――第1話 戻ってきた日常――
2026年2月7日 土曜日 10:12
岩海県上賀市
久我家屋敷 西館一階 事務室
「ふー……」
悠斗はお気に入りのアンティークカップに口をつけ、
紅茶の香りを楽しみながら、
机に積み上げられた書類に目を落としていた。
久我家の財産関係、各種契約書、過去の帳簿――
いずれも一筋縄ではいかない量だ。
ここは久我家屋敷・西館一階の手前にある一室。
悠斗が久我家の管理人として業務を行うため、
事務室として借り受けた部屋だった。
不動産の管理。
資産運用の履歴。
細かく書き込まれた帳簿の数々。
「……正義さん、まさか、今まで自分でこれ全部やってたのか?」
思わず独り言が漏れる。
久我家の資産は、規模だけ見れば小さな企業並みだ。
それにもかかわらず、外部の管理会社や専門家をほとんど使った形跡がない。
「無理だろ、これ……」
ばさっと、資料を机に置く。
投げ捨てるほど乱暴ではないが、その気持ちはほとんど同じだった。
「僕一人で、この量の資産管理なんてできるわけがない」
そう言って、悠斗はポケットからスマートフォンを取り出すと、思いつく限りの知り合いに片っ端から連絡を入れ始めた。
「あ、須藤さん? ちょっと紹介してほしい人が何件かあって……ええ、保険の話? それも含めて検討します。よろしくお願いします」
通話を切る前に、すでに次の番号を押している。
「もしもし、加藤さん。不動産の管理をお願いできる会社を何社か探してまして」
さらにもう一本。
「あ、三輪先生。ご無沙汰しております。確定申告まわりで、ぜひお力をお借りしたい案件がありまして……」
とにかく、投げた。
久我家ほどの資産があるなら、管理はすべて外部に任せてしまえばいい。
収支さえ大きくマイナスにならなければ、それで問題はない。
正義たちが亡くなってからは、久我家の管理はほぼすべて祈が見ていたらしい。
形式上は悠斗が後見人に就任していたものの――
藍に捕まったり、
藍への対策で術理を学んだり、
エウラのもとに吹き飛ばされたり。
正直、まともに仕事をしているとは言い難かった。
だが今は体調も回復し、藍の脅威もひとまず落ち着いているという。
だからこそ――
「……さて」
悠斗は小さく息を吐き、机の上に積まれた書類を見据えた。
ようやく、本来の仕事に取りかかる時間が来たのだった。
――いつまでも、祈一人に負担を押し付けるわけにはいかない。
「先生ー。パローレってお店、知ってます?
あそこの紅茶、絶品なんですよー」
気の抜けた声が、事務室に響く。
「あ、そうそう。駅前にナインってショッピングモールができたんですって。
今度、一緒に行きましょうよー」
少し間を置いて、結乃は付け足す。
「先生、見た目も元に戻ったんですし、いいじゃないですかー」
そう言いながら、結乃は事務室のソファにだらしなく寝転がり、
雑誌をぱらぱらとめくっていた。
黄色の長袖シャツにショートパンツというラフな格好で、
すらりとした長い脚を、無遠慮に投げ出している。
――正直、目のやり場に困る。
仕事の最中であっても、結乃はこうして独り言のように悠斗に話しかけてくる。
―――確かに、悠斗の見た目は元に戻っていた。
黒く染まっていた白目の部分は白目に、白髪は黒髪に。
顔に走っていた亀裂も、すっかり消えている。
ただし、瞳の色だけは赤いままだが。
エウラのもとにいたときは気づかなかった。
だが、今思えば、あの姿は自分で見ても異様だったはずだ。
そういえば――
エウラも、カシウスも、誰一人として見た目について触れてこなかった。
結乃がエウラの小屋に突撃してきた、
あの朝に言われて、ようやく気づいた。
(……見た目がいつの間にか、治っていたなんて…)
悠斗はその時のことを思い出すが
目の前の少女の軽口にはすっかり慣れていた。
いつもの戯言だと割り切り、
特に反応もせず、再び書類へと視線を戻す。
そのとき――。
こん、こん、こん。
控えめなノックの音のあと、事務室の扉が開いた。
「結乃様」
祈が現れ、その両手には大量の色褪せた資料が抱えられていた。
「何度言えば分かるのですか。真神様の前で、そのような格好をしてはいけません。だらしないです」
ぴしりと注意しながら、祈は悠斗の前へ歩み寄る。
そして、まるで儀式でも行うかのように、資料の束をそっと上品に、悠斗の横のデスクへと置いた。
「真神様。こちら、久我家の過去五年分の契約書の資料になります」
悠斗は内心でうなずいた。
久我家に関する資料は、正義の書斎や祈の私室など、
あちこちに分散して保管されている。
それが、ずっと不便で仕方なかった。
だからこそ、こうして一か所にまとめる作業を、祈にも手伝ってもらっているのだ。
「ありがとう、祈さん。本当に助かるよ」
「いえ。何かあれば、いつでもお申し付けください」
そう言ってから、祈は一度だけ結乃に視線を向け――
「……」
はぁ、と小さくため息をついた。
「私はこれから庭の手入れに向かいます。何かあれば結乃様を伝書鳩代わりにお使いください」
そう言い残し、祈は静かに事務室を後にする。
結乃はそのやり取りなどまるで気にも留めず、
雑誌を一枚、また一枚と、のんびりめくり続けていた。
「先生」
結乃が雑誌を閉じ、こちらを見て声をかけてきた。
「なに? 鳩くん」
悠斗が軽く返すと、結乃はむっと頬を膨らませる。
「その呼び方、やめてください」
「祈さん公認だよ」
「……むー」
ひと呼吸置いてから、結乃は本題に入った。
