――第3話 静寂の邸宅を尋ねて――
2025年12月7日 日曜日 11:00
結乃の生活環境を確認するため、悠斗は上賀市内のはずれ、山奥に佇む久我家の屋敷を訪ねた。
空からは、絶え間なく雪が降っている。
車が私道へと滑り込んだ瞬間、空気が変わる。
それまで続いていた舗装路は、ある地点を境に白い石畳へと切り替わり、タイヤが踏むたび、雪を噛むような乾いた音が規則正しく響いた。
やがて、雪に霞む視界の奥に、ゆっくりと“その建築物”が姿を現した。
森そのものが道を譲っているかのように、両脇の並木が不自然なほど整然と後退していく。
三階建ての石造りの館。
中世ヨーロッパの城砦を思わせる尖塔が幾重にも連なり、黒曜石のように艶めく漆黒の屋根瓦が、冬空の下で鈍く光っている。
門構えの左右には、広大な花園が広がっている。
――冬であるにもかかわらず、だ。
色とりどりの花々が咲き誇り、枯れの気配は一切ない。
霜も、寒風も、雪さえも、この場所だけを避けているかのようだった。
やがて、重厚な鉄製の門が自動で静かに開いた。
車はそのまま、広い円形のロータリーへと滑り込む。
中央には、大理石を削り出した女神像が据えられている。
「……すごいな」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。
ここはもう、まるで異世界だという錯覚を覚える。
悠斗は車を停止させ、改めて周囲を見渡す。
広大な敷地。
和洋折衷の巨大な屋敷。
手入れの行き届いた庭園と、威圧感すら覚える建築美。
ふと、自分の生活が脳裏をよぎる。
悠斗の住まいは、上賀市内の1LDK。家賃は8万円。
相場よりはやや高めで、これでも「少しは贅沢をしているつもり」だった。
それは、あくまで”一人暮らし”という枠の中での話だ。
比べること自体が、すでに間違っている。
「……これはまた、俺の住まいと比べると、惨めになるな」
車から降り、屋敷の玄関の方へ目を向ける。
悠斗は一人の少女の存在に気づいた。
玄関前に、メイド姿の少女が静かに立っている。
薄い灰色の髪は腰ほどの長さがあり軽くカールがかかっている。
灰色の瞳は感情の揺れをほとんど映さず、可憐な少女という印象を与える。
背筋は真っ直ぐに伸び、まるで頭の先を糸で引かれているかのように、一分の隙もない姿勢だ。
深い紺色のロングスカートに、白いエプロンとケープ。
胸元には控えめながらも、はっきりと家紋の刺繍が施されている。
冷たい冬の風が吹きつけているにもかかわらず、少女の表情は微動だにしない。
乱れ一つない髪型と相まって、その佇まいは生身の人間というより、精巧に作られた彫像を思わせた。
悠斗と目が合った瞬間——
その厳格な空気がふっと柔らかくほどけた。
メイドの少女は滑るような所作で一歩前へ進み、丁寧にスカートをつまんで深く一礼する。
「お待ちしておりました、真神様。ようこそお越しくださいました。
朽木祈と申します。久我家で代々メイドを務めております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」
声は鈴のように澄んでいながら、館の格式を損なわない落ち着きがある。
言葉の一つひとつが、訓練ではなく、長い年月の生活の中で身についた“本物”の品だと分かる。
悠斗は一瞬戸惑いながらも、「どうも……」と短く会釈する。
その動きを待っていたかのように、祈はすっと”手”を差し出した。
「足元が少々お悪うございます。どうぞ、お手を。」
白く細い指先はしなやかで、触れる直前、ほんのり温度があるのが分かる。
ふと目が合う。淡い灰色の瞳が、柔らかな微笑みをたたえていた。
「本日は当家へお越しいただき光栄に存じます。
どうか、ごゆるりとお過ごしくださいませ。」
屋敷の重厚な扉が静かに開く。
流れ込んだ風に、エプロンのリボンがふわりと揺れた。
「あ、はい。よろしくお願いします。
その……メイドさんって、今でもいらっしゃるんですね。正直、初めて見たもので、少し驚いてしまっ て」
言葉を選びながら口にしたつもりだったが、自分でもぎこちないのが分かる。
この場の空気に、完全に飲まれていた。
思わず戸惑いを滲ませてそう答えると、メイド服の少女――祈は、わずかに目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。
「くすくす。久我家のルーツはドイツにあるそうですよ。
