――第25話 博打――
「……なに?」
戸惑いを含んだ声とともに、
カシウスの剣が、ぴたりと止まった。
振り下ろされるはずだった刃は、
エウラの胸元で静止している。
まるで――
この状況そのものが、理解不能だと言わんばかりに。
「小僧。意識はあるのか?」
確かめるような声だった。
敵に向けるものではなく、
倒れるはずの獲物に向ける、困惑混じりの問い。
悠斗は、仰向けのまま、口の端をわずかに歪める。
「あんたのせいで、死にかけだよ」
胸の内側で、鈍い痛みが軋む。
息を吸うたび、肋骨のどこかが悲鳴を上げた。
「肋骨は何本か折れてるだろうし……内臓も、たぶんボロボロだ」
喉の奥が、焼けるように痛む。
血の味が、舌の上に広がる。
それでも、言葉を吐き出した。
「もし生き延びたら、請求書送るから……覚悟しとけ」
精一杯の強がりだった。
笑う余裕など、どこにもない。
だが、
カシウスはそれを冗談として受け取らなかった。
剣を下ろさぬまま、
その視線が、悠斗の身体を射抜くように探る。
「……貴様」
低く、慎重な声。
「リネアの影響は、どうなっておる」
一瞬の間。
「リネア使いであろうと、
エウラのリネアから逃れることはできんぞ」
確信に近い断定だった。
「それ……」
悠斗は、痛む肺を無理やり動かし、息を整える。
「それ、あんたに言われたくないな」
視線を上げる。
剣を構えたままのカシウスを、真正面から見据えた。
「平気な顔してるじゃないか」
カシウスは、わずかに沈黙した。
剣先が、ほんの数ミリだけ下がる。
そして、ゆっくりと顎に手を当て、考え込むような仕草を見せた。
「……なるほどな」
その一言に、
疑念と興味、そしてわずかな警戒が滲んでいた。
低く、腹の底で鳴らすような声だった。
「……貴様、魂が“空”じゃな」
断定だった。
疑問でも、推測でもない。
「魂が空であるがゆえに、
リネアに絡め取られる“もの”がない」
刃よりも鋭い視線が、悠斗を射抜く。
肉体ではなく、
その奥――本来なら触れられないはずの場所を、覗き込むように。
悠斗は、言葉を返せなかった。
否定する材料が、どこにもない。
それどころか、その指摘は、
胸の奥に沈めてきた違和感と、あまりにも正確に重なっていた。
「なぜ魂が空のまま、生きておるのかは不明じゃが……」
カシウスは、剣を構えたまま、
わずかに首を傾げる。
次の瞬間、
その口角が、ほんの少しだけ上がった。
戦士の笑みではない。
獲物を見つけた者のそれでもない。
「面白い存在を見つけたわい」
純粋な――
好奇心。
悠斗は、その表情を見て理解する。
この男は、
自分を“敵”ではなく、
ただ一つの例外として認識したのだと。
――今だ。
胸の奥で、何かが静かに切り替わる。
「なあ」
悠斗は、痛む身体を無理やり支えながら、声を出した。
これは提案ではない。
賭けだ。
「取引しないか?」
一瞬、空気が凍りついた。
「取引、じゃと?」
カシウスの声が、低く響く。
剣を握る指に、わずかに力が込められた。
「対等な立場でものを言っているつもりか?」
圧が、のしかかる。
視線だけで、押し潰されそうになる。
だが、退かない。
退いた瞬間、終わる。
「まあ、聞いてくれよ」
喉の奥が焼ける。
息を吸うだけで、胸が軋む。
それでも、言葉を止めなかった。
「どうやら僕は……エウラのリネアの影響を受けないらしい」
カシウスの瞳が、わずかに細くなる。
「だから――」
悠斗は、はっきりと言い切った。
「エウラの研究を、させてくれ」
沈黙。
風の音すら、遠のいたように感じる。
「研究、じゃと?」
疑念と警戒が混じった声。
「そうだ」
悠斗は続ける。
剣を前にしたまま、
逃げ道のない場所で、なおも言葉を重ねる。
ここで引けば、ただの無謀。
踏み込めば、交渉になる。
悠斗は、踏み込む方を選んだ。
「エウラの研究なんて……」
悠斗は一度、息を整えた。
胸の痛みを無視し、言葉を選ぶ。
「歴史上、誰もできなかっただろ」
それは事実だった。
