――第23話 デザイア・レゾナンス RE;――
そして――
カシウスの瞳が、悠斗ではなく、エウラを真っ直ぐに捉えた。
「さて……ようやく本命に取りかかれるわい」
その声は軽く、どこか楽しげだった。
まるで、長い遊戯を終え、
ようやく主菜に手を伸ばす子どものように。
「――っ……!」
悠斗は必死に起き上がろうとする。
だが、腹部を貫く痛みと乱れた呼吸が邪魔をし、
身体は思うように動かない。
手足が震える。
指先が痺れる。
視界は揺れ、焦点が定まらない。
(だめだ……!
追いつかない……!
ここで……終わる……!)
エウラが、怯えた声で叫ぶ。
「悠斗!!
ダメ! 来ないで!
逃げて……お願い……!」
その声は震えていた。
何百年という時間の中で積み重ねてきた後悔と、
取り返しのつかない絶望が滲んだ声。
それでも――
悠斗の足は止まらない。
内臓をかき混ぜられるような痛みが走るたび、
頭の中が真っ白になる。
視界が歪み、思考が途切れる。
それでも、動こうとする。
動かなければならない。
(俺が動かなきゃ……
エウラが……殺される!!)
だが――
悠斗が立ち上がるより、ほんの一瞬早く。
カシウスの影が、
すでにエウラの前へと迫っていた。
――戦場の空気が、凍りつく。
――すべてが、一点へと収束する。
そして――
地獄の扉が、静かに音を立てて開いた。
――銀の閃光。
カシウスの剣が、
一直線に、エウラの首へと迫る。
空気がきしむ。
それは刃が風を裂いた音か、
それとも――運命そのものが、無理矢理ねじ曲げられる音か。
悠斗には、もう判別がつかなかった。
「くっそがあああああ!!」
喉が焼け付くように痛む。
声を出した瞬間、口内に溜まっていた血が溢れ、
唇の端から赤い飛沫となって散った。
それでも――
悠斗は、地面を叩くようにして立ち上がる。
膝が震える。
砕けかけたテーブルの脚のように、
今にも折れそうで、頼りない。
意識がぐらりと揺れる。
世界が遠のき、
視界の端が墨を流したように黒く染まっていく。
音も、光も、
すべてが薄い膜の向こう側にある出来事のようだった。
(……助け、られないのか……)
思考は痛みでぼやけながらも、
ただ一点だけを、必死に捉えていた。
――銀髪の魔女。
エウラ。
エウラが死ねば、リネアが発動する。
そして自分は、無事では済まない。
(……ここで、死ぬんだろうな)
不思議と、その覚悟はすでにできていた。
恐怖は、ある。
だが、それ以上に――
あの銀の髪が、血に汚れる光景だけは、
どうしても受け入れられなかった。
悠斗は、
静かに、目をつむる。
「だめ――ッ!」
エウラの悲鳴が、
すぐ耳元で弾けた。
ざん。
あまりにも軽い音。
柔らかなものを断つ、
努力も抵抗も必要としない断絶の音。
次の瞬間――
どぼっ、と。
温かい液体が、頭から降りかかる。
一瞬、それが何なのか分からなかった。
雨でも降ったのかと錯覚するほど、不意打ちの感触。
だがすぐに、
鼻腔を突く鉄の匂いが、思考を現実へ引き戻す。
血。
鉄錆のような匂い。
確かな温度を持った、誰かの命の証。
頬を伝い、顎のラインをなぞり、首筋を濡らしていく。
(……いやだ)
反射的に、目を開いた。
世界が、赤い。
彩度が削ぎ落とされ、
赤だけが異様に濃く、滲んでいる。
その中心で――
エウラと、目が合った。
だが、その瞳は、
いつもの蒼色の輝きを宿したものではなかった。
喜びも、悲しみも、怒りもない。
感情という感情が、すべて削ぎ落とされた目。
うつろで、生気がなく、
光を反射するだけの、ガラス玉のような眼。
そこにはもう、
「エウラ」という意志は存在していなかった。
そして――
決定的な違和感が、視界を引き裂く。
首と、胴が。
繋がっていない。
「……あ」
喉から、か細い音が漏れた。
呼びかけにならない。
名前にすら、ならない。
エウラの首が、
悠斗の目の前で宙を舞っていた。
銀髪が夜風に散り、
赤い血が空中で線を描く。
首は、ゆっくり、ゆっくりと回転しながら落ちていく。
その過程の一瞬一瞬が、
まぶたの裏に焼き付くように鮮明だった。
まるで、スローモーション。
時間の流れが極端に引き延ばされたかのように、
一滴の血が空中を滑る軌跡さえ追える。
風に揺れる髪一本一本の動きが分かる。
頬についた血の飛沫。
わずかに開いた唇。
それらすべてが、
残酷なほど、はっきりと見えた。
その光景は――
美しくすらあった。
銀と赤が夜の闇の中で交差するさまは、
どこか完成された絵画のようで、
破綻のない、美を帯びていた。
ぶわっ。
エウラの胴体の断面から、
一瞬、黒い瘴気のようなものが噴き出した。
肉と骨の切り口から溢れ出すそれは、
血とはまったく違う、
明らかに異質な「黒」。
最初は、ただの影のようにも見えた。
だが、影にしては濃すぎる。
煙にしては重すぎる。
液体にしては、軽すぎる。
どれにも当てはまらない。
言葉を拒む“黒”だった。
その黒は、すぐに形を変える。
煙のように揺らめき、
液体のように滴りながら、
空気そのものを這う。
やがて、
それは意思を持つ生き物のように、
ゆっくりと、しかし確実に渦を巻き始めた。
「っ……!」
悠斗の足元にも、
その黒が絡みつく。
冷たくもない。
熱くもない。
だが、触れた瞬間に理解してしまう。
——これは、生きている。
いや、
“生き物”と呼ぶには、あまりにもおぞましい。
黒い瘴気は、
悠斗とカシウスを含めた周囲一帯を、
瞬く間に呑み込んでいく。
地面を這い、
空を満たし、
光という概念そのものを塗り潰していく。
世界の輪郭が、溶ける。
音が遠ざかる。
色も、形も、意味も失われ、
ただ——黒だけが残る。
「ふん。エウラのリネアが発動したか」
黒の中で、
カシウスの声だけが、
妙に、はっきりと響いた。
「……小僧も、終わりじゃな」
《デザイア・レゾナンス》は真っ白な雪原を真っ黒に染め上げていった。




