――第7話 静寂の中の光――
ガァン!!
ガギィィン!!
ドゴォッ!!
男は、何度も杖を悠斗に叩きつけた。
だが、そのすべてを——
悠斗を守る黒いイバラが、ことごとく止める。
金属音と鈍い衝撃音が、狭い空間に何度も反響した。
数十回に及ぶ暴力の末、
ついに男の動きが止まる。
「……ふむ」
杖を下ろしたまま、男は呟いた。
「発動条件は……『死』、か」
そして、わずかに口元を歪める。
「……ならば、趣向を変えるか…」
そう言って、男が取り出したのは――”瓶”だった。
どこにでもある、ジャムでも入っていそうなガラス瓶。
だが、その中身は、決して甘いものではない。
黒い塊がうごめき、羽音が重なり合って、
瓶の内側で不快な渦を作っている。
―――目を背けたくなるほどの”ハエ”が、びっしりと詰め込まれていた―――
「ひっ……」
思わず、喉から声が漏れた。
何をされるのかは、まだわからない。
だが、それを見た瞬間、
ろくなことにならないという確信だけが、背筋を這い上がる。
見るもおぞましい、無数のハエ。
ぎっしりと詰まり、逃げ場もなく、ただ、そこに“溜め込まれている”。
ぽんっ
軽い音とともに、瓶の蓋が開いた。
それでも、ハエは外へ飛び立たない。
まるで、主人の合図を待つかのように。
今か、今かと待ち侘びながら、不快な羽音だけをなびかせ、瓶の縁で、じっと蠢いている。
「これを……貴様の腹に、突き刺す」
男は、淡々と告げる。
「貴様の身体は……蟲どもの、苗床となる」
低く、途切れ途切れの声。
「蟲どもの時間を……加速し、
産卵、成長、死……
このサイクルを、何度も……繰り返す」
一拍。
「貴様の……そいつが、
どういう反応を……示すか」
赤い目が、細く歪む。
「……実に、楽しみだ」
そう言って、男は瓶を構え、悠斗の腹へと――突き刺そうとした。
いやだ。
いやだいやだ。
いやだ——————!!!!
気持ちが悪い。理解できない。そんなことをして、何になる。
生きたまま、体の内側からハエにたかられるなんて——
そんなの、絶対に、嫌だ。
泣き叫ぶ。
無駄だとわかっている。
それでも、叫ばずにはいられない。
”いやだ”、と。
喉が裂けても。
喉から血反吐を吐きながら、
それでも、叫ぶ。
そんな、あまりにも情けない悠斗を、男は感情のない目で見下ろしていた。
ざくっ。
無慈悲にも、男は瓶を——悠斗の腹へと、突き刺した。
瞬間、
主に許しを得た蟲たちが、歓喜の羽音を上げた。
温かい——「餌」へ。
黒い群れが、一斉に突入する。
ぶち、
ぶち、
ぶちぶちぶち……!
体の内側へと雪崩れ込んでくる異物が、容赦なく腹を食い破り、上へ、下へ、自由気ままに這い回る。
――――――――――――っ!
ああああああああああ!!
叫ぶ。
叫ぶと、
口から、鼻から、目から、
”ハエ”が溢れ出した。
これは——
自分の叫びなのか。
それとも、蟲どもの歓喜の声なのか。
もう、わからない。
苦しい。息ができない。
——いや、
そもそも肺は、すでに食い尽くされ、そこには、もう何も残っていない。
それなのに。
それでも。
死ねず、苦痛だけが、無限に続いていた。
その時、男が突然、声を上げた。
「はははははは――!」
耳障りなほどに、はっきりとした笑い声だった。
なにがそんなに可笑しいのか、理解できない。
男は愉快そうに叫ぶ。
「貴様……限定的ではあるが、“未来”を変えているな!」
指を突きつけるようにして、男は続ける。
「その能力――リネアだ。間違いない。
――だが、すでに現存するリネアの座はすべて埋まっている。
まさに【虚飾】のリネアだな!」
だははははは、と止まらない不快な笑い声
「私は貴様に、何もしておらん。
――それでも、貴様は死なない」
一瞬、笑みが消える。
「貴様は『死』という結果を書き換えている。
因果はそのままに、結果を消している!」
低く、獣のような声になる。
「答えろ。
『死』という結果を……
どこへやった――――――!?」
――――――どうでもいい。
そんなこと、どうでもよかった。
ははははははは!――――――
止まらない笑い声。
ははははははは!――――――
いい加減、うるさい。
黙れよ。
ははははははは!――――――
男を見上げ、にらみつける。
だが、男はもう――”笑っていなかった”。
耳障りな笑い声。
それは、”自分の声”だった。
目の前にいる、気味の悪い男と
まったく同じ笑い声が、
自分の喉から、無遠慮に溢れ出している。
ははははははは!――――――
止まらない。
止める理由も、必要も、もうどこにもなかった。
※※※※※
――静寂。
だが、それは決して安らぎではなかった。
この部屋を満たしている静寂は、耳を休めてくれる優しいものではない。
意識そのものを押し潰すような、重く、湿り気を孕んだ――音のない圧迫だった。
呼吸の音が聞こえる。
だが、それが自分のものだという実感がない。
肺は膨らんでいるはずなのに、その感覚はどこにも存在しなかった。
喉は空気を吸っているはずなのに、冷たさも、温かさも、何ひとつ伝わってこない。
あるのは、”呼吸をしているらしい”という、曖昧で、根拠のない事実だけ。
(……俺、生きてるのか……?)
