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弁護士は、現代社会に暮らす、悲しみを抱いた魔女達を救いたい  作者: れさ
第一章 世界の裏側に触れた日

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――第5話 静かな襲撃――

2025年12月11日 木曜日 6:30


次の日の朝は、悠斗が普段迎える朝とは比べものにならないほど穏やかだった。


普段の悠斗は、予定がある時間の直前まで起きず、”何時に起きて出勤する”という決まった習慣もない生活を送っている。

だが、前日に祈が宣言したとおり、この日の朝は6時30分きっかりに、祈が起こしに来た。


もっとも、悠斗は特別に朝が苦手というわけではない。

思った以上に目覚めはよく、むしろ心地よささえ感じる朝だった。

――たまには、こうして朝をゆっくり過ごすのも悪くない。


久我家の広いダイニングには、カーテン越しに淡い光が差し込み、テーブルには結乃が選んだ《ルミナ・セレニティ》という紅茶の香りが、ふわりと広がっている。


昨日、祈から聞いた話の影響もあったのだろうか。

普段は朝食をとらない悠斗の胃でさえ、珍しく食欲を主張し──思わず腹が鳴るほどだった。


並べられた朝食は、どれも丁寧に作られたものばかりで、

その温かさは見た目の豪華さよりも、むしろ疲れ切った身体をそっとほぐすような優しさを帯びている。

こんなふうに、時間を気にせず、ゆっくりと朝を味わうのは本当に久しぶりだ。

悠斗は、そんなことを静かに噛みしめていた。


「先生、私の準備はいつでも大丈夫ですよ。今日は学校側には、遅れて行くことを伝えてありますから」


結乃が穏やかな口調でそう告げる。


その言葉に頷き、悠斗は紅茶を一口含んだ。

《ルミナ・セレニティ》の香りが鼻の奥まで抜け、花のような甘い余韻が心をふっと軽くする。


今日会う不動産会社の社長に限らず、高齢の経営者というのは概して多い。

結乃の姿を見るや否や、彼らの機嫌は露骨に良くなるだろう。

正直、そこにいてくれるだけで話がずいぶん進めやすくなるのだ。


――結乃はわがままを通したつもりかもしれないけど、こっちにもメリットはあるんだよな。

そんなことを、心の中だけに留める。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


そう言うと、


「はい!」


と、元気のいい返事が返ってきた。


2人は外に出て、豪華な屋敷には似合わない、1年落ちのインプレッサに乗り込む。

エンジンをかけ、フロントガラスの霜が消えるのを待つ。

その間に、ふと気になっていたことを尋ねた。


「いつもは、どうやって学校に通っているの?」


この私有地を徒歩で抜けるだけでも20分はかかる。

毎日歩いて登校しているのだとしたら、相当大変なはずだ。


「いつもは運転手がついています。今日は先生がいらっしゃるので、手配しなかっただけです」


――聞くまでもなかったか。

そう思い、悠斗は内心で少し後悔した。


霜が消えたのを確認し、車を発進させる。

屋敷が徐々に遠ざかっていくのをバックミラーで見ながら、

悠斗は不思議な気分になっていた。


(あとから、何か請求されたりしないよな……)


美人局ではありませんように。

心の中で祈りながら、悠斗はアクセルを踏み込んだ。


※※※※※


目的の不動産会社に到着し、受付で社長を呼んでもらう。

ほどなくして現れたのは、60歳くらいの初老の男性だった。

こちらを見るなり目を見開き、明らかにテンションが上がっているのが分かる。


「いやー先生!いつもお世話になっております!

