――第14話 強欲の誘い――
「アールティ、じゃと」
その名を口にした瞬間、
カシウスの周囲の空気が、目に見えないほどに引き締まった。
じり、と。
足裏で石床を噛みしめるように、半歩、間合いを詰める。
「土が、ここに何の用じゃ。
貴様、金の奴とやり合っていると聞いていたが」
低く、押し殺した声。
警戒と敵意が、刃のように滲んでいた。
アールティは、そんな緊張を鼻先で弾くように、ふん、と笑った。
「ふん。あの金髪クソ男なら、追ってる最中よ」
唇の端を歪め、吐き捨てる。
「いずれ――ぶち殺してやるわ」
言葉に、ためらいはない。
それは未来の予定を語る声だった。
「それより、よ」
視線を切り替える。
獲物を探す猛禽のように、空気を裂く。
「奴を追ってる途中で、邪魔が入ってね。
そいつらを殲滅してるうちに――これを見つけたのさ」
アールティの視線が、ゆっくりと持ち上がる。
十字架。
礼拝堂の奥、沈黙の中心に据えられたそれ。
「今は、この“アルカナ・リミナ”のほうが、気になってんだよ」
見上げるその目は、信仰を仰ぐものではない。
「まさか、TIMMAが管理している門の一つが、こんなところにあるとはね」
指先が、無意識に動く。
土を掴み、砕き、作り替える――そんな癖が、抑えきれずに滲む。
「しかも、アーサーのやつに出し抜かれて、所有権を奪われるなんてさ。
……間抜けな話だ」
ははっ。
乾いた笑いが、礼拝堂の天井に跳ね返った。
「……なら」
その笑いを切り裂くように、結乃が口を開いた。
「――あんたはもう、ここに用はないってことじゃないの」
感情の波はない。
事実を述べるだけの声。
「用なら、“今“できたわ」
アールティは、即答した。
「……何ですって?」
結乃の眉が、わずかに動く。
「そこの彼」
アールティの視線が、悠斗を捉える。
逃げ場のないほど、正確に。
「命知らずに、エウラのために命を張るバカ。
あんた――アーサーに狙われてるわよ」
空気が、凍った。
「……なに?」
悠斗の喉が、ひくりと鳴る。
アールティは、愉しげに目を細めた。
魅惑的で、同時に捕食者のそれ。
「あんたさ」
声が、妙に低くなる。
「――“足音”、聞いたこと、あるんじゃない?」
「……」
悠斗は、答えなかった。
「……先生?」
結乃が、横から顔を覗き込む。
その声に、微かな不安が混じる。
(足音――)
脳裏に蘇る。
(あのときの、足音。
背後に、張りつくような。
ペタ、ペタと、濡れた何かが地面を打つ音。
逃げても、止まっても、一定の距離を保ってついてくる――)
ぞわり、と背筋を冷たいものが撫でる。
(……あれと、“木”は、関係あるのか)
悠斗は、視線を落とし、わずかに眉を寄せた。
思考が、静かに沈んでいく。
「……その足音は、アーサーのリネアだよ」
言葉を選ぶように、アールティはゆっくりと続ける。
「確か……“天使”だったかね。
アーサーのリネアの影響を受けている人間には、その足音が聞こえる。
――アーサーのリネア、その“天使”の足音さね」
悠斗の脳裏には、あの感覚が蘇っていた。
見えないのに、確実に“そこにいる”という確信。
逃げ場を奪うような、一定の距離感。
アールティは、満足そうに口角を上げる。
「そう。理解が早いね」
そして、間を置かずに言った。
「あたしが、助けてやる」
――は?
