――第12話 黑いローブの男――
エウラの首を吹き飛ばそうと、
巨大な剣が横なぎに振り抜かれようとしていた。
その剣を構えるのは、
ローブをまとった男――
巨体だった。
身長は2メートル近く。
年の頃は40代ほどに見える。
褐色の肌に、白髪の混じる髪。
深くかぶったフードが口元を隠している。
焦点の合わないその目は、
生者を見ているようで、
同時に、何も見ていない。
生き物に向けられるはずの感情が、
ごっそりと抜け落ちたような――
妙な虚無を漂わせていた。
男の背後には、3つの術式陣が浮かんでいる。
淡く発光するそれらは連動し、
巨大な剣へと力を送り込んでいた。
その一撃は、確実に――
エウラの命。
彼女の肉体を破壊せんと
断ち切ろうとしていた。
エウラの胸には、
大きな杭が深く打ち込まれている。
そのまま、
太い木の幹に磔にされていた。
抵抗した痕跡はある。
周囲の地面は抉れ、
雪は踏み荒らされている。
だが今、彼女の身体はぐったりとして動かない。
――それでも。
その目だけは、
確かに男を捉えていた。
見下すように、
氷のように冷たく。
まるで、
取るに足らないものを見るかのように。
※
身体が、反射的に動いていた。
考えではない。
本能が叫んでいた。
――“その瞬間だけは、絶対に見たくない。”
黒色のイバラが、
悠斗の身体を包み込むように、一気に展開される。
守りたい。
その思いに応えるかのように、
術が、意思を持ったかのように蠢いた。
そして――
ばきぃぃぃぃっ!!
樹木を割るような、低く鈍い音が鳴り響く。
エウラの首へと振り下ろされるはずだった剣は、
すんでのところで止まっていた。
刃を自分で止めた黒衣の男が、
わずかに目を見開く。
「……ぬ?」
その掠れた声には、
驚愕というよりも、
想定外の障害にぶつかった際の確認音のような響きがあった。
計算の誤差を確かめるような、冷たい声音。
「悠斗!」
エウラが叫ぶ。
その声は震えていた。
いつもの、自信に満ちた少女の声ではない。
はっきりと、怯えを孕んでいる。
続けて、彼女は必死に叫んだ。
声が裏返るほど、焦りきって。
「やめて、カシウス!
今はダメ!
悠斗がいるの!!」
――カシウス。
その名を聞いた瞬間、
黒衣の男の瞳に、ゆっくりと焦点が戻った。
虚無だった眼に、
冷たい理性が宿る。
そして、
かすかな意志が灯った。
その光は冷酷で、
しかし同時に、
長い因縁を背負ってきた者だけが持つ
重みを帯びていた。
「……それが、何だと言うのだ。
数十年、何度もあったことじゃ。
魔女を滅するために、
そこな小僧が死ぬだけの話よ」
淡々とした口調。
だが、その剣には――
圧倒的な殺意が宿っていた。
エウラを殺すことは、
彼にとって“任務”ではない。
ましてや“決断”でもない。
――習慣だ。
止められた刃が、
わずかに角度を変える。
次の斬撃へ移行する、
その予兆がはっきりと伝わってくる。
「貴様にかけられている術……
この感覚……」
男は、悠斗を見据えた。
「それは、そこの男のリネアか?
どういった類のものかは想像もつかんが……
8人目……か……」
その呟きには、
確かな警戒が滲んでいた。
男が刃を止めたのは、
悠斗のリネアを認識したからだ。
「それに、貴様……」
カシウスは視線をエウラへ戻す。
その口調は、
まるで旧友を諭すかのように、奇妙に穏やかだった。
「いつから、人間のような物言いをするようになった?」
かつてを知る者だけが使う、
断定的な言葉。
「以前の貴様は、
誰かを庇うなどと、
口にすらしなかったはずだ」
一拍、間を置き。
「……そこの男が、
そんなに大切な玩具か?」
エウラは叫んだ。
声は震え、言葉は今にも途切れそうだった。
「そうよ! 特別なの!