 そちらの学生さんは……彼女ですか?えらい別嬪さんじゃないですか。

 いやあ、未成年に手を出すとは、やりますねぇ」


そこそこ長い付き合いのある不動産会社の社長、桟橋がニヤニヤと笑いながら言う。


「はは、ご冗談を。桟橋社長。

 こちらは、僕が後見人として就任した依頼人です。

 今日は学校まで送る必要があって、そのついでに仕事の見学をしたいとの事です。

 なので、ご挨拶も兼ねて連れてきました」


「ははーん、なるほどの。

 嬢ちゃん、先生の腕はぴかいちじゃけん。

 めちゃくちゃ勉強になるでえ」


結乃は緊張しているのか、小さく会釈するだけで、一言も発しない。

そのまま、そっと悠斗の背中に隠れるように立った。


(俺にはずいぶん強気なのに……こういうところは、ちゃんと年相応か)


その姿に、わずかな安堵を覚えつつも、すぐに仕事モードへと気持ちを切り替える。


「僕なんて、訴訟をしない弁護士ですから。

 仕事を見学しても、弁護士の勉強にはならないと思いますよ」


「またまた。先生のおかげで、この前の事業承継もうまくいったしのう。

 わしはもう、いつ死んでも大丈夫じゃ。

 この不安を取ってくれるのは、先生の腕があってこそよ」


「桟橋社長は、まだ死にませんよ。引退する気もないでしょうに。

 それで、社長。とりあえず、先日の契約についてリーガルチェックは完了しています。

 ポイントを一緒に確認していきましょう」


そう言って、悠斗は仕事の話に入っていった。


そのやり取りの間、結乃は終始黙ったまま、2人の会話を静かに見つめていた。


不動産会社を後にしたあと、車をコンビニの駐車場に止める。

結乃にジュースを手渡しながら、感想を聞いた。


「どうだった? 弁護士の仕事なんて地味なもんだろ。

 『先生』なんて呼ばれてるけど、所詮こんなものさ。幻滅したかい?」


そう言うと、結乃はぶんぶんと首を横に振り、嬉しそうに答えた。


「そんなことありません。先生が仕事をしている姿を見られて、すごく嬉しかったです。

 話の内容はほとんど分かりませんでしたけど……

 でも、普段の先生を知れた気がして、それが嬉しかったんです」


頬を赤らめて言うものだから、こちらが照れそうになる。


「そう? まあ、僕の普段なんて、結乃の生活に比べたらつまらないだろうけどね」


少し自虐気味に言うと、結乃は表情を引き締めた。


「いいえ。そんなことありません、先生。

 ……私の人生は、選べないものなんです。

 それを“久我家の義務”だとか、“責任”だとか言われても……

 本当にそれが幸せなんでしょうか?」


結乃の問いに、悠斗は、少し表情を曇らせ、小さく息を吐いた。


「……哲学的だね。

 でもね、僕は“幸せは選べない”と思ってる。

 たまたま幸せを手にする人がいるだけで、裕福だろうが貧しかろうが、そこに優劣はない。

 結乃は今、不幸かもしれないとしても──それは結果として分かることで、今考えても仕方ないよ」


結乃はしばらく俯いて考え込み──やがて、ゆっくりと顔を上げた。


「その理論でいうと……先生は、幸せなんですか?」


「僕?」


予想外の質問に、返答が一瞬遅れる。


「僕は……たぶん不幸だろうね。

 いつ死んでもいい覚悟はできてる。

 幸せな人は、“死にたくない”と思うものだよ。まだ見たい明日があるはずだから……それに…僕は…」


何か言いかけて黙る悠斗。


それを見ていた結乃は一度、唇を噛みしめ──そして、ぽつりと言った。


「……私は、先生に死んでほしくありませんし、幸せになって欲しいです」


「なぜ?」


素直に、そう返した。


「だって……その……内緒です」


「なにそれ」


思わず鼻で笑ってしまい、会話はいったん途切れた。


「──じゃあ、そろそろ学校へ向かおうか」


そう言ってエンジンをかける。

車は静かに駐車場を出て、再び前へと走り出した。


※※※※※


結乃と一緒に学校へ向かった。


