――第19話 探偵の調査結果――
2026年2月16日 月曜日 16:45
放課後。
最後のチャイムが鳴り終わり、教室には、すでに夕方の色が滲み込んでいた。
西日が窓から斜めに差し込み、机の影が床に長く伸びている。
誰も触れていない椅子は、几帳面に並んだまま微動だにしない。
ついさっきまで人の声や気配で満ちていたはずの空間が、嘘のように静まり返っていた。
結乃は、ゆっくりと鞄をまとめながら、窓際に立つ。
そのまま、外へと視線を向けた。
校門の向こうでは、私服姿と制服姿の警察官が忙しなく行き交っている。
無線に手を当てる者。
足を止め、何かを確認する者。
その無駄のない動きだけが、この場所が“平時ではない”ことを、はっきりと示していた。
――昨日の礼拝堂の事件。
原因は、それしかない。
視線を少しずらすと、礼拝堂の周囲には黄色いテープが張り巡らされているのが見える。
立ち入り禁止。
そう書かれた札は、どこか軽く、場の異様さを覆い隠すための飾りのようにも思えた。
物々しい雰囲気。
それでも、人々の表情には――
「事故があったらしい」
それ以上の認識は浮かんでいない。
結乃は、無意識に唇を噛む。
(……違う)
これは、ただの事件じゃない。
術理が関わる出来事だ。
表向きには調査が入り、
書類が作られ、
理由の分からない説明がなされる。
そして、数日も経てば――
なかったことになる。
人々の記憶から。
街の会話から。
この礼拝堂で、何が起きたのかという事実は、
静かに、確実に、削り取られていく。
窓ガラスに映る自分の顔が、夕焼けに染まり、わずかに揺れていた。
その表情が、どこか他人のように見える。
結乃は、ぎゅっと鞄を握り直す。
放課後の校舎は、静かすぎるほど静かだった。
結乃は一度だけ教室を振り返り、
そして、ゆっくりと外へ出る準備をした。
「……結乃さん」
その声に、結乃の肩がわずかに跳ねた。
振り返ると、教室の入口に美沙が立っている。
廊下の光を背にして、どこか所在なさげに、指先を強く握りしめていた。
「どうしました?」
「……あの」
美沙は一度、誰もいない廊下を振り返る。
それから、意を決したように、ゆっくりと口を開いた。
「屋上で……少し、話せませんか」
「……分かりました」
短く答える。
二人は並んで、階段を上った。
上へ行くほど、校舎は静かになる。
人気の消えた空間に、二人分の足音だけが、やけに大きく響いた。
屋上の扉を開けた瞬間、
夕焼けが、視界いっぱいに広がる。
風が強い。
フェンスが、かすかに鳴り、金属音が空に溶けていく。
美沙は、フェンスから少し離れた場所で立ち止まり、
しばらく、黙って空を見上げていた。
「……昨日も」
ぽつり、と声が落ちる。
「足音が、聞こえたんです」
美沙は、ぎゅっと自分の腕を抱く。
「夜だけじゃ、ないんです。
家にいるときも……帰り道でも……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……ぺた、ぺたって。
近づいてくる感じがして……」
視線が、揺れる。
「誰かに……
見つめられてる気が、するんです」
結乃は、思わず目を伏せた。
――あの足音。
天使。
魂を把握し、
記憶をなぞり、
存在そのものに“触れてくる”リネア。
(……)
喉の奥に、言葉が引っかかる。
真実を言えば、
美沙はもっと怯える。
(……対策……か)
夕焼けの中で、
結乃はフェンス越しに街を見下ろしたまま、考え込んでいた。
遠くではサイレンが鳴っている。
校門の外を行き交う警察官の姿も、ここからはっきりと見えた。
忙しなく動く影。
それに比べて、屋上はあまりにも静かだ。
その静けさを――
「やーやーやー。
久我ちゃん、斎藤さん。探しましたよー」
やけに陽気な声が、背後から降ってくる。
「いやー、外は警官だらけで。
なんだか大変そうですねぇー」
空気を読む気配が、まるでない。
結乃の肩が、わずかに強張った。
ゆっくりと振り返る。
屋上の扉の前に、軽い足取りの男が立っている。
手をひらひらと振り、
まるで放課後の待ち合わせに来たかのような笑顔。
――佐橋だ。
「……なんですか、佐橋さん」
結乃は、感情を押し殺した声で言った。
だがその響きには、隠しきれない警戒が滲んでいる。
「やだなぁ」
佐橋は、いつもの調子で肩をすくめた。
「あなたが僕に依頼したんじゃないですか。
斎藤さんの行動を、洗い出してほしいって」
指を一本立てる。
「で、調べてみた結果ですね。
――明らかに、おかしな行動をしてる人が、一人いたんですよ」
軽口のまま、目だけが鋭くなる。
「その子も、どうやら
“斎藤さんの行動”を調べてたみたいでね」
一拍。
「それが、どうにも引っかかって。
だから、ちょっとつけてみたんです」
さらりと言うが、
その内容は、決して軽くない。
「そしたらさ」
佐橋は、わざとらしく手を広げた。
「怪しい団体の集会に、入っていくじゃないですか」
風が、フェンスを鳴らす。
「で、追ってみたら――
あらびっくり」
にやり、と笑う。
「なんと、あの宗教団体。
《天啓和合会》だったんですよ」
(……な……!)