まだ出会ったばっかりだけど……壊したくない!」
必死に、噛みしめるように続ける。
「だからせめて……
悠斗が、安全圏に出るまでは待って!!」
カシウスは、わずかに眉を上げた。
そして、ゆっくりと悠斗へ視線を向ける。
その目は冷たい。
だが同時に――
獲物を見つけた獣のような興味も宿していた。
「……だ、そうだ、小僧」
淡々と、しかしどこか愉しげに告げる。
「リネア使いなら、基本的に見逃すわけにもいかんが……
5分やる」
剣を肩に担ぎ直し、続けた。
「遠くへ逃げるがよい。
5分経ったら――命の保証はせん」
悠斗は、一瞬たりとも迷わなかった。
「断る!」
その一言で、
雪山の空気が凍りついた。
エウラですら、息を呑む。
カシウスの剣に宿る殺意が、
はっきりと一段、濃くなる。
「エウラは……
俺が殺すと誓った」
悠斗は、真正面から言い切った。
「お前の横取りは、許さない」
その瞬間、
カシウスの目が、ほんの一瞬だけ大きくなる。
驚きとも、
失笑ともつかない、
奇妙な表情。
「…………若いな、小僧」
低く、噛みしめるように言う。
「貴様、この魔女が
どういう存在か知っての発言か?」
悠斗は、手に力を込めた。
恐怖よりも、覚悟の方が勝っていた。
「当然知ってる」
一拍置き、続ける。
「日の魔女。リネア使い。
エウラが死ぬと、俺は廃人になるんだろう?」
それでも、と言葉を繋ぐ。
「……それでもいい」
視線を逸らさず、言い切った。
「僕が――俺が、
エウラを殺すと誓ったんだ」
その言葉に滲む決意に、
エウラの身体がわずかに震えた。
彼女は、厄災を振りまく魔女であるがゆえに、
負の感情以外から自分の死を望まれるという概念を知らない。
誰もが、
憎怒と恐怖から彼女を殺したがる。
憎しみ。
拒絶。
排除。
そこに、
安らぎや救いは一度もなかった。
誰かが、
自分の安らかな死を約束してくれるなど――
そんなことは、
生まれてから一度も、なかった。
その概念そのものが、
彼女にとって新しく、
そして――
どこか、救いでもあった。
「…………」
エウラは、何も言わなかった。
不死の魔女が、
初めて言葉を失ったように見えた。
カシウスは鼻で笑った。
それは嘲笑ではない。
ただ、呆れきった者の吐息だった。
「話にならんわ。
……まあ、そうか。
だが悪いが、そんなに時間もなくてな」
剣を構え、静かに告げる。
「小僧、そのリネアを解除しろ。
さもなくば――貴様を殺す」
剣先が、ゆっくりと悠斗へ向けられる。
たったそれだけの動きで、
空気が鋭く裂けたように感じられた。
雪が、揺れる。
森の葉が、震える。
まるで世界そのものが、
その剣先へ吸い寄せられているかのようだった。
「この魔女を殺すも、
貴様を殺すも、
結果は同じだ」
悠斗は、深く息を吸った。
胸の鼓動は速い。
それでも、揺らがない。
恐怖はある。
だが、それ以上に――退く理由がなかった。
悠斗は、ちらりとエウラを見る。
エウラは、この森で10年間、たった一人で暮らしてきた。
孤独の中で。
野生動物に殺され、
自然の厳しさに何度も命を奪われながら。
それでも彼女は、話すことが大好きな少女だった。
きっとそれは、悠斗が――
10年ぶりに「会話が成立する相手」だったからだろう。
エウラは10年前、
ドイツ・レムシャイトで保育士をしていたという。
子どもが好きで、
子どもたちに囲まれて過ごす日々を、
語るときの彼女は本当に楽しそうだった。
だが、カシウスに居場所を特定され、殺された。
その瞬間、リネアが発動し、
目に見えない“死”の波動がレムシャイトを包んだ。
エウラには止められなかった。
大好きだった子どもたちも、
その保護者たちも、
街にいたすべての人々が廃人となり、
10年経った今も、その状況は変わっていないだろう。
彼女はそのことを、
どこか寂しそうに語っていた。
だがエウラは、カシウスに限らず、
町で暮らしては町を滅ぼすことを、
幾度となく繰り返してきた。
エウラは死ぬたびに、
「もうこれ以上、犠牲を出さないようにしよう」
と決意する。
人里を離れる。
森へ戻る。
誰とも関わらない。
だが10年、
あるいは100年という時間が流れると、
人の精神は孤独に耐えられなくなる。
人と触れ合いたいと願うことは、
罪なのだろうか。
誰とも孤独を分かち合えず、
一人で食事をすることを強いられる彼女の苦しみを、
いったい誰が理解してやれるというのか。
だから、悠斗は決意した。
――彼女を、殺すと。
だが今は違う。
今この状況でその選択をしても、
エウラは死なず、
ただ周囲に甚大な被害をもたらし、
苦しむだけだ。
それだけは、絶対に許されない。
エウラを苦しませるのは、絶対に駄目だ。
苦しむのは、自分だけでいい。
エウラが死ぬのは、
本当に、本当に、人生の最後であるべきだ。
悠斗が、その“最後”の死刑執行人になる。
それが、悠斗の決意した覚悟だった。
だから今ここで、
カシウスにエウラを殺させない。
苦しませない。
――たとえ、自分の命を懸けることになっても。
「……決めたのなら」
悠斗は構えながら、言い切った。
「最後までやるだけだ。
途中で放り出したりはしない!」
その言葉に、
カシウスの目へ、ほんのわずかな賞賛が浮かぶ。
「……昔のわしを見るようだ。
だが悪いが、小僧。
運も実力もなければ、
今の貴様に未来などない」
それは戦士の眼だった。
エウラを殺すためだけに生き続けてきた男。
血に塗れた歴史が、その瞳の奥に沈んでいる。
カシウスは、静かに構えた。
雪が舞い、空気が張りつめる。
エウラは震えていた。
いつもの飄々とした態度は影も形もない。
銀髪が雪に濡れ、
今はただの少女のようにか弱く見える。
悠斗の胸に、恐怖と覚悟が入り混じる。
限界ぎりぎりの緊張が、全身を支配していた。
カシウスは――
静かに、深く息を吐いた。
それは、
戦士が命のやり取りに踏み込む前に行う、
最後の呼吸だった。
血の匂いはしない。
風も吹かない。
雪の音すら止まった。
世界が、
戦闘開始の瞬間を見守るかのように黙り込む。
「――さて、小僧。
ここから先は、命のやり取りじゃ」
森の静寂が緊張を吸い込み、
雪が、はらりと舞い落ちる。
悠斗の背筋が震え、
エウラが息を呑む。
そして――
火ぶたは、切って落とされた。




