――第2話 朝目覚めると――
昨日、エウラとの会話を終え、小屋へ戻ろうとしたところまでは覚えている。
だが、その途中で――どうやら力尽きたらしい。
足元の感覚が曖昧になり、
視界が、ゆっくりと暗転して、
そのまま意識を手放した。
――朝。
「……うーん……」
微かな息遣い。
そして、ぬくもり。
何かが、やけに近い。
違和感を覚え、重たい瞼をこじ開ける。
視界に入ったのは、天井。
昨日と同じ、
あの小屋の天井だ。
――だが。
「……?」
わき腹のあたりに、
確かな存在感がある。
そっと、視線を下へ落とす。
そこにいたのは、少女だった。
エウラ。
すやすやと寝息を立て、
無防備に、こちらへ身を寄せている。
銀色の髪が、悠斗の胸元に散らばり、
額が、呼吸に合わせて、かすかに上下していた。
「――っ!!」
心臓が、跳ね上がった。
思わず声を出しそうになり、慌てて自分の口を押さえる。
――まずい。
いや、いろいろと、まずい。
しかし、
すやすやと満足そうに眠るその顔を見てしまうと、
起こすのも忍びなくなる。
何より、悠斗自身が本調子じゃない。
身体は鉛のように重く、
指先ひとつ動かすのにも、気力がいる。
――落ち着こう。
仕方なく、そのまま状況を整理しようとする。
……のだが。
目の前の、美少女のせいで、
まったく集中できない。
悩んでいると、
エウラが、小さく身じろぎした。
「……ん……」
ぱちり、と。
蒼色の瞳が開く。
「おはよう、悠斗」
寝起きとは思えないほど、
はっきりとした声だった。
そして、次の瞬間――
彼女は、まるで親戚の子どもがふざけるみたいに、
遊ぶような仕草で、悠斗の上に乗ってきた。
「なっ……!?」
「美少女との同衾は、どうだったかしら?」
にやり、と。
エウラは、悪戯っぽく笑いながら、
ぐっと顔を近づけてくる。
「ど、どうって……!」
「どう?」
わざとらしく首を傾げる。
「やめてくれ……。
魔女と同衾だなんて、
不利な契約を押し付けられそうだ」
「もう!」
エウラは、ぷいっと顔を背けた。
「そんなこと、しないってば!」
ぷんぷん、
と擬音が聞こえてきそうな勢いで布団から抜け出し、
そのまま小屋の中を、気ままに歩き回り始める。
「悠斗。
おなか、すいてないかしら?」
唐突に振り返って、エウラは言った。
「え……まあ、正直言うと……」
「じゃあ、
ちょっと狩りに行ってくるね」
「……狩り?」
「そうよ」
一瞬、迷ってから、悠斗は口を開く。
「……僕も、行こうか?」
その言葉が出た瞬間、
エウラは、じっとこちらを見つめた。
「悠斗。
動けないでしょ?」
――図星だった。
「いいのいいの!
任せて!」
そして、にっこりと笑ってから、付け加える。
「でも――」
一拍。
「絶対に、ついてきたらだめだからね?」
意味深な言い方だった。
次の瞬間。
ばんっ!
