――第17話 幻獣――
「……それが、”魔法”かい?」
感心したような声だった。
嘲りではない。かといって、称賛とも違う。
女は首をわずかに傾げ、周囲を見渡す。
立ち上がった氷の壁。
鋭角に削られた氷柱。
砕け散った破片が、きしり、と遅れて音を立て、床へと崩れ落ちていく。
空気は冷え切っているはずなのに、
そこに混じるのは、焦げた術理の匂い。
氷と焼失が、矛盾したまま同居していた。
「その威力の術理を使って……」
女は、指先で宙をなぞる。
「……まだ、生きている」
淡い興味が、言葉に滲む。
「どういう理屈なんだろうね」
術理の余波は、完全には消えていなかった。
空間そのものが、さきほどの衝撃を覚えているかのように、
微細な振動を残している。
壁も、床も、
そして――沈黙さえも。
「……あたしの」
一瞬、声の調子が変わる。
「ライオンちゃんに……」
低く、感情が沈む。
「……なんてことを、してくれたんだい」
その言葉が落ちた瞬間、
氷の破片が、最後の一つ、床に触れて砕けた。
女は、ゆっくりと視線を落とした。
そこにあったのは、倒れ伏す獣――
砕け、引き裂かれ、
原型をとどめないほどに破壊された、
巨大なライオン型の幻獣。
骨格は歪み、
筋肉だったものは裂け、
幻獣の残滓が、黒い霧のように立ち昇っている。
「……」
アールティは一瞬だけ、それを見つめ――
そして、興味を失ったように顔を上げた。
その顔に対して、結乃は、はっきりと言い切った。
「リネアがなければ……
あなた自身に、戦闘能力なんてないでしょ?」
一拍置き、冷静に続ける。
「仮に、何かしらの術理があったとしても。
術理士として――
私たちに勝てると、本気で思っているの?」
視線を逸らさない。
「……降参しなさい」
事実を突きつけた上での、最後の宣告だった。
その言葉が、場に落ちる。
だが――
「……甘いわね」
返ってきた声は、低く、静かだった。
「そんな悠長なことを言っていると……」
一瞬、女の口角が上がる。
「いつか、足元を掬われるわよ」
「――その通りじゃ」
即座に、別の声が重なった。
低く、重い、老練な声。
次の瞬間だった。
背後から、
風を切る音すら置き去りにして――
カシウスの剣が、迷いなく女――アールティの背を貫いた。
一直線。
寸分の狂いもない、必殺の一突き。
だが。
――手ごたえが、おかしい。
肉を断つ感触が、ない。
骨を砕く衝撃も、ない。
剣先が触れたのは、
粘つく空気のような感触だった。
「……?」
カシウスの眉が、わずかに動く。
その瞬間。
貫かれているはずのアールティの身体が、
ゆらりと揺れた。
アールティの足元から、黒いものが、音もなく立ち上がった。
それは影のようでいて、影ではない。
蛇のように、粘りを帯びた輪郭を持ち、
とぐろを巻きながら、彼女の周囲をゆっくりと覆い尽くしていく。
次の瞬間。
カシウスの剣が、その中へ――
ずぶりと、吸い込まれた。
「……ぬ?」
思わず、困惑の声が漏れる。
直後、
じゅ、と
金属が溶け落ちるような、嫌な音が響いた。
剣は、抵抗する間もなく、
黒に飲み込まれ、
形を失い、
――消えた。
折れたのでも、砕けたのでもない。
存在そのものが、削り取られたかのようだった。
カシウスは即座に剣を手放し、後方へ跳ぶ。
距離を取りながらも、その視線は、なおも黒へと釘付けになっている。
「……ぬー……」
剣を失ったことよりも、
“飲み込まれる過程”そのものが、気になっている様子だった。
名残惜しそうに、
黒いとぐろが静かに収束していくのを見つめる。
結乃は、その光景を見て、眉をひそめた。
「……なに? あれ?」
声は小さい。
だが、その疑問は、この場にいる全員が抱いていた。
――あれは、幻獣なのか。
――術理なのか。
――それとも、まったく別の“何か”なのか。
視線の先。
アールティの足元で、黒いとぐろが不自然にうねっている。
「……蛇みたいだな」
悠斗の呟きに、即座に答えが返ってきた。
「そうよ」
アールティは、どこか誇らしげに口角を上げる。
「この子は、ナーガ。
“蛇ちゃん”って呼んでるわ」
次の瞬間。
影が、ほどけるように形を変えた。
現れたのは、鱗に覆われた長大な蛇の幻獣。
