表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弁護士は、現代社会に暮らす、悲しみを抱いた魔女達を救いたい  作者: れさ
第二章 最古の魔女と呼ばれし者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/73

――第10話 祝福と呪い――

1520年。


12歳になったその冬、


疫病と飢え、そして骨に染み入る寒気は、

ついに限界を超え、少女の身体を容赦なく蝕んでいた。


死体処理場――


“分解術理”を用いて死骸や汚物を処理する地下の穴倉は、

一年のうちで最も過酷な季節を迎えていた。


外の世界がどれほど凍え切っているのか、

ここでは知る由もない。


だが、地上から流れ落ちてくる冷気は、

石壁にこもった腐臭と混ざり合い、

鉄を舐めたような寒さとなって肺を刺した。


空気は乾ききり、

鼻を突く悪臭の奥に、

生き物の体温を奪う気配がはっきりと潜んでいる。


少女の指先は紫色に変わり、

関節は膿で腫れ上がっていた。

力を入れなくとも、皮膚が裂けそうな感覚がある。


息を吸うたび、

胸の奥で何かがひび割れるような痛みが走った。


咳をすれば血が出る。

それでも、咳をする力すら残っていない。


監督官たちは今日も高い台に腰をかけ、

奴隷たちの様子を淡々と見下ろしていた。


彼らにとって、

奴隷とは“処理された死体の数”だけ価値を持つ存在だ。

その価値を生み出せなくなった瞬間、

次に処理される側へ回される。


――12歳の少女の命も、


例外ではなかった。


「5番、前へ」


その声が響いたとき、

少女はすでに、自分の足が動かなくなっていることを理解していた。


命令に応えようとしても、

膝は言うことを聞かず、

床に縫い留められたように重い。


仲間の奴隷が、

何も言わずに彼女の背中を押し出した。


その手には、哀れみも恐怖もない。

ただ、次が自分でないことへの安堵だけがあった。


少女は、よろめきながら前に出る。


目の前に立つ監督官は、

彼女を見下ろし、

まるで壊れた桶か、

使い物にならなくなった道具でも見るかのように、

不快そうに眉をひそめた。


「……こいつ、もう使い物にならんな。

疫病か、飢えか、寒さか……

どれでもよいが、

随分と使い勝手は良かったのだがな。

しかし、役に立たぬなら――」


その言葉の“次”が何を意味するのか、

少女はよく知っていた。


昨日も、


一昨日も、


先週も。


同じように動けなくなった奴隷が、

何の前触れもなく「処分」されていく光景を、

彼女は何度も見てきた。


監督官はためらいなく、

細身の剣を抜いた。


そして――

少女の胸を、一直線に刺し貫いた。


温かい血が、

一気に胸元へと広がる。


(……ああ)


(やっと、終わる)


