――第18話 不穏な祈り――
「やっほー」
「……な、エウラ?」
悠斗の声が、素直な驚きを帯びて響いた。
戦場には、あまりにも似つかわしくない姿だった。
白いTシャツ。
サンダル履き。
まるで、近所を散歩している途中で、
ふと思い出して立ち寄ったかのような軽装。
血も、緊張も、死の気配も、
その身には一切まとわりついていない。
「悠斗。結乃」
エウラは、気楽な調子で名を呼ぶ。
「……頑張ってるわね」
くるり、と一周するように視線を巡らせた。
立ち上がった氷の壁。
抉れ、崩れた地面。
空間に染みついた、強大な術理の残滓。
――普通なら、息を呑む光景。
だがエウラは、それらすべてを眺めたあと、
何事もなかったかのように、にこりと笑った。
「応援に来たわよ」
「……貴様……」
低く、地を這うような声が響いた。
カシウスだ。
剣を失ったはずの手が、無意識に引かれる。
重心が落ち、いつでも踏み込める位置へと身体が構えられる。
その視線は、
目の前の少女を――“人”として見ていない。
「自分が、何をしに来たのか……
分かっておらんのか?」
殺気が、言葉の端々に滲んでいた。
「なによ」
エウラは、むっとしたように頬を膨らませる。
あまりにも子どもじみた仕草。
この場の空気と、まるで噛み合っていない。
「……エウラ……」
悠斗の声が、思わず零れる。
一方、そのやり取りを少し離れた位置から眺めながら、
アールティの瞳が、ゆっくりと細められていった。
熱を帯びた視線。
恍惚とした表情。
まるで――
恋をする者のような顔。
「……かわいいわぁ」
吐息混じりの声。
「……欲しい……」
その一言に込められているのは、好意ではない。
慈しみでもない。
――所有欲。
「残念だけど!」
エウラは、ぴしっと指を立てる。
「私はノーマルよ!」
場違いな宣言。
だが、その軽さが、
逆にこの場の異常さを際立たせた。
「アールティ……今日は、引いてくれないか?」
悠斗は、落ち着いた声で言った。
「……なんでだい?」
アールティが、面白そうに首を傾げる。
その仕草は、獲物を前にした猫のそれに、よく似ていた。
だが、悠斗は視線を逸らさない。
「この状況で……」
一歩も動かず、続ける。
「エウラのリネアが発動すれば、
僕は――結乃と、カシウスさんを守る」
一拍。
「……あんたは、どうだ?」
静かな問い。
「無事で、済まないんじゃないか?」
言外に含まれたのは、脅しではない。
計算だった。
――幻獣たちが、主の判断を待っている。
ガルダは上空で翼を畳み、
ヤクシャは踏み出す足を止め、
ナーガはとぐろを巻いたまま、動かない。
「……」
アールティは、ゆっくりと視線を落とした。
顎に指を当て、何かを計算するように沈黙する。
獲物の価値と、危険。
勝算と、損失。
そのすべてを天秤にかけている沈黙。
やがて――
深く、長い息を吐いた。
「はぁ……」
肩の力が、わずかに抜ける。
「そうさね……
引いた方が……良さそうさね」
その言葉を聞いた瞬間。
結乃の肩から、
ほんのわずかに力が抜けた。
肺に溜め込んでいた息が、
音にならないまま、静かに抜けていく。
――助かった。
「でもね」
アールティは、顔を上げる。
その瞳には、執着の色がはっきりと宿っていた。
「エウラ……
そして……悠斗、だったかね」
名を呼ばれるだけで、
空気が再び張りつめる。
「アンタたちとは……
また、必ず会う」
一拍。
「その時には――
必ず、アンタたちは……
あたしのものになるさね」
にやり、と笑う。
「これは……
決定事項さ」
その言葉が落ちた瞬間。
ガルダの巨大な翼が、
霧に溶けるように薄れていく。
ヤクシャの岩の巨躯は、
音もなく崩れ落ち、塵へと還る。
ナーガの長大な影は、
地面から剥がされるように引き上げられ、
静かに、闇へと消えていった。
幻獣たちは、
霧となり、空へと散る。
「じゃあね」
あまりにも軽い別れの言葉。
次の瞬間――
アールティの姿は、
まるで最初から
存在していなかったかのように、
空間から、完全に消え去った。
※※※
静寂が、遅れて訪れた。
幻獣の気配が完全に消え、
凍りついていた空気が、ようやく現実の温度を取り戻す。
砕けた氷片が崩れる音。
遠くで、どこかの建物が軋む微かな響き。
誰も、すぐには動けなかった。
その沈黙を、破ったのは――
「エウラ!」
張り裂けるような声。
「……あんた、なんでここにいるのよ!