校門をくぐると、数名の生徒がこちらをちらりと見て、すぐに目をそらす。

だが次の瞬間、ひそひそと話し合う声が聞こえ、視線が再びこちらへ戻ってきた。


──結乃と一緒に来たのは、失敗だったかもしれない。


明らかに“保護者の年齢ではない大人の男”が校内に立っている。

しかも、結乃は学校の中でも目立つ存在なのだろう。

その結乃が、年上の若い男性と連れ立って遅れて登校してくれば、

あらぬ噂の1つや2つ、簡単に広まるのは想像に難くなかった。

結乃は無表情を保っているものの、その横顔には、わずかな緊張がにじんでいる。


職員室に入り、担任の鈴原隼人(すずはらはやと)と面談する。


結乃の現状確認、今後の登校方針、必要書類への署名――内容はどれも事務的で、淡々としたものだった。

だが、その最中にも、廊下のざわつきが耳に入ってくる。

どうやら生徒たちの間で、“結乃の彼氏らしき人が来ている”という噂が流れているらしい。


「すみませんね。珍しがられてしまって」


鈴原が、申し訳なさそうに苦笑する。


「いえ、当然の反応です。ただ……今、結乃さんは大変な時期です。

 くだらない噂で心労が増えるのは好ましくありません。

 僕のほうが、もう少し気を回すべきでした。申し訳ありません」


「いえいえ。噂なんて、すぐに消えますよ。

 結乃さんのこと、真神先生。これからよろしくお願いいたします」


穏やかに頭を下げられ、こちらも軽く会釈を返した。

そうして、午前中いっぱいを学校関連の諸手続きに費やした。

学校を出たのは、午後2時過ぎ。


結乃は「ここからは大丈夫です」と小さく頭を下げ、1人で校舎へと戻っていった。

その後ろ姿を見送ってから、事務所へ向かうべく、悠斗は車に乗り込んだ。


事務所に着くと、担当している案件、メールでの相談、契約書の確認など、やるべき仕事が机の上に積まれていた。


※※※※※


気づけば、時計の針は午後11時を回っている。


「もうこんな時間か……」


ため息をつきながらデスクを軽く整理し、電気を順に消す。

静まり返った事務所をあとにした。

外に出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。空気が張りつめている。


──ぺた。


「……?」


突然、背後から小さな足音のような音がした。


人の靴音にしては軽すぎる。

まるで子供が素足で歩くような音だ。


それに、この時間帯にこの路地を歩く人はほとんどいない。


振り返る。


だが、そこには誰もいなかった。

街灯に照らされたアスファルトと、自分の影があるだけだ。


「……気のせいか」


疲れているせいだろう。

そう自分に言い聞かせ、再び歩き出す。


──ぺた。


まただ。


今度は、一歩遅れてついてくるような、はっきりとしたタイミングで音が鳴った。


「……ん?」


再び振り返る。


やはり、誰もいない。

風が吹いたわけでも、物が落ちたわけでもない。


たった一歩分の距離――

確かに“誰かがついてきた”ような音だけが残っている。


胸の奥に、ざわりとした違和感が広がった。

だが、何度見回しても、そこには誰もいない。


「……疲れてるのかな」


そう呟き、歩き出す。


足音がついてくるかどうか考えないように、わざと前だけを見るようにした。


駐車場に着き、車に乗り込む。

エンジン音が響いた瞬間、ようやく胸の奥に安心感が戻ってきた。

夜の道は静かで、街灯の光が流れるようにフロントガラスを照らしていく。

家へ向かう途中、信号待ちの瞬間、ふとバックミラーを見た。


後部座席には何もない。

それは当然のことのはずなのに、はっきりと確認するまで、妙な緊張が抜けなかった。

自宅に到着し、車を駐車場に停める。


エンジンを切ると、外気の冷たさが静謐さを増幅させ、夜の世界に取り残されたような感覚が押し寄せてきた。


「今日は疲れたな……」


鍵を抜き、ドアを開け、車を降りた。


──ぺた。


っ――――――!


