――第6話 壊れゆく人間――
意識の底で、水の膜を破るように――ゆっくりと目が覚めた。
最初に感じたのは、湿り気を帯びた空気と鉄の匂い。
そして、背中に押しつけられる無機質な冷たさだった。
(……ここ、どこだ……?)
視界はまだぼやけている。
天井の蛍光灯が薄暗く点滅し、白い光が滲んでいた。
身体を動かそうとした瞬間、違和感に気づく。
——腕が、動かない。
両腕は背後で縛られ、金属製の椅子に強く固定されていた。
足には重たい枷。
関節の一つ一つが鈍く疼き、何度も打ちつけられた痕跡が生々しく残っている。
意識が完全に浮上すると同時に、理由のわからない恐怖が胸を締めつけた。
「……ここは……」
「目が……覚めたか」
低く、湿った声。
コンクリートの床に長い影が伸び、その先から男が歩み出てくる。
顔を認識した瞬間、悠斗の思考は凍りついた。
灰色の肌。赤く光る目。
その奥から、不快な羽音の音が響いている。
——あの時の男だ。
「貴様に……聞きたいことは一つだ……」
ゆっくりと、言葉を選ぶような喋り方。
恐怖に支配されているはずなのに、ぼんやりとした頭は、現代人特有の緊張感のなさで口を開いていた。
「こんなやり方しなくても……普通に……聞けば……いいんじゃ──」
ばきッ!!
言葉の途中で、男の腕が振り抜かれた。
手にしていた棍棒のような杖が、容赦なく悠斗の頬を打ち据える。
衝撃が視界を白く染め、鈍い音とともに、頭の中が弾けた。
頭が横へ跳ね、首が軋んだ。
折れた――そう錯覚するほどの嫌な感触。
次の瞬間、口の中で何かが外れる。
カツン……
カラカラ……
硬い音を立てて、床を転がっていった。
前歯と、奥歯だった。
(あ……歯……)
熱い痛みは、まだ遅れている。
それよりも先に、自分の身体が壊されていく音だけが、はっきりと耳に残っていた。
悠斗は、これまでの人生で「身体が壊れる」という恐怖を味わったことがない。
——怖い。
その感情だけが、喉の奥で震えていた。
「話を……途中で遮るな」
男は淡々と告げる。
「口を……開くときには、気をつけろ」
男――の瞳が、わずかに細くなった。
「黒涙は、どこにある?」
「……は? なに……そへ……?」
意味が、まるでわからない。
コクルイ?こくるい?穀類?
――違う。
なんだそれは。何の話をしている。
「貴様は……久我家の……管理者だろ」
こいつは、久我家に関係する人間か。
結乃の両親と、何かしらの因縁があるのか。
だが――
頭は割れるように痛み、思考は霧に包まれている。
つながるはずの点が、まるで線にならない。
黒涙とやらについて話せば、助かるのか?
……いや。
知らない。本当に、知らない。
結乃からも、そんな言葉は一度も聞いたことがない。
(知らないことを、知らないって言って……何が悪いんだよ……)
折れた歯のせいで、舌がうまく動かない。
唾液と血が混ざり、言葉が崩れる。
「どこ……だ……」
バキッ!!!
問い直す余地すら与えず、次の衝撃が叩き込まれた。
脇腹に、鋭い突き。
——肋骨が、折れた。
そう理解するより先に、肺の空気が一気に押し出される。
息が、できない。
そのまま椅子ごと後ろへ倒され、後頭部を床に強く打ちつけた。
ガン、と鈍い音。
視界が揺れ、頭の内側が白くなる。
温かい液体が、額からこめかみへと流れ落ちた。
「し……しら、は……い……ほ……んほ……に……」
何を言っているのか、自分でもわからない。
情けない声だ、と思う。
だが、そんなことを気にしていられる状況じゃない。
「言え」
短く、命令だけが落ちてくる。
「……しら、はい!!」
叫んだ瞬間、足が振り下ろされた。
頭蓋が震えるような衝撃。
視界が白く弾け、
「「ああぁ!」」
遠くで、誰かの悲鳴が聞こえた——
そう思った直後、それが”自分の声”だと理解する。
自分の悲鳴も、男の声も、すべてがひどく遠い。
まるで、ガラス越しに起きている出来事のようだった。
「……良いだろう」
男は、妙に穏やかな声で言った。
「私には……”時間”だけはある」
一拍。
「……試してみたいことも、ある」
そして、ゆっくりと続ける。
「……付き合ってもらおう」
その声は、不気味なほど静かだった。
——そして、その静けさこそが、
ここから始まる“地獄”の正体だった。
※※※※※
時間の感覚は、ほどなく失われた。
※※※※※
男が指をかざす。
次の瞬間、悠斗の指先を、激痛が貫いた。
——爪が、ゆっくりと剥がれていく。
自分の身体から“外れていく”感触が、神経の奥へ、焼けた針のように流れ込んでくる。
「――――――っ!!」
声にならない音だけが、喉の奥から漏れ出た。
叫ぶ余裕すらない。
こんな痛みを、これまでの人生で味わったことはない。
一本。また一本。
剥がれるたびに、思考が白く塗りつぶされていく。
——十本すべてが失われた頃には、
涙も鼻水も垂れ流し、顔の形すらわからなくなっていた。
失禁していた。だが、羞恥は湧かなかった。
そんな感情を抱く余地は、もうどこにもない。
ただ、この苦痛から逃れる方法だけを——
意識の底で、必死に探し続けていた。
※※※※※
再び、男が指をかざす。
次の瞬間、悠斗の指が「みち、みち」と嫌な音を立てた。
——それが、自分の体から発せられている音だとは信じたくない。