何度目かも分からない問いが、濁った水面に投げ込まれた小石のように、音もなく沈んでいく。
ここがどこなのか。
なぜ、こんな場所にいるのか。
どれほどの時間が経ったのか。
――そのすべてが、
すでに輪郭を失い、ただ”分からない”という感覚だけが残っていた。
※※※※※
最初の頃は、まだ”時間”という概念が、生きていた気がする。
痛みが来る。
終わる。
次の痛みまでの間隔を測る。
その繰り返しで、なんとなく、昼と夜を把握していた。
それは、人間として最後に残された――“感覚の羅針盤”のようなものだった。
だが、ある瞬間から。
その羅針盤は、壊れた。
痛みが続く。
終わる。
だが、次の瞬間、”また”痛みが来る。
間隔が、ない。
終わりと始まりが、繋がっている。
区切りが消え、まるで円をなぞるように、絶え間なく、ひたすらに、痛みだけが巡り続ける。
(……もう……いい……)
心が、何度折れたのか分からない。
折れるたび、何者かの力によって、強制的に繋ぎ直される。
折れては戻され、戻されては、また折れる。
ただ、それだけの繰り返し。
心は、何度まで折れるのだろう。
一度?
二度?
百度?
――それとも、無限に?
考える意味すら、もうなかった。
もはや、知りたいとも思わなかった。
※※※※※
髪が、視界に落ちてきた。
――白い。
気づいた瞬間、なぜか妙に納得している自分がいた。
鏡などない。
だが、髪だけではないことは明らかだった。
爪は黒く変色し、
皮膚の感覚も、どこか遠い。
時折、指がかすかに震える。
――いや、震えるというより、不規則に、勝手に動いている。
自分の意思とは無関係な挙動。
(……もう、人間じゃないのかもしれない)
その考えに辿り着いた瞬間、なぜか、笑っていた。
乾いた笑いでも、哄笑でもない。
狂気に両足を突っ込み、そのまま水浴びでもするように、頭から――笑いをかぶっている感覚。
※※※※※
どれだけの時間が、経ったのだろう。
突然、音がした。
――足音。
遠くから、規則正しい靴音が近づいてくる。
硬い床を踏みしめる、乾いた音。
最初は、幻聴だと思った。
何度も、あった。
幻の足音。
幻の呼び声。
幻の救い。
助けを求めすぎた脳が、勝手に作り出した幻覚。
(……まただ……)
そう、思った。
だが――今回は、違う気がする。
足音は確実に近づき、影が廊下を流れ、
そして――
ぱんっ!!!
重い扉が、弾け飛んだ。
一気に、光が視界へなだれ込む。
眩しい。
――痛い。
それでも、それはひどく懐かしい“光”だった。
暗闇に慣れきった瞳が、焼けるような感覚を覚える。
その痛みですら、久しぶりに触れる“生”の刺激だった。
「祈!! 急いで!!
――こっちよ! 先生を見つけたわ!」
(……声……?)
結乃の声だ。
だが、まるで水中から聞いているように、遠く、ぼやけている。
音は届いているのに、意味が、追いつかない。
ただ“音の形”として、
耳に触れているだけだった。
「結乃様!
ここは危険地帯です!
とにかく真神様を……!」
祈の声も聞こえる。
だが、その声も、現実感がない。
(なんで……結乃が……?
ここは……どこ……?
夢……か……?)
思考が、繋がらない。
考えようとするたび、脳の奥が、焦げつくように痛む。
――肩に、温かいものが触れた。
(……あ……つい……)
その温かさが、自分の身体に触れた“人の体温”だと気づくまで、ずいぶん時間がかかった。
腕が回され、身体が、そっと持ち上げられる。
「先生……!
聞こえますか……?
もう大丈夫……!」
結乃の声が、胸に――いや、心臓の奥に、直接響いた。
意味は、まだ理解できない。
言葉として、掴めない。
それでも、その響きだけは分かった。
(……助かった……のか……?)
(……ああ……よかった……)
胸の奥に、小さな火が、ぽつりと灯る。
ゆっくりと広がり、温かさとなって、心を満たしていく。
それは、長い暗闇の中で、いつの間にか忘れていた感情だった。
その温もりに包まれた瞬間――
張りつめていた意識の糸が、ぷつりと、静かに切れた。
視界が、ゆっくりと黒に染まり、音が遠ざかり、身体が、ふっと軽くなる。
痛みも、恐怖も、すべてが、遠くへ流れていく。
(……これで……終わり……)
涙は、流れなかった。
ただ、穏やかな闇が、自分を抱きしめるように、静かに覆っていく。
そして――
真神悠斗の意識は、深い、深い闇の底へ、音もなく沈んでいった。