やはり、気のせいではない。

いる。そこに。

もう疑いようがなかった。


”なぜだ”、”どうして”、そんな思考はどこかへ消えている。

理屈を考える余地はなく、ただ“いる”という事実だけが、背中に貼りついていた。

背後に、ぴったりと張りついて歩いている。


距離は、ない。

振り向けば、すぐそこに触れてしまうほど近い。

それなのに、見えない。

赤子が、親の背中に顔を押しつけるような気配だった。


重さはない。

温度も感じない。

ただ、存在だけが、じっとりと密着している。


12月だ。

雪が降っている寒さだというのに、背中から冷汗が噴き出してくる。

首筋を伝い、背広の中に流れ落ちる感覚がはっきりと分かる。


ーー怖い。


何が怖いのか、分からない。

分からないことが、怖い。


なんだ、この気配は。

誰か、いるのか。


どこにいるのか分からない。いつ現れるのか分からない。

今この瞬間も、背後にいるのか、それとも、もう別の場所に移動しているのかすら分からない。


それが、耐え難かった。


まるで、森の中でハンターに狙われている草食動物だ。

茂みのどこに潜んでいるのか分からず、逃げることもできず、ただ身を縮めるしかない。

この感覚は、それに近い。


心臓の音がうるさい。

自分の鼓動が、相手に位置を知らせてしまうのではないかという、馬鹿げた不安さえ浮かぶ。


立ち尽くしているだけで、理性が削られていくのが分かる。

このままでは、発狂しそうだ。


だから、声を出すしかなかった。


喉が張りつく。

舌がうまく動かない。

それでも、恐る恐る、音を絞り出す。


「……だ、だれか……いるんですか?」


声は、情けないほど震えていた。


――――――――――――返事はない。


静寂だけが、返ってくる。

遠くを走る車の音も、風の音も、すべてが現実のものとは思えなかった。


車からは、すでに降りている。

目の前には、自分のアパートがある。

数歩も歩けば、玄関に辿り着ける距離だ。


それなのに、足が動かない。

もし、この気配が家の中までついてきたら。

もし、鍵を開けた瞬間、背後に“それ”が入ってきたら。

想像しただけで、胃がひくりと縮む。


分からない。

何も分からない。


どれほどの時間、こうして立ち尽くしていたのだろう。

数分かもしれない。

あるいは、もっと長かったのかもしれない。

時間の感覚が、完全に狂っていた。


そのとき――


ざす。


足音が、鳴った。

確かに、一歩分の音だった。

それは、先ほどの足音とは明らかに違っていた。


曖昧ではない。

体重があり、硬さがあり、はっきりとした――人の足音だ。

その事実だけで、胸の奥に一瞬、安堵が差し込んだ。


よかった。

“何か”ではない。

人間だ。


そう思った、その直後――

足音のほうへ顔を向けて、


……絶句した


そこに立っていたのは、2メートルを優に超える男だった。


大きい。異常なほどに。

だが、驚愕はサイズだけでは終わらない。

本当に異質だったのは、その”肌”だった。

アパートの駐車場の明かりに照らし出された肌は、”灰色”。


血の気というものが一切なく、死体のように鈍く光っている。

生きているはずなのに、生気がまるで感じられない。

それなのに――その灰色の顔には、赤く光る眼球が2つ、はっきりと存在していた。


……ひとではない。


そう思うまで、時間はかからなかった。

脳が勝手に結論を出した。


男の体中には、異様に隆起した血管が浮き出ている。

どく、どく、と。

遠目からでも分かるほど、脈動している。

人間の皮膚とは、決定的に違う。


―――――――――!!!


喉までせり上がった悲鳴を、歯を食いしばって押し殺す。


怖い。足が、がくがくと震え始めた。

脳は必死に命令している。


”逃げろ”


”今すぐ逃げろ”


だが、足は動かない。


筋肉が、命令を拒否している。


動け、動け、動け――


……え?