激痛に耐えようと歯を食いしばる。
だが、歯はすでに何本も折れていて、力が入らない。
それでも踏ん張りすぎて、奥歯が”割れた”。
音の正体を理解した、その瞬間——
指が、手から離れた。
ぷつり、と。切断されたのだ。
「あああぁ!」
血が飛び、唾液に混じって割れた歯がポロポロと床に落ちる。
(……触れて……ないのに……)
どういう原理なのか、まったくわからない。
男は、ただ指をかざしているだけだ。
それだけで、こちらの肉体を破壊してくる。
その事実が、恐怖をさらに増幅させた。
(こいつ……話なんか……聞いてくれる気なんてないんじゃないか…)
ニュースや映画で見る拷問シーンなど、比べものにならない。
(拷問され、殺された人たちの恐怖は……
こういうこと……なのか……
これは……俺に与えられた……罰……か)
——そんな、場違いな思考が、頭をよぎる。
※※※※※
気絶すると、容赦なく冷水が浴びせられた。
息が詰まり、激しい寒気とともに意識が引き戻される。
※※※※※
悲鳴や嗚咽は、もう記憶に残っていない。
喉が裂けるまで叫んだのか、
そもそも声が出ていたのかすら、曖昧だった。
※※※※※
ただ、ひたすらに——
「次は、何をされるのか」
その恐怖だけが、生存本能をかろうじて繋ぎとめていた。
※※※※※
(死なせてくれ……頼むから……)
※※※※※
そう願っても。
※※※※※
「残念……だが、お前は……死ねん」
男は、淡々と言った。
「肉体と精神……この二つを壊れぬよう、調整してある。
お前は死ねず、壊れきれず……
どれほど痛めつけても、死ねない体だ」
一拍置いて、男は続ける。
「……素晴らしい……だろう?」
「……っ、あ……」
声にならない声が、ただ喉の奥で震えるだけだった。
さらに恐ろしいのは、壊れた精神が——勝手に修復されることだった。
心が折れ、砕け、泣き叫び、死にたいと願うほど崩れ落ちた、その瞬間。
男は、指先で悠斗の額に触れる。
「シングル・リストア 《メンタル・リチェイン》」
片言のように喋る男だが、その呪文だけは、異様なほどはっきりと発音した。
たったその一言で、感情の熱が一瞬にして凍りつく。
崩壊しかけていた精神は、何事もなかったかのように——“正常”へと戻される。
そして、また壊される。
また、直される。
それを、何度も、何度も。
(もう……なにが……なんだ……)
(わけが……わからない……)
※
どれほどの時間が経ったのか、わからない。
昼か夜かの区別も失われ、
世界の境界そのものが、溶けるように曖昧になっていた。
気づいたときには——
悠斗は、もはや“人間”の様子ではなかった。
髪は根元から雪のように白く変色し、再生した指先の爪は、異様なまでに黒く染まっている。
白目は闇のように黒く、黒目は赤く、不自然な光を宿していた。
顔の右半分には、縦に走る深い亀裂。
その奥から、脈打つように赤い光が漏れ出している。
(……なんだ……これ……)
(俺の……指……?)
黒く変質した自分の爪を見つめ、悠斗は思わず、息を呑んだ。
「……変質、か。珍しい」
男は、感情のない声で呟く。
まるで、壊れた器具を観察する研究者のように。
「まれに、人間は……拷問の過程で変異することがある。
記録では知っていたが……実際に見るのは、初めてだ」
興味深そうに視線を走らせながら、男は静かに杖を構える。
「最後の問だ。
黒涙は、どこだ?」
もう、悠斗には返事をする気力すら残っていない。
沈黙。
「……そうか」
男は、あっさりと結論を下す。
「では……廃棄処分とする」
冷たい宣告と同時に、杖が、頭めがけて振り下ろされた。
(……あぁ……やっと……終われる……)
恐怖は、まだある。
だが、この地獄の中では——“死”だけが、唯一の救いだった。
杖が、頭に触れ——
ガギィィィィン!!
金属同士が激しくぶつかるような音が響き、杖は、あり得ない角度で弾き返された。
「……?」
男が、怪訝そうに眉を寄せた。
原因は——悠斗自身だった。
右肩から、黒いイバラのようなものが盛り上がる。
それは、まるで第二の腕のように伸び、悠斗の全身を覆い、守るように、抱くように——包み込んでいた。
――これ以上、手を出すなーー
そう告げているかのように、その黒いものは、男の杖を弾き返している。
(……これ……俺から……?)
自分の身体から生えているという事実が、まだ現実として飲み込めない。
「ほう……」
男の声が、わずかに楽しげな低さを帯びる。
「貴様は……殺せぬようだ」
一瞬の間。
「……やめだ。
貴様には……別の用途ができた」
そう言い残し、男は一歩、また一歩と後退する。
そして、静かに扉へ向かった。
金属の扉が閉じ、重いロック音が、空間に響き渡る。
※
静寂の中、悠斗は自分の身体を見下ろした。
肩から伸びる、黒い“異形のイバラ”。
黒く変色した爪。
顔の亀裂から漏れ出す、赤い光。
そして——赤く発光する、その目。
(これ……俺の体じゃない……)
(俺じゃ……ない……)
泣こうとしても、もう涙は出なかった。
代わりに、胸の奥から、何かが、ゆっくりと沸き上がってくる。
(……死にたい……)
その言葉は、思考より先に口を動かしていた。
「……殺してくれ……」