「明日、TIMMAに行くんですってね」
悠斗の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
――エウラの一件のあと。
カシウスから手渡された、あの一枚の推薦状。
『わしの名を出せば話は早い。
所属する気があるなら、2月最初の日曜に理事会がある。出席しろ』
そう言い残し、あの男はさっさと去っていった。
「ああ。せっかくだしね」
悠斗は視線を資料から離さずに答える。
「なんで研究所じゃないんですか?」
結乃は、少し残念そうな顔をした。
研究所。
それは術理の理論構築や、
新しい術の開発に特化した部門だ。
「僕が今さら術理の研究を始めたところで、どうにもならないでしょ」
淡々とした声で、悠斗は続ける。
「僕に求められてるのは、そっちじゃない」
悠斗が所属を決めたのは、調査委員会だった。
世界各地で発生する未解決事件、不可解事件――
一般社会では原因不明とされるそれらの裏に、
術理が関与していないかを調べる部門。
エウラの研究をする。
それは、カシウスに対してはっきり宣言したことでもある。
そして――
まず、悠斗がやるべきだと考えたのが。
「……黒涙について、調べようと思ってね」
「黒涙……ですか?」
結乃が小さく首をかしげる。
悠斗は、ようやく結乃のほうを見た。
「そう。君のご先祖が発見したとされている、“黒涙”」
少し言葉を選びながら、続ける。
「エウラにも直接聞いたけど、分からないって言うんだ。
資料にある“リネアの暴走跡地”――それが、どこなのかが分からない」
悠斗は机に肘をつき、指先でこめかみを押さえた。
「ルーゼンヴァルト家が、日本に渡って、久我家として定住した理由を考えると……
発生地点は日本のどこかじゃないかと推測してる」
肩をすくめる。
「もっとも、当の本人は二百年も前のことなんて覚えてないらしいけどね」
はぁ、と短く息を吐く。
「場所の特定と、発生原因の解明。
もし黒涙が、理樹への“鍵”だとしたら……」
悠斗の声が、少しだけ低くなる。
「エウラの呪いを解く手がかりになるかもしれない」
呪い。
そう表現したが、それはエウラの“不死の魔法”のことだ。
悠斗の目的は、ただ一つ。
――エウラを、終わらせてやること。
そのためなら、TIMMAの持つ情報網は、すべて利用する。
「ふーん……」
結乃は目を細め、不機嫌そうに悠斗を見る。
「随分と、ご執心みたいですね」
そして、ふっと鼻で笑った。
「まあ、私もあのおこちゃまをぶっ倒すのには賛成ですけど」
そう言って、足を組み、腕を組む。
事務室に、わずかな沈黙が落ちた。
そんなやり取りをしていると――
た、た、た。
廊下を駆ける軽い足音が近づき、
ばん!
ノックもなしに、事務室の扉が勢いよく開いた。
「悠斗ー! ごはん取ってきたよ!」
!!!
結乃が目をかっぴらく。
エウラだった。
日の魔女エウラ。
災厄とまで恐れられる魔女が、
満面の笑みで“戦利品”を携え、
悠斗のもとへ現れたのだ。
モグラ。
イタチ。
狸。
――しかも、全部そのまま。
「ひぃっ……!」
結乃は小さく悲鳴を上げ、勢いよくソファから立ち上がった。
「エウラ! そういうの屋敷の中に持ってくるなって言ったでしょうが!
何度言えば分かるの!?
なんのために外の敷地に専用の調理場と保存庫を用意したと思ってるの!!」
エウラの調理場。
それは、洋舞林県の山中にあったエウラの小屋を、
結乃が六重奏術式で吹き飛ばしてしまったことへの謝罪として、
発注されたコンテナハウスだった。
以前の小屋よりもずいぶん立派で、
近代的な外観に、最新設備まで備えた代物である。
「結乃はうるさいわね」
エウラは動物たちを掴んだまま、腕を組む。
「誰のせいで、私がここにいると思ってるの?」
じとっとした視線が結乃に向く。
「あなたが、私の住まいを吹き飛ばしてくれたのよ?」
「うっ……」
結乃が言葉に詰まる。
「あーあ。建てるのに、十年もかかったのになぁ」
エウラは心底残念そうに肩を落とした。
「嘘言いなさい!!
あんな掘っ立て小屋に十年もかかるわけないでしょ!!
私の術理なら一日で作れるわよ!!」
結乃が即座に言い返す。
「あなたみたいなゴリラ術士と一緒にしないで!」
「私はね、人の手で作る“匠の温かさ”を大事にしているのよ」
エウラは、どやっと胸を張った。
「あのさぁ……」
その一連のやり取りを眺めながら、悠斗がぼそっと口を挟む。
「どうでもいいんだけど……二人とも、うるさい」
一瞬の沈黙。
エウラと結乃は顔を見合わせ――
「ふん」
同時にそっぽを向いた。
※※※
エウラは、しばらくの間――
久我家の屋敷で引き取ることになった。
結乃がエウラの住処を吹き飛ばしてしまった以上、
放っておくわけにもいかない。
それに、エウラのリネアについて調べるなら、
本人に直接聞くのが一番早い――はずだった。
……はず、だったのだが。
「うーん。覚えてない!」
資料を突きつけても、地図を広げても、
返ってくるのは、いつもこの元気な一言。
エウラの記憶はあいまいで、
遠い過去の出来事ほど、
時間とともに薄れていっている。
五百年も生きていれば、無理もない。
資料と照らし合わせてみても、決定的な一致は見つからなかった。
悠斗は、思わず頭を抱える。
「……あの森の中に置いてくればよかった」
ぽつりと漏れた本音。
もちろん、今さら後悔したところで、どうにもならない。
すべて――
手遅れだった。