「これはさすがに、
関係ないとは言えないんじゃないですか?」
佐橋の声は、相変わらず軽い。
だが、言葉の芯は鋭かった。
「だって、斎藤さんのお父さん――
あの《天啓和合会》の布教活動を、
思いっきり邪魔してる人ですもんね」
結乃は、思わず一歩踏み出しかける。
「……『その子』とか言って、
もったいぶるのはやめなさい」
声に、苛立ちが滲んだ。
「誰よ。そいつは?」
佐橋は、ほんの一瞬だけ目を伏せ――
それから、淡々と告げる。
「はぁ……恥ずかしながらね」
軽く頭をかきながら。
「わが生徒会の一員です。
生徒会書記――“平田 梨花”」
「……平田……梨花ですって?」
その名が、はっきりと脳裏に浮かぶ。
――生徒会室で、
佐橋の名前が出たとき。
真っ先に、
あからさまな警戒心を見せていた人物。
(……あの人が……
斎藤さんに、術理を……?)
一瞬、思考が白くなる。
隣で、美沙が小さく息を呑んだ。
信じられない、という表情で、結乃を見る。
(……そこまでは、分からない)
結乃は、気づかれない程度に、
静かに首を横に振った。
憶測で、踏み込むには――
まだ、材料が足りない。
「でも」
佐橋は、そこで言い切る。
「平田 梨花が、斎藤さんの行動を追っていた。
それだけは、間違いないですよ」
夕焼けの光が、
三人の足元を長く引き伸ばす。
(……調べる必要がある)
(……先生には……
まだ、報告できない)
結乃は、そう結論づけた。
「いいわ、佐橋さん。ありがとう」
感情を抑えた声で言う。
「ここまでで、十分よ」
そして、一拍置いてから、視線をまっすぐ向けた。
「ただし――最後に、一つだけ」
夕焼けの光が、佐橋の横顔を照らす。
「その《天啓和合会》の集会。
次は、いつ。どこでやるの?」
条件を告げるように、淡々と続けた。
「それを教えてくれたら、報酬を支払うわ。
……いくらかしら?」
佐橋は、少しだけ考える素振りを見せる。
顎に手を当て、空を仰ぐふり。
だが、その答えは――
「集会は……今日の19時」
あまりにも、あっさりしていた。
「それと――
お金はいらないさ」
「……え?」
思わず、結乃が聞き返す。
「お金はいらない」
佐橋は、いつもの調子で言う。
「その代わり――
僕も、連れて行ってよ」
数秒。
結乃は、言葉を返さず、ただ考えた。
風が、フェンスを鳴らす。
「……はい?」
確認するように、もう一度聞き返す。
「いやね」
佐橋は、肩をすくめる。
「僕の生徒会の書記がさ。
ストーカーか、もしくは――
何かしらの犯罪に関わってるって話なら」
一瞬、視線が鋭くなる。
「放っておけないでしょ?」
軽い口調。
だが、そこに冗談はない。
「だから僕も、連れて行ってよ」
結乃は、じっと佐橋を見つめた。
「……まぁ、いいわ」
結乃は短く答えると、すぐに条件を突きつけた。
「その代わり。
私の指示には、必ず従ってもらいます。
従わなかった場合、命の保証はできませんよ?」
「おー、物騒だねぇ」
佐橋は苦笑しながらも、軽く頭を下げる。
「承知した。
君の指揮に、従うよ」
結乃は、そこで話題を切り替えた。
「ということで――斎藤さん」
「……はい?」
美沙が、戸惑いながら顔を上げる。
「あなたは今日は、屋敷で保護します。
そこで、大人しくしていてください」
「……いえ」
小さいが、はっきりした声だった。
「私も……行かせてください」
結乃の表情が、即座に硬くなる。
「無理です。
危険がありますし、守り切れる自信がありません」
「……お願いです」
美沙は、ぎゅっと拳を握る。
「私も……
平田さんと、お話ししたいんです」
「そんな話をしているんじゃないわ」
結乃の声が、鋭くなる。
「あなた、自分の立場が分かってる?」
「そ、それは……」
言葉に詰まり、美沙は視線を落とす。
その沈黙を――
割って入ったのは、佐橋だった。
「いいじゃん、久我さん」
軽い口調のまま、しかし真剣な目で言う。
「彼女のことは、僕が責任持って守るよ。
こう見えて、荒事にも慣れてるんだ」
結乃は、黙り込む。
「……」
数秒の沈黙。
それを待つように、佐橋が続けた。
「ここまで頑張った僕の、お願いだよ?
少しくらい、聞いてくれてもいいじゃないか」
「……ふー」
結乃は、深く息を吐いた。
「勝手にしなさい。
ただし――自分の身は、自分で守ってくださいね」
「いいね」
佐橋が、満足そうに笑う。
「今日はデートだね」
「……」
結乃は、冷たい視線を向ける。
「……いい加減にしなさい、あなたは」