返事を待つこともなく、
乱暴な音を立てて扉が開く。
冷たい空気が、一気に小屋の中へ流れ込んできた。
「……ったく。寒いんだよ……」
満足に動かない脚を引きずるようにして、
どうにか扉の前まで辿り着く。
エウラは、振り返ることもなく、
雪の降りしきる森の奥へと、一人で駆けていった。
薄いTシャツが風に揺れ、
裸足の足が、ためらいもなく白い雪を踏みしめていく。
その異様な背中を、
悠斗は、見えなくなるまで追い続けていた。
声をかけることもできず、
ただ、呆然と立ち尽くしたまま。
「……行っちゃったよ」
小さくつぶやいてみても、
返事をする者はいない。
さっきまで、すぐそこにあったはずの存在感が、
まるで嘘みたいに、この場から抜け落ちている。
残ったのは、
耳の奥で鈍く鳴り続ける静寂だけだった。
しばらくして、
ようやく呼吸の仕方を思い出したみたいに、
悠斗は、深く息を吐く。
「……はぁ」
身体を動かそうとしてみる。
まだ、本調子じゃない。
全身に鉛を詰め込まれたように重く、
少し屈伸しただけで、膝が笑った。
それでも――
倒れ込むほどではない。
無理をしなければ、
歩くくらいは、なんとかできそうだ。
(とりあえず、状況整理だな)
頭の中で、自分にそう言い聞かせる。
パニックになるのは簡単だ。
だが、それをやってもどうにもならない、
ということくらいは理解できる程度に、頭は回っていた。
まずは――スマホ。
ポケットを探る。
あった。
電源ボタンを押すと、
液晶が、じわりと光る。
バッテリー残量は、半分ほど。
……まだ、持つ。
画面上部のアンテナ表示には、
かろうじて一本、細い線が立っていた。
「おお……圏外じゃないんだ……」
思わず、ほっと息が漏れる。
だが、喜びは長く続かなかった。
地図アプリを開くと、
画面中央で、読み込み中のぐるぐるマークが回り続ける。
待っても、待っても――
地図は表示されない。
白い画面を見つめているうちに、
指先の感覚が、すうっと薄れていく。
「うーん……
行けそうなんだけど……行けないな」
電波があるのなら、
ここは少なくとも地球上で、
日本のキャリアの範囲内――その可能性が高い。
だが、電波状況が悪すぎるのか、
位置情報はうまく取得できない。
(たぶん、日本なんだろうけど)
苦笑いすら、浮かばなかった。
ため息を吐いて携帯をポケットに戻し、
ようやく、周囲の景色に目を向ける。
どこまでも続く、森。
葉を落とした木々の枝には、
雪がこびりつくように付着している。
空からは細かな雪が、ひっきりなしに降り続け、
世界全体を薄くぼかしているようだった。
足元の雪は、歩くたびに
ぎゅっ、ぎゅっと、
不安定な音を立てる。
そこに刻まれている足跡は、二種類しかない。
小屋から少し離れた場所まで続く、自分の足跡。
そして、小屋の入口から森の奥へと伸びる、
細く、軽やかな――エウラの足跡。
「……誰もいない」
改めて口にすると、
その事実が、急に重みを持って胸にのしかかってきた。
ここで、無闇に歩き回れば、
間違いなく迷う。
森は一見、どの方向も同じ景色に見える。
目印になりそうなものといえば、
雪に覆われた、奇妙な形の岩くらいだが、
雪の積もり方ひとつで、印象は簡単に変わってしまう。
そのうえ、この寒さ。
もし夜になり、
野宿する羽目になったら――
普通の人間なら、
一晩で命を落としても、おかしくはない。
自分の肩を抱き込むようにして、腕をさすったとき、
ふと、エウラの姿が頭に浮かんだ。
「あの子……あの格好で……」
さっきまで、目の前にいた少女。
真っ白な雪に負けないほど白い肌。
薄い布一枚をまとっただけの装い。
足元は、素足。
雪の冷たさなど、まるで意に介していないかのように、
彼女は平然と歩いていった。
思い返せば――
悠斗が目を覚ましたとき、
彼女は、外のハンモックで眠っていた。
雪が積もる中、
毛布もなしに、だ。
自分など、
外に出て数分で指先の感覚がなくなるというのに。
「……どういう理屈なんだ」
呟きながらも、
答えは、なんとなく分かっている。
理屈も、常識も――
あの少女には、あまり意味がない。
――リネア使い。
人の理解を超えた術理を行使する存在。
身体の構造から、
世界の見え方に至るまで、
自分たちとは根本的に違っていても、何ら不思議ではない。
そう理解した瞬間、
別の現実が、ぐっと目前に迫ってきた。
(ってことは、俺は……)
この小屋から、勝手に離れられない。
外を探索することもできない。
食料の確保も、すべて彼女任せ。
つまり――
自分の生殺与奪は、
ほとんどエウラの機嫌ひとつに委ねられている、ということだ。
「……機嫌、損ねられないな。これ」
冗談のつもりで呟いてみた。
だが、口から出た声は、想像以上に震えていた。
ごくり、と喉が鳴る。
エウラは、見た目こそ小柄で、
時折、子どもっぽい仕草も見せる。
だが――
彼女が持つ力は、都市ひとつを廃墟に変えかねないものだ。
資料が示していた被害状況。
久我家の内部資料に記されていた――
『2015年、ドイツ・レムシャイト全域で発生した意識不明事件』。
あれが、もしある日突然、
自分に向けられたとしたら。
想像しただけで、
胃の奥が、冷たく縮み上がる。
「……慎重に、接しなきゃな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いてから、
悠斗は小屋の中へ戻った。
扉を閉めると、
外の冷気は遮断され、
閉ざされた空間特有の、
わずかに湿った空気の匂いが、鼻をついた。




