――第5話 死のにおい――
1518年
バルト海沿岸に位置する小国――
ベクトリア王国は、凍える潮風と疫病に、常に晒されていた。
北から吹きつける海風は、
氷を砕く刃のように冷たく、
王都レムレーンの石造りの建物の隙間を縫って吹き抜けながら、
塩と、湿った土と、
そしてどこか――死の匂いを帯びて運ばれてくる。
海岸に立つ灯台守でさえ、
しばしば、こんな迷信めいた言葉を口にした。
「風が、死人の声を運んでくる」
冬は長く、
夏は、短い。
貧しい農民たちは、
わずかな蓄えを使い果たし、
弱った者から順に、疫病に倒れていった。
市井の人々にとって、
“死”は異常ではなかった。
それは、
四季が巡るのと同じくらい、
当たり前のものだった。
そんな国に生まれた、一人の少女――
エウラは、
その「死」が最も濃く、重く、集まる場所で、
生きていた。
◆◆◆
「次だ、早くしろ。“5番”」
怒鳴り声が、
湿った石壁に反響した。
ここは、王都レムレーンの地下に広がる巨大な処理場。
地上から幾重にも重なる階段を降りた先、
陽光の一欠片も届かぬ場所にある。
運搬用のレールの上を、
今日も死体と汚物を積んだ荷車が、
ぎしぎしと軋みながら進んでくる。
死体は――
兵士、
農民、
旅人、
病人、
子ども。
誰であろうと、平等に腐る。
排せつ物には家畜のものも混ざっており、
粘ついた臭気は、
地面から立ち上る蒸気と絡みつき、
人の鼻腔を焼いた。
処理場には、
20人ほどの奴隷が集められ、
無言で作業を続けている。
彼らの表情に、
生気というものは、ほとんど残っていない。
落ちくぼんだ目。
青白い皮膚。
乾き、ひび割れた唇。
それでも――
生きている限り、彼らは働かされる。
働けなくなれば、
次は自分が“処理対象”になるだけだ。
エウラも、その一人だった。
歳は、10になったばかりの少女。
しかし、この場所では、
名前で呼ばれることはない。
彼女の名前は、ただの番号――“5番”
「これで……6人目、か」
死体の山を前に、
エウラは淡々とつぶやいた。
周囲の大人たちが、
苦々しい表情を浮かべる。
大人ですら、
一日に一体の死体を分解できれば、良いほうだ。
分解術理は多くの体力を奪い、
ふらつきながら、
その場に座り込む者もいる。
だが、エウラは違った。
今日だけで、すでに6体目。
それでも、
息ひとつ乱れていない。
――特異な才能を持っている。
監督官たちは、そう称した。
だが、
少女にとって、それは才能でも何でもない。
ただの“慣れ”。
5年間、繰り返してきた――
日常でしかなかった。
◆◆◆
「エウラは……すごいね。
私なんて、まだ一体も処理する力がなくて、
いつまでたっても汚物処理班だよ」
そう声をかけてきたのは、
1年前に、この場所へ連れてこられた少女だった。
リラ。
貴族たちからは、「159番」と呼ばれている。
同じ10歳ほどの年頃だが、
胸元には、術理核を埋め込まれた痕が、
生々しく残っていた。
彼女の言う“汚物処理班”とは、
分解術に比べれば負担が少ないとされる、
浄化術を任される新米の班だ。
排泄物や汚水を、術理で処理する。
それでも過酷であることに変わりはないが、
分解術理とは、消費されるエネルギー量が桁違いだった。
「ううん。
慣れてるだけだよ」
エウラは、淡々と答える。
「もう、5年やってるから」
「……5年も?」
リラは、目を大きくした。
この処理場に連れてこられるのは、
たいてい10歳前後の子どもだ。
5歳から連れてこられる者など、まずいない。
「でも……
大人でも、一体が限界なんだって……
エウラは、本当にすごいよ……」
「すごくなんか、ないよ」
エウラは首を振る。
「ただ……
もう慣れちゃってるだけ」
「……でもさ」
リラは、ぽつりと続けた。
「いつまで、
こんなこと、しなきゃいけないんだろう」
「…………」
エウラは、答えなかった。
リラの声には、
怒りも、悲しみも、ほとんど乗っていない。
疲れ切っているというより――
あまりにも長い諦めが、
底に沈殿してしまったような、
そんな響きだった。
◆◆◆
死体分解の作業は、
5年間、毎日続けられた。
最初のうち、エウラは震えていた。
死体の肌は冷たく、
灰色に変色し、
口を開けたままのものもある。
腕が、もげかけている者。
体中に蛆が湧いている者。
血が固まり、黒くこびりついている者。
夜、眠ろうとしても、
閉じたまぶたの裏に、その顔が浮かんだ。
うつろな目が、ぎょろりと動き出す錯覚に襲われる。
眠れない夜が、何度もあった。
泣き出したこともある。
だが――
泣いたところで、誰も慰めてはくれない。
泣けば、監督官に殴られ、
「泣く暇があるなら働け」と蹴り飛ばされる。
それが、いつものことだった。
さらに、ときおり――
まだ、生きている者が運ばれてくることもあった。
分解する直前に、息絶える者。
作業台に乗せられてから、死ぬ者。
「生きたい……」
「死にたくない……」
重症の兵士。
疫病に侵された子ども。
病に伏した母親。
医療の発達していないこの時代では、
深手を負うか、
疫病にかかれば――
それは、ほぼ死を意味していた。
彼らのうめき声は、
時間が経つにつれて弱まり、
やがて、静寂へと溶けていく。
その瞬間――
エウラは、いつも同じ感情を抱いた。
――いいなあ。
――死ぬことができて。
自分は、なぜ、
まだ生きているのだろう。
希望も、未来もない。
ただ、死体を分解するためだけに、生かされている。
死体を処理するたび、
彼女の胸には、
黒い泥のようなものが、少しずつ溜まっていった。
それは、
感情の欠片が腐ったものなのか。
怒りなのか。
嫉妬なのか。
絶望なのか。
自分でも、わからない。
ただ――
日に日に、それが濃く、
深く、
沈殿していくことだけは、はっきりと分かった。
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