――第28話 再会――
夜が明けると、すでにカシウスの姿はなかった。
小屋の中には、彼がいた痕跡だけが残されている。
昨夜まで赤く揺れていた焚き火は、すっかり火を失い、
灰だけが静かに広がっていた。
そして――
壁際の粗末な机の上に、ぽつりと置かれた一通の書状。
昨夜、別れ際に手渡されたものだ。
TIMMAへの推薦状。
封は切られていない。
それをどう扱うべきか。
受け取るべきか、拒むべきか。
何度も指先で縁をなぞり、視線を落としては逸らし、
考え続けていた――はずだった。
思考はまとまらないまま、
夜の疲労だけが、静かに身体を包み込んでいく。
気づけば、
いつの間にか意識は沈み、
眠りに落ちてしまっていたらしい。
ゆっくりと、目を開ける。
最初に視界に入ったのは、見慣れた天井だった。
木目の走り方も、節の位置も、何度も見たはずのそれ。
朝の淡い光が、隙間から差し込み、輪郭を柔らかく曖昧にしている。
次に意識が向いたのは、すぐ隣の温もり。
布団越しに伝わってくる、かすかな体温。
人の存在を確かめるように、じんわりと肌に染みてくる。
――エウラだ。
振り向かなくても分かる。
この距離、この熱、この安心感。
いつものように、同じ布団の中。
肩が触れるほどの、いつもの距離。
目を覚ましたときに隣にいるという、いつもの朝。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
昨夜の惨劇が嘘だったかのように、
小屋の中は静まり返っている。
外の世界から切り離されたような、穏やかな静寂。
悠斗は、そっと視線を動かし、眠るエウラの顔を見つめた。
無防備な寝顔。
力の抜けた表情。
規則正しく上下する胸の動き。
呼吸に合わせて、わずかに揺れる睫毛。
布団を蹴飛ばしてしまったのか、少しだけ乱れた寝相。
そのすべてが、あまりにも自然で、あまりにも平和だった。
この少女が、
これまでにどれほどの地獄を見てきたのか――
人を、生きる屍に変え。
災厄の魔女と呼ばれ。
孤独と恐怖の中で、生き延びてきた時間。
その言葉だけを並べれば、簡単だ。
だが、その一つ一つの裏に、
どれほどの絶望と後悔と、取り返しのつかない選択が積み重なっているのか。
それはきっと、
悠斗がこれまで経験してきた、
どんな苦しみよりも――
深く、暗く、そして救いのないものだったのだろう。
それでも。
それでも彼女は、
こうして眠り、
朝を迎え、
何事もなかったかのように、笑っている。
その事実が、胸に静かに響いた。
(……すごいな)
思わず、そんな言葉が浮かぶ。
憐れみでも、同情でもない。
もっと静かで、もっと重たい感情。
尊敬にも似た思いが、
胸の奥に、じわりと広がっていく。
そっと、指先を伸ばした。
起こさないように。
触れたことに気づかれないように。
唇に、軽く触れる。
触れただけだ。
ほんの一瞬。
そこに意味を持たせるつもりはない。
ただ――
(守っていこう)
言葉にしなくても、その思いだけは確かだった。
理由も、覚悟も、今はまだ言語化できない。
けれど、迷いはない。
エウラが起きるまでは、
もう少し、この時間に浸っていよう。
何も起きていない、何も壊れていない朝を。
二度寝をしよう。
そう思って、
ゆっくりと目を閉じかけた、その瞬間――
――――ばぁぁぁぁん!!
空気を引き裂くような轟音が、小屋を揺さぶった。
次の瞬間、
ドアが文字通り“吹き飛んだ”。
蝶番ごと引き剥がされ、
歪んだ木板が破片となって宙を舞う。
壁が悲鳴を上げ、梁がきしみ、
閉じられていたはずの空間に、
冬の冷たい空気が一気に流れ込んできた。
冷気が、肌を刺す。
「――っ!?」
悠斗は反射的に跳ね起きる。
布団を蹴飛ばし、上体を起こした瞬間、
心臓が乱暴に脈打った。
何が起きたのか、考えるよりも早く、
身体が危険を理解していた。
「先生!!」
鋭く張り詰めた声。
聞き覚えがある。
いや、聞き間違えるはずがない。
突入してきたのは、結乃だった。
崩れたドアの向こうから、
息を切らし、雪と冷気をまとったまま飛び込んでくる。
その目は見開かれ、
切迫した感情がそのまま形になっていた。
その背後から、
慌てた様子で祈が続く。
一瞬遅れて室内を見渡し、
状況を即座に把握しようとする鋭い視線。
結乃の視線が、
一直線に悠斗を捉えた。
布団の上。
半身を起こしたままの姿。
そして――そのすぐ隣。
言葉にならない一拍が、空間に落ちた。
崩れたドアから吹き込む冷気と、
まだ耳鳴りの残る轟音の余韻の中で――
結乃の視線は、ひとつの光景を正確に捉えていた。
布団の上。
変わらず、すやすやと眠り続ける少女。
何も知らず、何も気づかず、
外界の混乱から切り離されたような、穏やかな寝顔。
視線が、
悠斗へ。
そしてエウラへ。
もう一度、悠斗へ。
ゆっくりと、往復する。
「……先生?」
呼びかける声は、驚くほど穏やかだった。
柔らかく、丁寧で、いつも通りの声音。
だが――
その空気が、明らかに違う。
心配もある。
焦りも、戸惑いも、確かに混じっている。
けれど、それらをすべて包み込むように、
その笑顔が、そこにあった。
にこり、と。
完璧な笑み。
その奥に潜むものを、
悠斗は本能的に理解してしまう。
――殺気だ。
ぞっとするほど濃密で、
温度のない、純度の高いそれ。
「な、な、な……」
言い訳の言葉を探す間もなく、
結乃の変化は始まっていた。
さらりと揺れた髪が、
毛先から、みるみるうちに色を変えていく。
黒から赤へ。
赤から、血のように深い真紅へ。
空気が、震えた。
「結乃様っ!」
祈が慌てて前に出る。
反射的に、間に割って入るような動き。
「“魔法”はダメです!
本当にダメです!!」
必死な制止。
その声が届いているのかどうか、分からない。
悠斗の背筋にも、
嫌な予感が、冷たいものとなって這い上がる。
「ま、待て結乃!」
喉が裂けそうなほど、声を張り上げた。
「これには、ちゃんと訳が――!」
だが、その言葉は、最後まで届かなかった。
「先生の――」
結乃は、満面の笑みのまま、
はっきりと、楽しげに言い放つ。
「――浮気者ーーーーっ!!」
次の瞬間。
――――どかぁぁぁぁん!!!
世界が、白く弾けた。
六重奏術式が炸裂し、
圧縮された魔力が解き放たれる。
衝撃波が空間を押し潰し、
音と光と破壊が、同時に襲いかかる。
エウラ建築士自慢の一軒家は、
抵抗する暇すらなく、
文字通り、跡形もなく消し飛んだ。




