――第9話 交換条件――
生徒会室の前は、
放課後にもかかわらず、ひっそりと静まり返っていた。
扉の前で、結乃は一度だけ深呼吸する。
そして、軽くノックした。
「どうぞ」
落ち着いた声が返ってくる。
扉を開けると、
机に向かい、書類を整理している少女がいた。
平田梨花。
肩にかからない黒髪をきっちりまとめ、
制服にも一切の乱れはない。
キリッとした視線が、こちらを一瞬で値踏みするように動いた。
「……何か御用ですか?」
丁寧だが、明確な距離を感じさせる声。
「二年B組の久我結乃です。
少し、お時間いただけますか」
「内容によります」
即答だった。
結乃の背後に立つ美沙へ視線を移し、
梨花はわずかに眉を動かす。
「……斎藤先輩、ですね。
市長のお嬢さん」
美沙が小さく頭を下げた。
「失礼ですが」
梨花は椅子に座ったまま続ける。
「生徒会の用件には見えませんね。
それとも、特別枠のご相談でしょうか」
刺すような言い回し。
「佐橋裕也の件よ」
結乃は、前置きをしなかった。
梨花の手が、ほんの一瞬止まる。
「……どういう意味ですか」
「先輩と話がしたい。
正式な場じゃなくていいわ」
「それは」
梨花は眼鏡を押し上げる。
「生徒会書記である私が、
独断で取り次げる話ではありません」
「でしょうね」
結乃は素直に頷いた。
「でも、あなたなら会長のスケジュールを把握している。
会わせてくれるだけでいいの」
梨花は、じっと結乃を見つめる。
「……久我さん」
「噂は聞いています。“普通じゃない生徒”」
声が、わずかに冷える。
「ですが、校内の人間関係に
外部から割り込まれるのは、正直好ましくありません」
「無理にとは言わないわ」
その一言で、
梨花の視線が、ほんの少し揺れた。
沈黙。
時計の針の音だけが、生徒会室に響く。
やがて、梨花は小さく息を吐いた。
「……生徒会長は」
「今の時間、放課後で
体育館倉庫の確認に行っています」
「単独で。十分ほど」
それだけ告げると、
再び書類へ視線を落とした。
「それ以上は、言えません」
「十分よ」
結乃は短く答える。
「ありがとう、平田さん」
扉を閉める、その直前。
「……先輩を困らせたら」
梨花が、ぽつりと付け加えた。
「私は、敵に回りますから」
結乃は振り返らず、
わずかに口元を緩める。
廊下に出ると、
美沙が小さく息を吐いた。
「……怖い人ですね」
「有能な人よ」
結乃は歩き出しながら言う。
「だからこそ、頼る価値があるんじゃない?」
二人は並んで、
静かな廊下を進んでいった。
※※※
放課後の体育館裏は、人の気配が薄かった。
夕方の冷えた空気が、コンクリートに溜まっている。
倉庫の前で、
佐橋裕也は一人、鍵を手にしていた。
背は高く、肩幅も広い。
バスケ部のユニフォームではなく、きちんとした制服姿でも、
その体格の良さは隠せない。
動きに無駄がなく、
立っているだけで周囲の視線を集めるタイプだ。
「……佐橋先輩」
結乃の声に、彼は振り返る。
「ああ、確か……久我さん、だね」
柔らかな笑顔。
誰にでも分け隔てなく向ける、生徒会長の顔。
「どうしたの? こんなところで」
「少し、お話があって。
時間、いただけますか」
「いいよ」
佐橋は即答した。
「倉庫の確認も終わったし、
立ち話でよければ」
結乃の隣にいた美沙が、
緊張した様子で一歩前に出る。
「……斎藤です。突然すみません」
佐橋は一瞬だけ美沙を見つめ、
すぐに穏やかな表情へ戻った。
「ああ、斎藤さん。
もちろん覚えてるよ」
その言い方は、ごく自然だった。
美沙の頬が、わずかに赤くなる。
「単刀直入に言います」
結乃が切り出した。
「美沙先輩が、最近ストーカー被害に遭っています」
佐橋は眉を寄せる。
「……警察には?」
「相談中です。
でも、被害が出ないと動けないと」
「それで?」
佐橋は、困ったように笑った。
「依頼をしたいんです」
「依頼?」
不思議そうに首を傾げる。
「はい。
佐橋先輩のご家業は、探偵事務所だと聞きました」
「ですから、これは正式な依頼です。
彼女のストーカーを突き止めてください」
佐橋の目が、わずかに細くなる。
「……なるほど」
一拍。
「条件がある」
結乃の表情が、ほんの少し曇った。
「ストーカーを突き止めたら」
「僕と、食事に行ってくれないか」
一瞬、空気が凍りつく。
美沙の顔が引きつった。
「なにを……」
結乃の表情が、怒りで歪む。
歯を食いしばる音が聞こえそうだった。
「君のことは、前からいいなと思っていたんだ」
「久我家のご令嬢」
佐橋は、あくまで爽やかに言う。
「他意はないよ。
今後の“コネクション”を作っておきたいだけさ」
ぞわり、と背中に寒気が走る。
「……いいわ」
結乃は、うつむいたまま答えた。
「一回だけ。
それ以上は、付き合うつもりはありません」
「いいとも」
佐橋は、楽しそうに笑う。
「楽しみにしているよ――結乃」
その瞬間。
「佐橋先輩」
「ん?」
結乃は顔を上げ、
静かに、しかしはっきりと言った。
「私のことを“結乃”と呼び捨てにしていい男性は」
「心に、決めています」
「やすやすと呼ばないでください」
佐橋は肩をすくめる。
「嫌われたもんだね」
「まあいい。依頼はこなすよ」
「“必ず”ね」
「君も、約束は守ってもらう」
にこやかにそう言うと、
佐橋は踵を返した。
「それじゃ」
その背中を見送りながら、
美沙が小さく呟く。
「……結乃さん……」
「……何も言わないでください」
結乃は唇を噛みしめた。
夕暮れの体育館裏に、
冷たい沈黙だけが残っていた。