祈は? どうしたのよ!」
結乃が、一気に距離を詰める。
ついさっきまで張りつめていた緊張が、
そのまま怒りへと形を変え、噴き出していた。
「うるさいわね」
エウラは、気にも留めず肩をすくめる。
「結乃は」
名を呼ぶ声は、やけに軽い。
「助けてあげたんだから、いいじゃない」
あっさりと。
功績を誇るでもなく、
言い訳をするでもなく。
「……」
結乃は、一瞬、言葉を失う。
怒鳴り返す準備をしていたはずなのに、
あまりにも当然のように言われ、間が抜けた。
そこへ。
低く、重い声が、地を這うように割って入る。
「貴様……」
カシウスだ。
鋭い視線が、エウラを射抜く。
「もう一度言うぞ、貴様。
自分が、何をしたのか……分かっておるのか?」
一語ごとに、圧が増す。
「この街が――
消えるところだったんじゃぞ?」
事実の提示。
誇張も、感情もない。
「もう!」
即座に、エウラが噛みつく。
「カシウスにだけは、言われたくないわ!
ところ構わず、私を殺すくせに!」
その言葉に反応し、
周囲の空気が再び、ざわりと揺れる。
殺気が、肌を撫でた。
「貴様の存在自体が、危険なのじゃ」
カシウスは、一切引かない。
声は低く、冷たい。
「殺すと決めれば、犠牲は問わん。
ーーじゃが、今の貴様は、殺す対象ではない」
エウラが、ぴたりと動きを止める。
「わしは、この前の戦闘の後遺症が、まだ残っておる。しかしな、リネアが一度でも発動すれば、その機会に、貴様を殺す」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が、凍りつく。
「一度、廃墟になった街ならな、
それ以上、悪化することはない」
情はない。迷いもない。
「だが……今のわしには、
貴様を、殺し尽くすことはできん」
「だから――」
最後に、命令として告げる。
「大人しくしておれ」
「……」
「なによ!」
エウラが、声を荒らげる。
「みんなして!
私が殺される前提で話して!」
感情が、抑えきれず溢れ出す。
「みんなだって、一回しか死ねないのよ?
あなたたちは、死ぬつもりでここに来たのかしら?」
睨みつける。
「私は、死ぬつもりなんて……ないけど!」
「……それは、そうだけどさ。エウラ」
悠斗が、恐る恐る口を挟む。
「なによ!悠斗までー!」
即座に、悠斗に矛先が向き、
鼻先に、指を突きつける。
「大体ね、悠斗が悪いのよ!
一緒に寝るって言ったのに――」
結乃が、ぴくりと反応する。
「寝室にいないんだから!」
「え!?」
結乃が、素っ頓狂な声を上げる。
「……先生??」
笑顔で悠斗をみる結乃。
目は全く笑っていない。
「いやいやいや!」
悠斗が慌てて両手を振る。
「それは、エウラが勝手に――」
場に残っていた殺気は、
いつの間にか、完全に行き場を失っていた。
戦場だったはずの場所に、
ただの修羅場が出来上がっていた。
「それに!」
エウラは、一歩前に出て胸を張った。
「私だって、役に立つんだから!」
勢いそのままに、指を突き立てる。
「一対一の戦いじゃ、何にもできないけどね。
でも、応援する術は――すごいのよ?」
得意げに言い切る。
「それに!」
さらに畳みかける。
「私、五百年も生きてるのよ?