空気が、一瞬、止まる。
聞き間違いか。
今、確かに“助ける”と言ったのか。
「……どういうことかしら」
結乃の声は、低かった。
感情を抑え込もうとして、逆に刃のように尖っている。
アールティは肩をすくめる。
「あたしなら、そのリネアを無効化できる。
アーサーをぶっ殺すっていうなら、それも手伝おう」
まるで、条件のいい取引を提示する商人のように。
「どうだい?」
悠斗は、即答しなかった。
視線を上げ、真正面からアールティを見る。
「……見返りは、なんです?」
一瞬。
アールティの頬が、わずかに赤く染まった。
「エウラよ」
その名を口にしたとき、声音が、妙に柔らぐ。
「……ん?」
悠斗が、思わず間の抜けた声を出す。
「エウラを、あたしにちょうだい」
言葉は、はっきりしていた。
迷いも、照れも、隠そうとしない。
「あたしは、エウラのことが好きなの。
あの可愛い目。あの声。あの存在そのもの」
陶酔するように、目を細める。
「あなたと一緒なら、あの子のリネアのリスクを無効化できるって聞いたわ。
……素晴らしいわ…」
だからね、と、囁くように続ける。
「あの子と、そして、あなた。
二人とも、私の元に来なさい」
距離が、詰まる。
言葉が、肌に触れるように近い。
「来てくれるなら――
私の体も、好きにしていいわ。
愛情も、執着も、全部。あなたにあげる」
その瞬間。
「――ふっざけたことを!!」
結乃の声が、礼拝堂に叩きつけられた。
怒りが、抑えきれずに溢れ出している。
「アンタ!
エウラを兵器にする気でしょうが!
先生の力を使って、自分はエウラの影響を逃れて――
周りを全部、廃墟にしたいだけでしょうが!!」
感情そのものが、刃になっていた。
カシウスも、重々しく口を開く。
「……貴様は、長年、金の奴と争っている」
低く、断じる声。
「奴を葬る手段として、エウラを利用したい。
――そうじゃな?」
一拍。
「じゃが、諦めろ」
剣を床に、こつりと鳴らす。
「悠斗が、その条件を呑むことはない。
わしは、この小僧の頑固さを――身に染みて知っておる」
はぁ、と。
長い溜息が、老獪な重みを帯びて落ちた。
空気は、張りつめたまま。
だが、はっきりと――
ここで何かが、決裂したのが分かった。
悠斗は、短く息を吐いてから言った。
声は静かだが、揺れはない。
「……まあ、他人に言われると変な感じだけどね。
そういうことだ」
視線を逸らさず、真正面からアールティを見る。
「エウラを傷つけるっていうなら――
あなたの誘いに乗ることは、絶対にない。
諦めてくれ」
その言葉が落ちた瞬間、
アールティの表情が、わずかに歪んだ。
眉がひそめられ、口元が不満げに吊り上がる。
「……エウラのことが好きなのは、本当よ?」
言い訳のようでいて、どこか断定的な声音。
「お人形さんみたいで、整ってて。
あの子は――観賞用としても、最高じゃない」
恍惚とした表情が、はっきりと浮かぶ。
その目には、人を見る温度がなかった。
――やっぱり、話にならない。
悠斗の胸に、冷たい諦念が落ちる。
(リネア使いって……こんなのばかりなのか)
アーサーのことは気になる。
足音の正体も、放ってはおけない。
それでも――この女の誘いを受ける理由は、どこにもなかった。
「……悪いが、信じられない」
きっぱりと、切る。
「諦めてくれ」
「……そう」
アールティは、一度だけ肩を落とした。
本当に引き下がったように見えた。
だが。
次の瞬間、
その目が、鋭く細められる。
「でもね」
声が、低くなる。
「あたし、欲しいと思ったら――諦められなくてさ」
一歩、前へ。
「あなたとエウラ。
必ず、貰い受けるわ」
ぞくり、と空気が震える。
「殺しはしないから、安心してちょうだい」
にこり、と笑う。
「……まあ。
死ぬほど痛い目には、遭うかもしれないけどね」
その言葉と同時に。
しゃら、と布が擦れる音。
アールティは、ドレスの内側から――
鈍く光る短剣を、すっと引き抜いた。
刃に宿る気配が、ただの金属ではないと告げている。
死のダンスに誘う魅惑の踊り子が迫ろうとしてくる。