そんな静かな諦めが、

少女の心を満たしていった。


死は恐ろしいものだと、

ずっと聞かされてきた。


だが、実際に訪れたそれは、

思っていたよりもずっと穏やかだった。


激しい痛みよりも先に、

“終わり”の気配が、

そっと意識を包み込む。


薄れていく意識の中で、

周囲の死体が、

いつもより近くに感じられた。


羊飼いの少年の死体。


昨日まで隣で笑っていた、

リラという名の少女の死体。


疫病で全身が黒く変色した男の死体。


そのどれもが、

最後の瞬間、確かに願っていた。


――助けて。


――死にたくない。


――生きたい。


少女は、毎日、何十もの死体に触れてきた。


腐りかけた皮膚を剥ぎ、

汚物に塗れながら、

分解のために

運び、

積み上げ、

粉砕する。


そのたびに、

死体に残った“生への渇望”の残滓が、

ほの暗い霧のように、

確かにそこに漂っていた。


少女は、知らぬまにそれらを

吸い込み、

触れ、

浸し、

蓄積していた。


それは、術理師たちの誰も知らない

――“分解術理の副作用”だった。


分解術理は、

単に死体の崩壊を促すためだけのものではない。


死者が最後に放つ、

強い心の揺らぎ――

「死にたくない」

「生きたい」

「まだ終わりたくない」


そうした魂の震えを、

術理の過程で、

微弱な“残響”として周囲に撒き散らしていた。


普通の人間なら、

それに触れても何の影響も受けない。


風のように通り過ぎ、

意識にも残らず消えていく。


だが――


7年以上、

毎日、

何百、何千もの死体に触れ続けた少女の身体には、

その残響が、知らぬうちに幾層にも積み重なっていた。


埃のように。

灰のように。


彼女の内側に、

静かに、

黙って、

沈殿していた。


そして――12歳のその日。


胸を刺し貫かれ、

死の淵へと滑り落ちた、その瞬間。


世界の外側から、

“だれか”の視線が、

彼女を覗き込んだ。


その感覚は、

空に穿たれた巨大な穴から、

冷気が一気に吹き下ろすようなものだった。


温度も、


匂いも、


言葉もない。


ただ、

“存在”そのものの重みだけが、

圧倒的な密度で降り注ぐ。


少女は、死にゆく意識の底で、

それが人のものではないと直感した。


神でもなく、

怪物でもなく、


もっと遥か上位にある――


“観測者”のような何か。


――見つけた。


声なき声が、

確かにそう告げた気がした。


少女の心臓は完全に停止した。


身体は冷え、血は流れ出し、

死はすでに確定していた。


だが次の瞬間、

心臓がもう一度、

“打とうとした”。


そのわずかな“再起動”の隙間へ――


沈殿していた無数の死者たちの“死の叫び”が一気に逆流してきた。


「死にたくない」


「帰りたい」


「ここに置いていかないで」


「助けて」


「いやだ、いやだ、まだ死ねない」


「やだ、やだ、やだ」


それらは言葉ではなく、

魂の震えであり、

願いの残響だった。


死体から剥がれ落ちた無数の“声”が、

一度に彼女の肉体へ流れ込んだ。


胸の傷から流れ出るはずの血は、

逆に収束していく。

骨が再び形を戻し、

腐りかけていた臓器が再生し、

壊死したはずの細胞が再び光を帯びる。


その光は暖かいものではなく、

冷たく湿り、

底なし沼のように重い。


――ああ、これは生き返りではない。


少女は直感した。


これは“死なない”という、

終わりの欠落だった。


死が削ぎ落とされ、

欠けた歯車のように世界の理から外れた。


監督官が驚いた声を上げた。


「……生きている? 刺したはず――」


少女の胸には、

確かに穴が空いていた。


だがその傷はみるみるふさがり、

血さえ残らない。


死ぬはずの肉体が、

生の方向へと強制的に巻き戻されている。


「死なん…のか…?」


監督官が呟いたとき、

少女は初めて、

何かが自分の中で何かに覚醒したのだと知った。


それはのちに、

学者により“世界からのギフト”と呼ばれ、

“魔法”とも呼べる力。


だが少女には、

その力が祝福ではなく

呪いであることが、

一瞬で理解できた。


死ねない奴隷は、

最も便利な道具だ。


その日を境に、

彼女の世界はさらに壊れていった。


眠らなくていいのだから、

休息は許されない。


食べなくても死なないのだから、

食料は与えられない。


骨が折れようと、

皮膚が裂けようと、

すぐに再生するのだから、

過酷な作業はすべて彼女に押しつけられた。


少女は死体と汚物に満たされた地下で、

半永久的に働き続ける“機械”となった。


同じ場所に座り、

同じ死体の山を崩し、

同じ悪臭を吸い続け、

同じ血を浴び続ける。


やがて、

彼女の中で時間の感覚は崩れていった。



一日が一年のようで、

一年が一瞬のように過ぎる。


季節の変化だけが、

外の世界が存在することをかろうじて示している。


死ねないということは、

終わりがないということだった。


終わりがないということは、

救いがないということだった。


少女は世界から“死”を奪われ、

その代わりに“永遠の労働”という名の地獄を与えられた。


不老不死なんて、

誰も望んでいない。


少なくとも、

この小さな少女は――

決して、望んではいなかった。


それでも世界は、彼女にそれを押しつけた。


ただ、近くにあったから。


ただ、無数の死の願いが積もりすぎていたから。


ただ、彼女の心がそれを受け皿としてしまったから。


こうして少女の心は、

人ではない何かへと変わっていった。


死なぬもの。


終わりのないもの。


逃げることも、

壊れることも許されないもの。


彼女は後に“ソルの魔女”と呼ばれる存在――


魔女と呼ばれる精神性へと、強制的に歩かざるを得なかったのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