――第16話 決定的な溝――
ざん、と空気が裂けた。
それはただの風切り音ではない。
この世界の空気そのものが、
未知の質量に無理やり押し広げられ、悲鳴を上げた――
そう錯覚させる、物理では説明のつかない“断裂の音”だった。
どん、と鈍い衝突音が続く。
次いで、
ばき、ばき、と、
骨なのか、岩なのか、
判別すらできない破壊音が連なり、
まるで森全体を巨大な手で叩きつけたかのように響き渡る。
吹雪に隠れていた木々が、その衝撃に一斉に身を震わせ、
枝から雪が剥がれ落ち、粉のように宙を舞った。
風は、吹いていない。
それなのに――
空気が、森が、まるで生き物のように、
怯えた鼓動を打ち続けている。
人間に許される戦いの領域ではない。
これは、人と呼べるものの戦闘音ではなかった。
――人外。
まさに、その言葉こそが正しかった。
悠斗は、カシウスから放たれる術理と、
神速の剣術を必死にかわしながら、
どうにか致命傷だけは避け続けていた。
エウラにかけているリネアを、解除することはできない。
カシウスは悠斗のリネアの効果を知らない。
リネアを警戒している今だからカシウスはエウラを殺せない。
どんな影響があるかわからないからだ。
しかし、リネアを解除すれば、カシウスは迷いなく、彼女を殺すだろう。
だから――
エウラにかけているリネアを維持したまま、
自分の周囲にも、同時にリネアを展開する。
黒いイバラが、
悠斗に迫る“致死の結果”を絡め取り、
それをはるか未来の自分へと押し付けていく。
(……借金、しまくってる感覚になるな……!)
未来へ先送りにすれば、
今は生き延びられる。
だが――
無限にできるのか、
どこかで破綻するのか、
その限界すら、悠斗には分かっていなかった。
そもそも、この力の正しい使い方も、
まだ理解できていない。
とにかく今は、
致命の一撃を、不格好にでも避け続けるしかない。
(デスクワークでなまった体には……きつい……!)
学生時代、悠斗の運動神経は悪くなかった。
むしろ、良いほうだったと言っていい。
だが、それも長年の運動不足で、
今となっては何の誇りにもならない。
――もっとも。
たとえ全盛期の運動神経が戻っていたとしても、
人の限界を超えた速度で突進し、
大剣を振るい、
さらに遠距離から術理まで飛ばしてくる相手に、
人間がまともに抗えるはずもない。
「……くそ……」
思わず、声が漏れた。
カシウスの背後に浮かぶ三つの術式陣から、
絶え間なく、致命の一撃が放たれてくる。
嵐。
火炎。
稲妻。
氷結。
すでに20を超える攻撃。
そのうち9割は、
リネアで未来へと先送りにし、
残り1割を、必死に回避していた。
――そして。
どん、と迫る火炎の術理を、
今度はリネアを使わずに避けきった。
(いけた……!)
そう思い、顔を上げた、その瞬間――
カシウスの姿が、
目の前から消えていた。
「……いない?」
視界のどこにも、あの大男の姿がない。
雪の音も、風の音も消え失せた静寂の中で、
背筋をなぞるように、嫌な予感だけが走った。
――次の瞬間だった。
目の前に、現れた。
どれほどの速度だったのか。
残像すら、認識できない。
ただ、
“いなかった者が、そこにいる”
――その事実だけが、遅れて理解に追いつく。
その手には、
冬空のように冷え切った金属光沢を放つ大剣。
刃の縁が、
わずかに悠斗の視界を歪ませている。
「——っ!」
反射的に、身体を捻った。
ざくっ!!
重い衝撃音とともに、刃が地面を貫く。
狙われていたのが自分でなければ、即死だった。
岩が、裂けていた。
人間の武器ではない。
刃が触れた箇所から、
岩がまるでバターのように、抵抗もなく割れていく。
(……岩に刺さるとか、どういうことだよ……
本当に……人間か?)
