噛み砕かれ、引き裂かれ、焼かれた。
ある者は、
アザールと対峙した瞬間、顔を真っ青にして――絶命した。
「熟練の術理士もいたわ。
でも、全然相手にならなかった」
それでも。
「……足止めしてくれた人達がいた」
だから、逃げられた。
「私は死ななかった。
でもね……もう、うんざりしていたの」
エウラは静かに言う。
「トマは私を守っていた。
でも、それは“終わらせるため”じゃなかった」
むしろ。
「私を守るために、
たくさんの人を犠牲にした」
止める手段はなかった。
「だから――逃げたの」
彼から。
天啓和合会から。
「……もう、何十年前の話かしらね」
そして、今。
「でももし――
天使が、あなたについているなら」
悠斗を、まっすぐに見る。
「私の存在も、もうバレているでしょう」
彼は動く。
「黒涙を使い、理樹を独占し、世界を掌握する」
そして。
「私、エウラと――トマ改め、“アーサー“を唯一神として」
永遠の世界平和。
「……それが、彼の願いよ」
最後に、静かに言い切った。
「地獄を生き抜いた、彼の――願望」




