――第22話 致命的な隙――
「悠斗! 逃げて! お願い!」
叫んだ瞬間、自分の声がひどく震えていることが分かった。
寒さのせいじゃない。
恐怖だけの震えでもなかった。
「私は死なないの。もういいの……!
カシウスも、あなたが逃げる時間くらいは待ってくれるわ。
だから……私のことは、もういいの。お願い!」
言葉を重ねるほど、胸が締めつけられる。
必死だった。
懇願だった。
祈りに近かった。
だが――
悠斗は、振り返りもしなかった。
「今は戦闘中だ!」
張りつめた声が、雪の空気を切り裂く。
「悪いが、もう一度決めたことなんだ!
悩んでる暇はない! 迷ったら――やられる!」
一瞬も止まらない。
一切の余白も与えない。
それは、逃げ道を自分から断つ声だった。
「だから……黙っててくれ!」
その言葉に、胸がぎゅっと潰れる。
「……っ、く……!」
思わず歯を食いしばる。
「この……わからずや……!」
怒鳴るしかなかった。
どれだけ叫んでも、この二人――
悠斗も、カシウスも――まるで融通が利かない。
どうして誰も、私の話を聞いてくれないの。
どうして、どうして私の願いだけは、いつも届かないの。
戦場は、風が止まったかのように静まり返っている。
音はない。
それなのに、足下の土だけが、微かに、細かく震えていた。
――カシウスの踏み込みだ。
彼が一歩踏み出すたび、地面が軋み、
見えない衝撃が波のように広がっていく。
そして――
カシウスと悠斗の戦いは、さらに激しさを増していった。
カシウスはすでに、六つの術式陣を展開している。
空中に浮かぶそれらは、互いに干渉し合い、
戦場そのものをひとつの巨大な術式へと変えていた。
一方で、悠斗のリネア――
黒いイバラは、確実に“覚醒”へ近づいている。
それが分かる。
力が変質しようとしている。
ただ守るためのものから、
“対抗する力”へと形を変えつつあるのを。
空気が揺れる。
砂が舞い、草葉が震える。
世界そのものが、二人の力に耐えきれず悲鳴を上げているようだった。
最初、カシウスの意識は明確に悠斗へ向けられていた。
だが――
その動きが、徐々に変わっていく。
わずかな重心のズレ。
視線の置きどころ。
剣の角度。
その“違和感”を、
エウラは誰よりも早く、誰よりも正確に感じ取ってしまった。
(……来る)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
(順番が、変わった)
悠斗ではない。
次に狙われるのは――
(……私)
その瞬間、
カシウスの黒い瞳が、ふっと泳いだ。
ほんの一瞬。
だが確かに、
その視線はエウラを捉えていた。
「くっそ……エウラを……!」
悠斗は歯を食いしばった。
その声には、焦燥と怒りと恐怖が絡み合っていた。
守らなければならないと分かっている。
だが、守りきれるかどうか分からない――
その不安が、声の奥に滲んでいる。
対照的に、カシウスはひょうひょうと笑っていた。
その余裕は、この死地にはあまりにも不釣り合いだった。
「貴様のリネア……」
静かに、しかし確信を持って言う。
「こいつを“守る”力ではないな?」
一瞬、悠斗の動きがわずかに乱れる。
カシウスはそれを見逃さなかった。
「この魔女に視線を送るたび、
貴様の反応に違和感を感じておった」
剣を構えたまま、
まるで推理を語る老人のような口調で続ける。
「理屈は分からん。
だが……このまま魔女を殺してしまっても、
問題なさそうじゃな」
その言葉は、断定だった。
私。
私だけ。
私を殺せば、すべてが終わる――
そう言わんばかりの視線が、確かにそこにあった。
「やらせるかよ! くそ!」
怒号とともに、悠斗が踏み込んだ。
男に組み付こうと、真正面から突っ込む。
――喧嘩など、ろくにしたことのない動き。
見ていて、不格好だった。
その声には、
決意と焦燥、そして紛れもない恐怖が滲んでいる。
