――第20話 デザイア・レゾナンス――――
エウラの首が飛んだその瞬間。
彼女の身体から黒い瘴気があふれ出す。
最初は、ただの薄い影だった。
焚き火のあとの煙のように、
輪郭が曖昧で、光をぼんやり遮るだけの、
本当にかすかな影。
しかし、エウラの胸の奥で何かが震えた瞬間、
その影は“質量”を得た。
影が濃くなるのではない。
影そのものが、
別の色、別の存在へと変わっていく。
——息をする。
そう感じた。
影が、生き物のように呼吸をし、
黒い吐息を世界へ吹きかける。
瞬く間に濃度を増し、
空気よりも重く、
闇よりも深い、
“色ではない何か”へ変質していく。
靄となり、
煙となり、
液体のような重さを持ち始める。
それは黒という表現すら追いつかない濃さ。
光を飲み込むというより、
光がもともと存在していなかったかのように、
その場の理を上書きしていく“虚無の黒”。
黒い瘴気は足元から立ち上がり、
まるで地面という境界すら否定するように、
ただ、どこからともなく溢れ、
エウラの身体を中心に渦を巻いた。
「……ッ……!」
筆頭術理士が声を漏らす。
その声には、驚愕と理解不能の混ざった濁りがあった。
瘴気はゆっくりと、しかし確実に広がる。
煙のように風で揺れることもなく、
液体のように地形に従うこともなく、
ただ“飲み込むべき領域”を判断し、
意志を持って拡大していく。
リルム村全体をのみ込み、
うねりながら広がっていく。
木が燃える「パチパチ」という音があったはずの場所が、
黒に触れた瞬間、無音になる。
炎の光があったはずの空間が、
黒に触れた瞬間、色を失う。
炎さえ、その黒に飲み込まれて色を失った。
火は光を放たないただの“揺れる影”になり、
木々は枯れ木とも燃えかすともつかない
抽象画のようなシルエットへと変わっていく。
黒は焼け跡を覆うのではない。
黒が焼け跡を“書き換えていく”。
世界が、エウラを中心に上書きされていく。
そして、黒の中心にいるはずのエウラ自身の輪郭も、
もう正常ではなかった。
割れた肉も、砕けた骨も、
痛みという概念を無視して再構築され、
黒の瘴気の奥に沈んでいく。
「なっ、これは……?」
筆頭術理士の瞳に初めて“恐怖”が浮かぶ。
「死をトリガーとする術理……?
いや、そんなもの聞いたことがない……
術理による……ブービートラップ……か……?」
「……あ…?」
彼はそこで思考を断ち切られた。
体に力が入らない。
膝が震え、崩れ落ちる。
指先ひとつ動かすことができない。
魔力を練ろうとしても、
意識がその手前で霧散してしまう。
音も、匂いも、温度も、
何もわからない。
見えているはずの世界が、
どこか遠くなる。
自分が自分の身体の中にいながら、
外からそれを眺めているような、
ひどく歪んだ感覚に落ちていく。
◆◆◆
その日——
日のリネア 《デザイア・レゾナンス》が、
世界で初めての“リネア”として観測された。
他者の“持っているもの”を喪失させ、
自分にはない“終わり”を与える。
その極限の嫉妬が、
概念として立ち上がった瞬間だった。
リネアはリルム村だけでなく、ベクトリア王国全土、
さらには隣国カリス帝国へとまで広がっていく。
それは目に見える風でも、
光でもなかった。
ただ、誰にも気づかれない速度で、
静かに、しかし確実に広がっていった。
そこに住む人間、およそ百五十四万を、
「生きる屍」へと変えた。
彼らの目は焦点を失い、
思考は止まり、
感情は凍りつく。
それでも心臓は動き、
血は巡り、
足は勝手に前へ出る。
彼らは、ただ歩くだけの屍と化した。
何も望まず、
何も願わず、
何も考えず、
ただ生かされ続ける。
終わることもできず、
自分の意志で死ぬことすら選べない。
——それはまさに、エウラ自身が味わってきた地獄そのものだった。
世界は、その地獄を、
百五十四万という数で“共有させられた”のだ。
こうして、日の魔女エウラのリネア《デザイア・レゾナンス》は、
世界に刻まれた。
誰よりも“死にたがっている者”が、
誰よりも多くの“終われない者”を生み出したその日——
彼女は本当の意味で“災厄”となった。