濡れた黒曜石のような体表が、かすかな光を反射し、
黄金色の瞳が、瞬きもせずこちらを見据えている。
「この子はね――
あたしを守ってくれる、いい子なの」
アールティは、慈しむように手を伸ばした。
指先が鱗に触れると、ナーガは抵抗もなく、静かに身を寄せる。
それは主と使役獣というより、
長い時間を共に過ごしてきた生き物同士の仕草だった。
「でも、攻撃能力はないの」
あっさりと、事実を告げる。
「だから普段は、ライオンちゃんを使ってたんだけど……」
視線が、床に散らばる残骸へと戻る。
砕け、引き裂かれ、もはや幻獣だった痕跡しか残らない獣。
「……やられたさね」
肩をすくめるその仕草は、驚くほど軽い。
「まさか、ライオンちゃんを倒す術理士がいるなんて」
小さく息を吐き、唇を歪める。
「……思ってもみなかったよ」
くすり、と笑う。
その表情にあったのは、
敗北の悔しさではない。
――純粋な、興味。
「術理士ってさ、物理的な攻撃には弱いでしょ?」
アールティは、楽しげに肩をすくめた。
「基本的には――
ライオンちゃんには、勝てないんだけど」
一拍。
その目が、細くなる。
「……じゃあ、これからは」
唇が、愉悦に歪んだ。
「術理戦を、しましょうか」
名を呼ぶ。
「――鳥ちゃん。
――巨人ちゃん」
そして、宣言する。
「……ダンスをしましょう」
その瞬間。
二つの異なる気配が、同時に顕現した。
――轟、と突風。
空を裂くように現れたのは、
小屋一軒を覆い尽くすほどの巨大な翼。
金属のように硬質な嘴。
刃のように鋭い羽毛。
羽ばたくたび、空気が引き裂かれ、
遅れて衝撃が地上に叩きつけられる。
上空で、翼が広がる。
琥珀色の眼が、
獲物を見下ろしていた。
そして。
地面が、割れた。
岩と筋肉で構成された、人型の巨躯が、
地の底から立ち上がる。
皮膚には術式の文様が刻まれ、
脈打つたび、淡く光を放つ。
四つの眼が、同時に獲物を捉え――
一歩、踏み出す。
それだけで、地面が沈んだ。
圧力そのものが、形を持った存在。
さらに。
すでに場を支配していた影が、ゆっくりと動く。
地を這うように現れたのは、
人の胴ほどもある太さを持つ、長大な蛇の幻獣。
濡れた黒曜石のような鱗が艶を放ち、
動くたび、擦れる音が静かに響く。
頭部が、人の腰ほどの高さまで持ち上がり――
黄金色の瞳が、
瞬きもせず、こちらを見据えた。
「……なんてこと……」
結乃の喉から、掠れた声が漏れた。
「一体だけでも……やっと……
六重奏術式で、倒したのに……」
視線の先には、なお健在な三体の異形。
「……さらに……三体……?
……くっ」
歯を食いしばる。
術理を幾重にも重ね、
無理やり成立させた六重奏術式。
反動を魔法で抑え込んだとはいえ、
その代償は、確実に身体へ残っていた。
肺の奥が、ひりつく。
心臓の鼓動が、わずかにズレる。
立っているだけで、重力が増したかのように重い。
――それでも。
結乃は、さらに強力な術理を組もうとする。
無理だ。
頭では、はっきりと分かっている。
六重奏術式の反動は、
まだ、まったく抜けきっていない。
手が、凍りつくように冷たい。
血が、指先まで届いていない感覚。
指を動かそうとしても、
わずかに遅れて、ようやく従う。
術理核が――
思うように、制御できない。
(……制御が、完璧なら)
一瞬、悔恨がよぎる。
(……魔法が、理想通りに発動していたなら)
本来、
こんな反動が出るはずはなかった。
だが。
(……今は)
そんなことを、言っている場合じゃない。
「……核が……ぶっ壊れても……」
結乃は、震える手で術式を組み直す。
呼吸を深く、浅く刻みながら、
意識を一点に集中させる。
――術理核の、さらに奥。
そこへ、無理やりエネルギーを押し込んだ。
ぎしり。
内側で、何かが軋む感覚。
ひびの入った器に、水を注ぎ続けるような危うさ。
溢れる。
割れる。
壊れる。
どれも、もうすぐそこだと分かっている。
それでも――止めない。
「……やるしか……ないわね」
声は小さい。
だが、その中に、逃げ場は一切なかった。
次の瞬間。
「やっほー」
――軽い。
あまりにも、軽い声だった。
結乃の集中が、強制的に引き剥がされた。




