――第9話 指切りげんまん――
近くには大きな滝があり、
エウラはそこで体を洗っているという。
――この真冬に、滝行。
想像しただけで背筋が凍った。
俺だったら即死だ。
というか、普通の人間なら、近づいただけで肺が止まりかねない。
だがエウラは、けろりとしている。
凍てつく滝の下で笑い、
髪を洗い、
湯気ひとつ立てずに戻ってくる。
それは彼女にとって、
“死んでも問題ない”という前提があるからだ。
もっとも、
食べなければ餓死するらしい。
が、死ねば生き返るから問題はない――
彼女は、そう言った。
ただし。
「餓死すると、このあたり一帯が“死の森”になるのよ。
最近はちょっとリネアの使い方に慣れてきたから、
そこまで広範囲には広がらないけどね」
あまりにも軽い口調だった。
そのせいで、余計に背中に冷たい汗が流れる。
――死の森。
だから彼女は、できるだけ死なないように努力しているらしい。
“生きているほうが周囲のためになる”という理屈は、
普通に考えれば完全におかしい。
だが、
不死の魔女である彼女にとっては、
それが切実な現実なのだ。
もっとも、
野生動物に殺されることはよくあるらしく、
そのたびに周囲の森が死ぬらしい。
――頼むから。
――俺がここにいる間だけは、死なないでくれ。
心の底から、そう思った。
そんなことを考えていると、
不意に、背後から声をかけられた。
「ねえ、悠斗?」
振り向くと、
エウラが石臼のような道具で薬草をすり潰していた。
ごり、ごり、ごり……
規則的だった手の動きが止まり、
彼女はそのままこちらを見上げる。
「なに?」
この一週間、ずっとこの調子だ。
話の脈絡など関係なく、
思いついた疑問をぽんぽん投げてくる。
「悠斗は、なんで藍に殺されかけたの?」
唐突な問いだった。
「なぜって……いきなり襲われたからだよ」
「話を聞く限り、悠斗もリネア使いなんでしょ?」
「リネアを“自分”に使う。
理からは外れている気がするけど、それが可能なリネア。
それを使えば、あなたは死なないでしょ?」
「にも関わらず、あんな傷を負ってたってことは、
誰かのためにリネアを使ったんでしょ?」
「死にたくなかったの?」
まっすぐな視線。
責めるでも、試すでもない。
ただの純粋な疑問。
なぜ俺は命を賭けたのか。
依頼人である結乃のため?
だが、彼女と知り合ってから、まだ日も浅い。
その相手を救うために、重傷を負うほどの理由――。
……正直、自分でもはっきりとは分からない。
しばらく考えて、悠斗は肩をすくめた。
「僕にも、よくわからないよ」
正直に答えた。
「ただ……まだ10代の女の子が、
目の前で殺されるって分かっていて、
それを放っておくことはできなかった。
それだけだよ」
エウラは首を傾げる。
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん。善人ぶりたいとかじゃなくて?」
「そんな立派なもんじゃないよ」
悠斗は笑った。
「善行をする聖人になりたいとは思わない。
でも、できるだけ善いことをしたいとは思ってる。
自分にできる範囲でね」
エウラはしばらく黙り込み、
悠斗をじっと見つめていた。
「……じゃあ、エウラも助けてくれるの?」
「もちろん」
即答だった。
「僕にできることが何かは分からないけど、
手助けはしたい」
「それで、自分の命が危なくなっても?」
「まあ、そうなるね」
少し笑って、冗談めかして付け加える。
「たぶん、僕は自分の命にあまり執着がないんだ。
死んでもいいと思ってる。
……あ、でも藍に捕まったときみたいな拷問は、
さすがに勘弁してほしいな。
死ぬなら、さくっと死にたい」
すると、エウラがくすくす笑った。
普通の人間なら眉をひそめる話題だろうに、
彼女はこういう冗談も自然に受け止める。
「じゃあさ」
エウラが、少し意地悪そうに言った。
「その子とエウラが殺し合いしたら、
どっちの味方をするの?」
「……え?」
「ありえるでしょ?
その子が“日の魔女を討伐する”って言い出したら、悠斗はどっちを選ぶの?」
悠斗の心を除くように見てくるエウラ
その問いは、刺すように鋭かった。
どう答えるべきか考えながら、逆に聞いてみる。
「君は死にたいんだろ?」
すると――
エウラは目を丸くして、問い返す。
「なぜ?」
「君は……自分の不死について興味を持ってた。
死に方を探してるんじゃないかって、
そう思っただけだよ。
何百年も生きてる人の気持ちなんて分からないけど……
そう考えてしまうこともあるんじゃないかって」
そのときだった。
「死にたいわ」
「え?」
即答。
しかも今まで聞いたことがないほど
低く、
冷たく、
真剣な声。
「私はずっと死にたいと願っているの。
死にたいと願っているのに、
世界は私を殺してくれない。
学者はこれを“世界のギフト”と呼んだわ。
……ひどい話よね。こんなの、私にとっては呪いよ」
エウラは胸に手を当て、
うつむいた。
何百年もの孤独、
失われ続けた時間、
終わらない死と苦痛。
彼女が背負ってきたものの重さを、
その苦痛を初めて垣間見た気がした。
しばらく沈黙が落ちる。
薬草の香りが小屋全体に広がる。
「じゃあさ」
「ん?」
悠斗は静かに言った。
「僕が君を死なせてあげると言ったら?」
その瞬間――
エウラの表情がぱあっと花開いた。
「ほんとうに!? “日”の魔女との契約ね!」
彼女は勢いよく小指を差し出す。
子どものように無邪気で、
どこか破滅に憧れるような笑顔。
少し戸惑う悠斗。
本当に魔女とこんな約束をしていいのか――
そんな迷いもあったが、
目の前の笑顔を裏切ることは、
どうしてもできなかった。
「ああ、じゃあ、約束だ。僕が…」
「君を殺す」
指切りげんまん。
それは世界最悪の災厄扱われている魔女と交わしていい契約ではなかったのかもしれない。
それでも、
その瞬間の彼女の表情はあまりにも幸せそうで。
だから、悠斗は続けて言った。
「だからさ」
「ん?」
エウラが首をかしげる。
「さっきの質問の答えだけど……
その子、結乃の味方をして、
君と敵対することになるのかな?」
少しだけ意地悪く言ってみた。
次の瞬間――。
「もーー!!」
エウラが頬をぷくーっと膨らませ、
ぷんぷん怒り出した。
「女心が分かってないんだから!!」
「えっと…じゃあ……そうだな…」
「エウラの味方をする…ってこと…?」
試しに言ってみる。
すると――。
ぱあっと、
花が咲いたように表情が明るくなった。
「そう! そうよ!」
胸を張って、
満足そうに言う。
「悠斗はエウラの味方でいて頂戴!
ふふん!」
完全に機嫌が直っていた。
――なんだこれ。
悠斗は苦笑しながら、小屋の中を見回した。
薬草の匂い。
燃える暖炉
そして、小屋の真ん中でこちらを見つめる、
日のリネア使い。
世界最悪の災厄。
そしてどこまでも不器用で、
寂しがり屋な少女。
……自分は、とんでもない存在と約束を交わしてしまったのかもしれない。
だけどなぜか――
後悔は、まったくなかった。