反論の余地がないほど、残酷な現実。
「エウラのことを知った人間は、恐怖で彼女のそばにいられない」
彼女の力を“理解した瞬間”に、
人は耐えきれなくなる。
「そばに誰もいないなら……」
悠斗は、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「誰も、リネアを研究できない」
小屋の中に、静寂が落ちる。
一拍、置いて。
悠斗は、顔を上げた。
「でも――」
視線が、まっすぐにカシウスを捉える。
「僕なら、できる」
自信というより、
他に選択肢がないという断定だった。
カシウスは、その言葉を聞いて、低く笑った。
「誰もおれん、じゃと?」
喉の奥で鳴るような笑い。
半ば呆れ、半ば楽しむ声。
「わしは、リネアの影響を受けんぞ」
誇示でも虚勢でもない。
事実としての宣言。
「貴様が影響を受けんことなど……」
カシウスの視線が、鋭くなる。
「利点にならんと思わんのか?」
問いかけであり、
同時に――挑発。
“それだけで、わしに並べるつもりか”
そう言外に告げている。
悠斗は、理解していた。
ここから先は――
賭けになる。
「いや……あんた」
悠斗は、カシウスを、真っ直ぐに見返した。
視線を逸らした瞬間、負ける。
「影響、受けてるでしょ?」
その一言で、
空気が、はっきりと変わった。
カシウスの目が、細くなる。
「どうやって回避してるのかは、分からない」
悠斗は、慎重に言葉を選ぶ。
断定しない。
だが、逃げ道も与えない。
「でも……観察して、なんとなくわかった」
一拍。
「エウラの心臓を突き刺すたび、あんた――
苦悶の表情を浮かべてた」
刃を振るう者の顔。
支配者の余裕。
それらとは、明らかに違う“歪み”。
「それ、どういうことだ?」
沈黙が落ちる。
言い逃れも、即答もない。
その沈黙自体が、答えだった。
「僕には……」
悠斗は、静かに続ける。
「そんなペナルティーは、一切ない」
胸が痛む。
視界が、わずかに揺れる。
それでも、言葉は途切れない。
「だから、これは取引材料になると思った」
――賭けだった。
本当に苦しんでいたのかは、確証がない。
ただ、そう“見えた”。
それだけだ。
「……見返りは、なんじゃ?」
低く、抑えた声。
その一言で、
悠斗は確信する。
勝った。
これは、YESだ。
「あんたに、情報提供の優先権をやる」
一息。
「何か分かれば、真っ先に報告する」
そして、最後に――
条件を突きつける。
「ただし、非人道的な研究はNGだ」
声を強めることはしない。
それでも、引かない。
「これ以上、エウラに苦痛を与えることは――
禁止させてもらう」
沈黙。
だが、先ほどとは違う。
それは、拒絶ではなく、検討する者の沈黙だった。
カシウスは、黙り込んだ。
剣を下ろしたまま、
しばらくの間、何も言わない。
その沈黙は、拒絶ではなく――
計算する者のそれだった。
やがて、重く口を開く。
「……いいだろう」
短い一言。
だが、場の空気が確かに動いた。
「二年だ」
低く、区切るように続ける。
「貴様に、二年やろう」
その言葉に、猶予と同時に、
逃れられない期限が刻まれる。
「二年後――
わしは再び、エウラを殺すために動く」
宣告だった。
脅しではない。
事実としての未来。
「それまでに、なんとかしてみろ」
突き放すようでいて、
どこか試すような響き。
条件付きだが――
ここが、落としどころだった。
悠斗は、ゆっくりとうなずく。
迷いはない。
今さら、後悔もない。
「分かった」
喉の奥の痛みを飲み込み、言った。
「それで、OKだ」
そして、両手を上げる。
明確な降参のポーズ。
「頼むから……約束は守ってくれよ」
冗談めかした言い方だったが、
中身は切実だった。
正直、もう限界だった。
身体は悲鳴を上げ、
思考も、ところどころ途切れかけている。
立っているだけで、奇跡に近い。
それでも――
賭けには、勝った。
少なくとも、
今日この場では。
そう思った。