ですから、この文化を“あえて残している”のだと、先代様がおっしゃっていました」
「なるほど……。マナーもろくに知らない平民ですが、よろしくお願いします」
「平民だなんて。そんなふうに謙遜なさらなくて大丈夫ですよ」
祈は穏やかに首を振り、微笑みを深める。
「どうぞ、楽になさってください。ここでは、誰も気にする人はいませんから」
「……ありがとうございます」
言い直すようにそう告げると、胸の奥に張りつめていた緊張が、ほどけた気がした。
若干の緊張を抱えたまま扉をくぐった瞬間、空気が一変した。
外の冷気は完全に遮断され、代わりに穏やかな暖かさが肌を包み込む。
建物の構造から察するに、屋敷は東館と西館に分かれているようだった。
そして、その中央――今、悠斗たちが立っている場所には、広々としたロビーが設けられている。
足元には高級そうな絨毯が敷き詰められ、歩くたびに音を吸い込む。
壁際には大きな暖炉があり、揺れる炎がロビー全体をやわらかく照らし、室内を心地よく温めていた。
ロビーの奥には重厚な扉が見える。おそらく、あの先が客間なのだろう。
中央は吹き抜け構造になっており、見上げると二階へと続く回廊が東西に伸びているのが分かる。
東館と西館へ通じる通路もそこから分岐しているらしく、視線を巡らせるだけで、この屋敷の広さが実感できた。
――ここでかくれんぼをしたら、絶対に見つからないな。
そんな場違いな感想が、思わず頭をよぎる。
「これはまた……すごいですね」
感嘆を隠しきれないまま、悠斗は祈の方を見て問いかけた。
「ここには、今どれくらいの方が住んでいるんですか?」
「私と、結乃様の二人でございます」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が頭に追いつかなかった。
「二人で、この屋敷に……?
僕のアパートの百倍くらいありそうなのに……。
いや、もうここまでくると、嫉妬する気も起きないですね」
半ば呆然としたまま、思ったことがそのまま口をついて出る。
すると、祈は何でもないことのように、穏やかな声で続けた。
「真神様も、これからこちらにお住まいになるのですよね?」
「……ん?」
突然の告白に、思考が完全に停止する。
気づけば、敬語もすっかり抜け落ちていた。
「え、ちょっと待って。
……どういうこと?」
「結乃様の後見人をお引き受けになったと、伺っております。
であれば、保護者としてご一緒に住まわれるものではありませんか?」
――おかしい。
どうして、そういう結論になる。
たしかに、この屋敷の広さなら「同じ屋根の下」と言っても、実質は隣家どころか別棟に近い距離感だろう。だが、それとこれとは話が違う。
「い、いえ。僕は、彼女が成人するまでの一年間だけ、財産管理のために後見人を引き受けただけです。
それに……僕が同じ屋根の下って、さすがに嫌でしょ?」
できるだけ冗談めかして言ったつもりだった。
だが、祈は少しも動じることなく、穏やかに首を振る。
「ご心配には及びません。
真神様は、結乃様に“おいた”をなさるようなお方には見えませんから」
……おいた。
その単語に、一瞬だけ言葉を失う。
(それをやった瞬間、人生終了だな)
内心で自分に突っ込みを入れつつ、悠斗は肩をすくめた。
「世の中にはね、見た目じゃ分からない人がたくさんいるんだよ。
『まさか、あの人が』って言葉、何度も聞いてきた。
だから、油断はしないほうがいい」
半ば冗談、半ば本気だった。
祈は一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに頷く。
「肝に銘じます、先生。
……ですが、ご安心くださいませ」
そう言って、祈は微笑んだ。
「結乃様は、お強いですから」
「……強い?」
思わず聞き返す。
格闘技でも嗜んでいる、という意味だろうか。
「ん? それは、どういう――」
「先生!」
澄んだ声が、二階の回廊から玄関ホールへと降ってきた。
思わず見上げると、制服姿の少女――久我 結乃が、欄干越しにこちらへ身を乗り出し、軽く頬を紅潮させながら手を振っている。
「寒いのに、そんなところで立ち話なんてしてないで、客間に入ってください!
祈も、先生に早くお上がりいただいて!」
叱るようでいて、どこか照れた調子。
その声に、空気が緩む。
「かしこまりました、結乃様」
祈は即座に応じ、深々と一礼したあと、静かに悠斗へ向き直った。
「さあ、どうぞ、真神様。
久我家へようこそ――」