背後に守るべき存在がいるという事実が、
悠斗の全身を強張らせていた。
判断力と思考力、その繊細な均衡が、
“守らなければならない”という感情によって崩されていく。
(守らないと……エウラを……)
その想いが胸の奥で熱を帯び、
熱は筋肉へと伝わり、
わずかな震えとなって腕に現れる。
だが戦場において、
その“わずか”こそが、万物の差を生む。
悠斗の動きの変化を、
カシウスの研ぎ澄まされた感覚は即座に捉えていた。
淡々とした瞳。
しかしその奥には、
まるで悠斗の内面を覗き込むかのような冷たい理解がある。
「……焦っとるな」
低く呟く。
「やれやれ。こんな隙を、見逃すわけがなかろう」
カシウスの足が、地面をわずかに擦った。
剣を構える角度が、ほんの僅かに変わる。
悠斗には理解できないほど、微細な変化。
だが――
この“微細”こそが、死を決める。
カシウスは、悠斗の組み付きを容易くかわした。
肩には余計な力が入り、
腕の筋肉は硬直している。
呼吸も乱れ、動作は明らかに鈍い。
その“遅れ”を、
カシウスは最初から待っていたかのように、
無慈悲に利用した。
「――しまっ……!」
自分でもはっきり分かるほどの隙だった。
踏み込みが空を切り、体勢が崩れる。
後ろ足の位置がわずかに狂った、その瞬間。
全身を包む、嫌な汗の気配。
背筋を這い上がってくる、冷たい警告。
(まずい……!)
だが、その“まずい”という自覚すら――遅い。
「ほれ、ほころびじゃ」
カシウスは囁くように言い、
たった一歩だけ踏み込んだ。
その一歩が、悠斗の“時間”を奪う。
カシウスの姿がぶれる。
否、速すぎて視認が遅れているだけだ。
コンマ数秒、
足首を返すだけの、あまりにも小さな動き。
だが、その先にある“刃”は、
吸い込まれるように――悠斗の胸部へ触れた。
そして、
ドンッ!!
乾いた破砕音が炸裂する。
胸の肋骨が割れた。
乾いた音とほぼ同時に、
胸の奥で――
何かが弾けるような衝撃が走る。
衝撃は内側から爆ぜ、
肺を直接殴りつけた。
肺の中に溜まっていた空気が、
抵抗する暇もなく、
一瞬で、強引に押し出される。
「――ッ!」
熱い。
焼ける――
いや、燃やされている。
皮膚の表面ではない。
内側の肉が、直接炙られているかのような熱が、
胸の奥で爆発した。
その熱は一気に腹部へ、
背骨へ、
そして頭の中へと広がっていく。
同時に、思考が追いつかなくなる。
リネアの制御が崩れ、
力の波に押されるようにして、
エウラにかけていた術式が解けていく。
(……くそ……“結果”の調整ミスった…)
(イバラの……再発動ができてない……!)
痛みを自覚するより先に、
体が理解してしまう。
――殺される。
悠斗の顔が歪む。
指先が痺れ、力が抜け落ちる。
足が地を掴めず、身体がわずかに揺れた。
その様子を見て、
カシウスは深いため息をつくように呟く。
「ほれみろ。痛みに慣れぬ者は、ここで崩れる」
その瞬間だった。
痛みによって意識が揺らぎ、
反射が、ほんのわずかに遅れる。
カシウスの膝が軽く動き――
次の瞬間には、
その脚が悠斗の腹へとめり込んでいた。
どんッ!!
重い衝撃音が響き、
悠斗の身体はきれいな弧を描いて後方へ吹き飛ぶ。
地面を転がるたび、
石が肌を裂き、
赤い飛沫が雪と土に散った。
「がはっ……!」
喉から、
血と胆汁が混じった生臭い液体があふれ出す。
肺が痙攣し、
呼吸は断続的に途切れ、
視界の端で白と黒が点滅する。
そして――
転がり終えたその瞬間、
悠斗は理解してしまった。
――磔にされたエウラが、無防備だ。
視線が、一瞬だけ彼女へ向く。
膝をつき、
荒い息を吐きながら、
必死にこちらへ手を伸ばそうとする銀髪の少女。
その顔に浮かんでいるのは、
恐怖ではない。
――悲しみだった。
(エウラ……逃げろ……!)
声を出そうとする。
だが、喉が潰れているのか、
漏れ出たのは、空気だけだった。