荒い呼吸を抑えながら、後方へ跳ぶ。
距離を取る。
心臓は狂ったように脈打ち、
肺は引き裂かれたように痛む。
息を吸うだけで、喉の奥が焼けつく。
だが――
まだ、負けていない。
そのとき、大男が口を開いた。
「やはり、貴様は特異じゃな」
低く、深い声。
大地の奥底から、ゆっくりと響き上がってくるような声音だった。
「ここまで、わしの攻撃を“凌いだ”人間……
いや、人間まがいの存在は、久しく見ておらん」
剣を構えたまま、
黒い瞳が細められる。
獲物を値踏みする、獣の目。
「しぶとい……
いや、それ以上に——違和感がある」
「はあ……はあ……」
悠斗は必死に呼吸を整え、
それでも、わずかに口角を上げた。
苦笑に近い表情で、言う。
「……それはどうも。
でも、まだまだ…だ」
恐怖は、確かにある。
だが今は――
それ以上に、覚悟が勝っていた。
カシウスは、静かに告げた。
「だが貴様がどれほど足掻こうとも……
その魔女を守り通すことに、意味はないぞ。小僧」
ふいに突きつけられる、問い。
「……どういうことだ?」
悠斗は息をのみ、問い返した。
カシウスはゆっくりと、
磔にされているエウラへ視線を向けながら言う。
「その魔女はな……
生きているだけで周囲に害をなす災厄じゃ」
低く、断定的な声。
「自分でも抑えきれぬ力を宿し、
存在するだけで、他者の心を蝕む」
雪が、風もないのに落ちる音だけが響いた。
「想像してみろ」
カシウスは、悠斗を見据えたまま続ける。
「貴様にも、大切な者がいるのだろう?
その者たちが、魔女のリネアによって廃人になったとしたら……」
一拍。
「それでも、貴様は許せるのか?」
悠斗の心臓が、強く跳ねた。
「災害みたいなもんじゃ」
「わしは、それを100年見続けておる」
視線を戻し、言い切る。
「こいつはな、
生きていること自体が“罪”なんじゃ」
――エウラは。
黙っていた。
目を伏せ、
肩をわずかに震わせ、
雪の上で、ただ存在している。
その姿を見た瞬間、
悠斗の胸の奥で、何かが強く締めつけられた。
逃げ場のない現実を、
突きつけられたような感覚。
カシウスの声は、冷酷の極みだった。
「そして今現在――」
一歩、踏み出す気配。
「この世界で、
こいつを殺せる可能性があるのは……
わしだけじゃ」
剣を構えたまま、言い放つ。
「邪魔をするな。小僧」
雪が、
何事もなかったかのように、
静かに落ち続けていた。
悠斗は――
握る手に、力を込めた。
結乃の顔。
祈の顔。
脳裏に、はっきりと浮かぶ。
もし、あの二人が廃人になったら。
もし、その原因がエウラだったとしたら。
自分は、それを許せるのか?
――許せない。
許せるはずがない。
それでも。
ぎゅ、と、さらに強く拳を握りしめる。
悠斗は、答えた。
「どかない。
……引かない」
カシウスの眉が、わずかに動いた。
「……なんじゃと?
わしの話を、聞いておったか。小僧」
悠斗は震える声で、
それでも、はっきりと言い切る。
「わかってる。
エウラを放置するのが危険なことも、
大切な人を危険に晒す可能性があることも」
一拍。
「でも……だからって、
“今ここで殺すこと”が、正しいとは限らない!」
雪が、風もないのに揺れた。
「いま、ここで被害を出しながらエウラを殺すことより……
被害を抑えて、
エウラを“死なせてやれる方法”は、きっとあるはずだ!」
声は、震えていた。
恐怖なのか。
怒りなのか。
それとも、その両方か。
自分でも、もう分からない。
胸の奥が、焼けるように痛む。
肺の底から、熱が逆流するように噴き上がる。
「エウラは……
自分が殺されることに、抵抗しない」
視線を、彼女へ向ける。
「死ぬことを、恐れていない。
むしろ――
死ねるなら、それでいいと思ってる!」
雪の中で身を縮めていたエウラが、
小さく息を呑んだ。
自分の名前が呼ばれた、その瞬間。
彼女の肩が、わずかに震える。
悠斗は、言葉を継いだ。
「エウラの死因のほとんどは、他殺だ。
もちろん、自分で苦痛を避けようとして死ぬことも、
事故みたいに死ぬこともあるけど……」
一拍、息を吸う。
「それでもエウラは、
能動的に、自分の力を振り回してるわけじゃない!」
カシウスが目を細める。
その瞳は、氷のように冷たかった。
「つまり……
こいつの危険性は、
