――第8話 岩海県立聖嶺高等学校――
2026年2月10日 火曜日 8:30
結乃の通う岩海県立聖嶺高等学校は、
創立から百年以上の歴史を持つ進学校だった。
プロテスタント系の理念を基に設立されており、
校内には小さな礼拝堂がある。
週に一度、生徒たちはそこで短い礼拝を行うが、
信仰を強制されることはない。
校舎は古さと新しさが混在し、
落ち着いた雰囲気が漂っている。
生徒は真面目な者が多く、
学業を重んじる校風が根付いていた。
派手さはないが、
長い歴史に裏打ちされた、静かな名門校――
それが岩海県立聖嶺高等学校だった。
結乃がこの学校に通っている理由は、
ただ――家から近かったから、というだけだ。
生きる気力を失っていたあの頃、
深く考える余裕もなく選んだ学校。
だから、この校舎に対して特別な思い入れはない。
将来はTIMMAで、
両親の研究を引き継ぐつもりだった。
大学に進学するつもりも、当初はなかった。
最近は、少しだけ悠斗の影響で
大学という選択肢にも興味を持ち始めたが、
進学したところで、その先にやりたいことが見えない。
結局、考えるのをやめてしまった。
そんな思い入れのない校舎へ、
結乃は今日も車で登校してくる。
黒塗りの車から降りてくるその姿は、
否応なく目を引いた。
「お嬢様」として、
すっかり学校の注目の的になっている。
校舎前で車を降りた瞬間、
「結乃!」
と、元気な声が飛んできた。
手を振りながら近づいてくるのは、
同じ二年B組の白石由里だ。
少し早足で、
何でもないように笑顔を向けてくる。
明るいが、どこか落ち着いた雰囲気の少女だった。
由里は、一年生の頃から結乃を知っている。
生きる気力を失い、
どこか遠くを見ていた結乃の隣に、
理由も聞かず、ただ一緒にいてくれた存在。
励ますことも、責めることもせず、
「今日も来たね」と当たり前のように声をかける。
それだけで、結乃を支え続けてきた。
今でも由里は、
結乃の顔色を一瞬で見抜く。
必要なら、何も言わず、そっと隣に立つ。
――親友。
その言葉が、いちばん似合う少女だった。
「おはよー。今日も早いじゃん」
「たまたま」
結乃が、そっけなく返す。
「絶対たまたまじゃないでしょ。
車通学はいいですなー」
「はいはい」
由里は笑いながら、結乃の横に並ぶ。
「ねえ、今日の英語の小テスト、やった?」
「……まあね」
「由里は?」
「昨日の夜に焦ってやった。
もう忘れた」
「意味ないじゃない」
「でも、やらないよりマシ」
そんな会話をしながら、
校舎の入り口が近づく。
「今日、放課後暇?」
「なんで?」
「パローレ行かない?
ほら、結乃、前に行きたいって言ってたじゃん」
「あー……ごめん。今日は用事があって」
結乃はそう言って、
申し訳なさそうに手を合わせた。
「へー」
由里は、じっと結乃を見つめる。
「今日も彼氏ー?