ほんの一瞬、足に意識が向いた。


男から目を離したのは、1秒もなかったはずだ。

だが、再び視線を上げた瞬間――男の顔が、目の前にあった。


近い。


近すぎる。


呼吸が、触れ合ってしまいそうな距離だ。

鼻先に、生温い空気が当たる。

腐った土と、金属と、湿気が混じったような匂い。


赤い目と、真正面から合う。

逃げ場はない。

最初は、ただ赤いだけの眼だと思った。

だが、すぐに違和感が追いつく。


――動いている。


眼球の奥。

赤黒い硝子の内部で、何かが、ゆっくりと揺れている。

血管の拍動とは違う。反射でも、錯覚でもない。

生き物の動きだ。


視線を逸らそうとして、できない。

目が、吸い寄せられている。

そのとき、耳元で音がした。


ぶーん…ぶーん……


かさかさ…かさ…


羽が空気を切る、湿った不快な音。

鼓膜のすぐ内側をなぞるように響く。


……”ハエ”だ。


理解した瞬間、胃の奥がひっくり返る。

眼球の中に、ハエがいる。

赤い瞳の内側を、ぶつかりながら飛び回っている。

内壁に当たるたび、小さく跳ね、また方向を変える。


逃げる様子はない。

外に出ようともしていない。


そこが、住処だからだ。

白目と赤の境界を掠める影。


瞬きをしない目。

閉じられない瞼。

まるで、透明な水槽だ。


生きたまま、眼球を器にされた。

表面の膜が、かすかに潤んでいる。

その向こうで、羽の影が歪み、二重に揺れる。


ピントが合わない。

合ってはいけないものに、合ってしまっている。


理解が、遅れてやってくる。

この目は、もう「見る」ためのものじゃない。

外界を映すための器官ではない。


棲み処だ。

腐敗の途中にある、空洞だ。


喉が引きつる。

声が出ない。

目を閉じたい。


だが、男は瞬きをしない。


こちらの視線だけが、縫い止められている。

羽音が、近づく。


眼球の内側から、表面へ。

ぶーん、という音が、骨に響く。


もし、今、その膜が破れたら。

もし、この距離で、飛び出してきたら。

想像しただけで、喉の奥が焼ける。


逃げろ、と脳が叫ぶ。

だが、体は動かない。


赤い目の奥で、ハエが方向を変えた。

外側を、見るように。


まるで――

こちらを、見返しているように。

思考が、完全に追いつかない。


男の口が、ゆっくりと開いた。


「かはぁ……」


白い息とともに、ぼとぼと、と何かが地面に落ちる。


粘ついた液体。


その中で――


”ヒル”が、無数に蠢いていた。


数えきれない。

うごめく、黒い塊。


ーーーもう、訳が分からない。


これは何だ。

この男は、一体、何なんだ。


歯が鳴る。


カチカチと、止まらない。

涙が出る。

鼻水が垂れる。


人間は、恐怖だけで、ここまで脆くなるのか。


そんなことを、どこか冷え切った思考で実感していた。


――『いつ死んでもいい覚悟がある』


結乃に、格好をつけて言った言葉が、脳裏をよぎる。


嘘だ。


体は、必死に生を求めている。

震え、拒絶し、叫んでいる。

生きたい。ただ、それだけを。


――瞬間。


ガツッッ!!


何か硬いもので殴られたような衝撃が、前頭部を真正面から叩きつけた。

骨がきしむような鈍い痛みが一気に走り、

反射的に息が詰まる。声すら出ない。

視界が跳ね、世界の色が剥がれ落ちる。


輪郭が崩れ、光が裏返り、すべてが暗く沈んでいった。

体が、前のめりに崩れる。


地面に倒れ込む、その途中。

意識が薄れていくのを、なぜか冷静に自覚していた。

風景が引き伸ばされ、時間だけが粘ついたように遅くなる。


(……な、に……?)


痛みで視界がぶれ、形という形が定まらない。

手を伸ばしたつもりだったが、指先は何にも触れず、ただ空を掻いただけだった。

力が、抜けていく。


そのとき――

耳の奥で、聞き覚えのある音がした。


──ぺた。


軽い。


重さのない、柔らかな音。

まるで、子どもの素足が地面に触れたような。

さっきまでの、あの足音と同じだ。

疑問を抱く間もなく、思考が途切れる。


闇が、静かに、しかし確実に覆いかぶさってくる。

音も、痛みも、恐怖も――

すべてが遠ざかり、悠斗の意識は、深い闇の底へと沈んでいった。


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