“生きているだけで起こる災害”だと言いたいのだな?」
「だったら!」
悠斗は叫んだ。
吐き出した息が白く弾け、雪に吸い込まれていく。
「何十年かに一回の災厄は……
この際、見過ごすこともできるはずだ!」
カシウスの目が、鋭く光った。
「小僧」
低く、押し殺した声。
「それを……
“遺族”の前で言えるのか?」
間髪入れず返された言葉。
その一言には、重みがあった。
100年分の、
叫びと怒りと絶望が、
ひとつの声に凝縮されている。
「娘を殺された者の前で。
親を失った者の前で。
恋人を奪われた者の前で……」
刃のように続く。
「それでも、『見逃せ』と言えるのか?」
悠斗は、黙らなかった。
答えは、すでに決まっている。
「……言うよ」
カシウスの瞳が、わずかに揺れた。
「それでも、
納得してもらうしかない」
雪明かりが、悠斗の横顔を照らす。
その表情は痛みに満ちている。
それでも――揺らがない。
「遺族が許せなかったとして……
エウラを処刑しようと奮起すれば、
もっと被害が出る!」
その言葉は、
ゆっくりと、しかし確実に、
カシウスの胸の奥深くへと突き刺さっていった。
「負の感情の連鎖が、止まらないんだ。
――“エウラを殺せ、エウラを殺せ”って……
誰もが言い続ける。
復讐が復讐を呼んで、
災厄が災厄を呼んで……
そんなもの、止まるわけがない!」
カシウスは、黙って聞いていた。
悠斗は一度、深く息を吸い込み、
真正面から大男を見据える。
「でも……それじゃ駄目なんだ。
それは、歴史が証明してる」
声に力がこもる。
「500年だ。
500年もの間――
エウラは、殺せていないんだよ!」
エウラの肩が、びくりと震えた。
ふわりと落ちた雪が、銀髪の上に積もる。
「100年前までは、
エウラのリネアの発動条件すら分かってなかった。
そんな状態で……
どうやって“確実に”エウラを殺せるって言うんだよ!」
カシウスは、
しばし黙考するように目を閉じた。
ゆっくりと、
雪の落ちる音だけが残る。
そして――
意外な言葉が返ってきた。
「そのとおりじゃ」
「……え?」
悠斗の目が大きく見開かれる。
まさか、認めるとは思っていなかった。
カシウスは重く、長い吐息を漏らした。
それは、身体から抜け落ちた長い年月の亡霊のようでもあった。
「貴様の言うことは、もっともじゃ。
理屈だけを聞けば、な……」
低く、しかし否定の色はない。
「この魔女を殺すという使命は、
本来ならば……何度も破綻しておった」
悠斗は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
カシウスは視線を遠くへ向ける。
雪山の向こう、見えない場所――
まるで過去そのものを見つめるかのような虚空の目。
「だがの……」
そこで、わずかに言葉を切り、
「人間の感情は、
貴様ほど割り切れるものではない」
悠斗は唇を噛んだ。
「……娘を喪った者が、理屈で動くか?
家族を殺された者が、
『災害だから仕方ない』なんて、納得できるか?」
雪の上に、答えは落ちない。
沈黙が、否定としてそこにあった。
「……できんのじゃよ」
その声は、静かで、苦く、
どこまでも深く沈んでいた。
「わしは……100年以上、生きてきた。
その中で……
もう感情なんぞ、残っとらん」
淡々とした声。
まるで自分の心を、他人事のように語る口調だった。
「わしには、この魔女を殺すという使命しか残っておらん。
それが……わしのすべてなんじゃ」
その言葉に、
エウラが小さく息を呑む。
カシウスの声は、
100年という年月を背負った者の重みを帯びていた。
「仲間と誓ったのじゃ。
魔女を殺すと。
しとめるまで、わしは歩みを止めぬ。
わしには……もう、これしか残っとらん」
雪が、しんしんと降り続ける。
音のない世界で、
カシウスは剣を、ゆっくりと構えた。
「だから、どけ。小僧。
わしの邪魔をするな」
その構えは、美しかった。
狂いのない、雪のように静かな冷たさ。
悠斗は、低く呟く。
「……この、頑固者が……!」
意見は対立していた。
価値観も、理屈も、互いに理解はできている。
それでも――共有することはできなかった。
これは論理の衝突ではない。
正しさを比べる議論でもない。
その溝は、言葉を重ねるほど深くなっていく。