野盗や盗賊に襲われたときの術だって、
あるに決まってるじゃない!」
言い終えて、ふん、と鼻を鳴らす。
場の空気が、少しだけ緩んだ。
「……わかった、わかった」
悠斗が、苦笑しながら手を上げる。
「来てくれて助かったよ、エウラ」
その一言で、
エウラの肩から力が抜けた。
「それで?」
悠斗は、表情を改める。
「本当の理由は、なんなんだ?」
エウラは一瞬、視線を逸らし、
次に、壁際の十字架へと目を向けた。
「これ」
指差す。
「アルカナ・リミナなんだって?」
その声は、先ほどより低い。
「この十字架の……
後ろに、あるのね」
「そう…」
「ここが……門」
エウラは、納得したように息を吐く。
「だから、トマはここを狙ったのね」
「……どういうこと?」
結乃が眉をひそめる。
「トマって…確か…」
「彼は……
門を、先に押さえたの」
エウラの視線が、遠くを見るようになる。
「彼のリネアを考えれば、
ここを押さえたいのも理解できるわ」
一拍。
「それにしても……
いつここを嗅ぎつけたのかと思ったけど」
「なるほどね」
悠斗を見る。
「あいつ、最近になって悠斗のことを知ったのね」
空気が、再び張り詰める。
「だから、門を押さえに来た」
結論を告げる声。
「狙いは――
あいつも、黒涙ね」
その言葉が落ちた瞬間、
ここで起きている出来事が、
もっと大きな流れの一部であることを、
全員が理解した。
「……!」
悠斗が息を呑む。
「エウラ……
何か、知ってるのか?」
悠斗の問いに、
エウラはすぐには答えなかった。
代わりに、じっと悠斗を見つめる。
その視線は、肉体ではなく――
もっと奥、存在そのものを量るようだった。
「そうね」
やがて、静かに口を開く。
「悠斗、あなた……
もしかして、"足音"を聞いたことがあるんじゃない?」
一瞬、時が止まる。
「……なんで、それを」
悠斗の声が、わずかに強張る。
エウラは、確信したようにうなずいた。
「分かるわよ」
淡々と、だがはっきりと。
「"天使の足音"」
その言葉が、空気を冷やす。
「魂を把握し、魂に刻まれた記憶を盗み見、
その後、魂の隷属を強制するリネア」
悠斗の背筋に、悪寒が走る。
「……そうか」
エウラは、独り言のようにつぶやく。
「あなたの魂が“無い”のに、
それでも動けているのも……そのせいね」
悠斗の胸の奥で、
これまで積み上げてきた違和感が、一気に繋がる。
「それに……」
エウラの視線が、今度は結乃へ向く。
「結乃の魂と同化した原因も……
あいつのリネアのせい」
言い切る。
「故意にやったのか、
偶然だったのかは知らないけどね」
「……それが、“木”の?」
結乃が、喉を鳴らす。
「そう」
エウラは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、
次に、静かに告げた。
「今は……
アーサー・ヴェルレインって呼ばれてるのかしら」
その名に、
カシウスの表情が、わずかに変わる。
「でも、本来の名は――トマ・ジラール」
空気が、重く沈む。
「宗教団体《天啓和合会》の初代教祖」
一拍。
「そして……現教祖でもある」
言葉が、刃のように続く。
「理樹に選ばれたわけではなく、勝手に理樹と接続して力を得て」
「その力によって、信者を集め」
「信者から魂を吸い取り……
その記憶と力を、自分のものにする」
誰かの人生が、
部品のように扱われる光景が、脳裏に浮かぶ。
「そして――」
エウラは、ゆっくりと顔を上げた。
「自分を、神だと自称する」
声が、冷たくなる。
「傲慢の化身」
断罪でも、感情でもない。
ただの事実としての定義。
「……その人よ」
※※※
ぺたっ。
ぺたっ。
――聞こえる。
近づいてくる。
確実に、こちらへ。
怖い。
怖い。
「……結乃さん……」
声にならない声で、美沙は名前を呼ぶ。
ベッドの上で、身を丸める。
布団を頭まで引き上げ、ぎゅっと抱きしめる。
薄い布一枚が、世界との境界だった。
ぺたっ。
ぺたっ。
足音は、止まらない。
廊下の奥――
扉の向こう――
もう、すぐそこ。
呼吸が浅くなる。
心臓の音が、足音よりもうるさい。
見たくない。
でも、目を閉じるのも怖い。
「結乃さん…悠斗さん…助けて…」
※※※
「……今日も」
低い声が、静かな空間に落ちる。
「トマ様の為に」
祈るように、
いや――捧げるように。
「トマ様の為に」
繰り返される言葉。
感情はない。
疑問も、迷いもない。
ただ、信仰だけがそこにある。
「……トマ様……」
蝋燭の火が揺れ、
人影が、床に長く伸びる。
跪くその姿は見える。
だが、顔は分からない。
誰なのかも。
なぜ祈っているのかも。
分かるのは、ただ一つ。
――この祈りは、
誰かを救うためのものではない。