結乃、真神先生大好きだもんねー」
もう、この手のいじりには慣れている。
「はいはい。
先生が好きなのは否定しないけど、
今日は違う用事なの」
「ほう?」
由里が、にやりと反応する。
「否定しないんだ」
「……はあ」
結乃は、ため息をついた。
「でも、先生は、私に興味ないの。
アピールしても、全然靡かないし」
「それどころか、
どこの馬の骨か分からない女の子の相手ばっかりして……
この前も……」
イライラが頂点に達しそうになり、
結乃は言葉を切った。
「大変そうだねえ」
由里は、いたずらっぽく笑う。
「弁護士なんてモテるでしょ。
今まで、彼女もたくさんいたんじゃない?」
「……う゛」
結乃は、露骨に嫌そうな顔をした。
考えないようにしてきたことだ。
(先生は、モテる。
なのに、今は女っ気がまったくない……
そこが、どうにも引っかかる)
「……もう」
結乃は小さく唸る。
他愛もない会話を続けながら、
二人はそのまま校舎の中へ入っていった。
※※※
校舎に、
キーンコーン、カーンコーン……
放課後を告げるチャイムの音が、長く響き渡った。
二年B組の後方、
窓際から二つ内側の席に、
三枝康太はいた。
短めに整えた髪に、少し大きめの学ラン。
椅子に深く腰を掛けたかと思えば前のめりになり、
次の瞬間には背もたれに反り返る。
とにかく、落ち着きがない。
いつも誰かと話しているか、
誰かの話を聞いているか。
それが、三枝康太という男だった。
校内の噂話――
誰と誰が付き合っているだとか、
先生がどこで見られたとか、
そういった類の話は、
だいたい一度、この男を経由する。
「なあなあ、それ聞いた?」
が口癖で、
本人は悪気なく首を突っ込むが、
肝心なところではひどく臆病だ。
結乃のことは、
必ず「久我さん」と敬称付きで呼ぶ。
チャイムが鳴り終わると、
教室は一気に放課後のざわめきに包まれた。
その中で、
結乃は静かに立ち上がる。
(……行くか)
机の間を抜け、
迷いなく三枝の席へ向かう。
三枝は、
近づいてくる結乃に気づいた瞬間、
分かりやすく背筋を伸ばした。
「え、あ、久我さん?」
声が、少し裏返る。
結乃は立ったまま、
落ち着いた声で言った。
「三枝くん。
ちょっと、話あるんだけど」
その一言で、
三枝の顔から余裕が消えた。
「え、えええ?
な、何でしょうか……?」
周囲のクラスメイトたちが、
ひそひそと視線を向ける。
だが結乃は、
気にした様子もなく淡々と続けた。
「心配しなくていい話。
放課後、少しだけ」
三枝はごくりと喉を鳴らし、
何度も頷く。
「は、はい……!
もちろんです……!」
それだけ告げると、
結乃は踵を返した。
背後で、
「俺、何かやったっけ……」
と呟く声が聞こえたが、
結乃は気にせず、そのまま教室を後にした。
※※※
結乃は鞄を肩にかけると、
何でもないふうを装って席を立った。
廊下に出ると、
少し先で待っていた美沙と合流する。
「……お待たせしました、先輩」
「ううん。今出たところ。行こ」
二人で並んで歩き、
向かった先は昇降口近くの自販機前だった。
そこに、壁にもたれてスマホをいじっている
三枝康太の姿がある。
「……あ」
結乃に気づいた瞬間、
三枝の肩がわずかに跳ねた。
「く、久我さん……ど、どうも……」
「それに、えっと……確か……斎藤市長のご令嬢の……」
声が、一段高い。
「三枝」
結乃は単刀直入だった。
「佐橋裕也を繋いでほしいの」
隣に立つ美沙を、軽く示す。
「えっ」
三枝は即座に首を振った。
「いやいやいや無理無理無理無理ですって!」
「佐橋さんですよ!? 生徒会長!」
「僕が間に入ったら即死しますから!」
「即死はしないわ」
「たぶん」
「たぶんって言いましたよね今!?」
三枝は一歩後ずさる。
「……じゃあ、代案を頂戴」
結乃が言う。
「あなたなら、何かいい案があるんじゃないの?」
三枝は少し考え、
ふっと表情を変えた。
「なら――」
「平田梨花、ですね」
「平田?」
結乃が聞き返す。
「2年C組、生徒会書記です」
「佐橋さんの右腕みたいな人で」
「スケジュールも人間関係も、だいたい彼女が握ってます」
「……繋げるなら、そこが一番安全です」
「久我さんが行けば、話は聞いてくれます」
「僕が行くより、百倍マシです」
結乃は少し考え、
ふっと口元を緩めた。
「なるほど」
「ありがとう、三枝」
「い、いえ! お役に立てたなら何よりで!」
三枝は、深く頭を下げる。
「……あの」
去り際に、
小さく付け加えた。
「佐橋さんの周り、最近ちょっと空気変です」
「それだけ、気をつけてください」
結乃は立ち止まり、
一瞬だけ三枝を見る。
「覚えておくわ」
二人は、そのまま歩き出した。




