――第1話 雪原の魔女――
目を開けると、見覚えのない天井があった。
むき出しの木材。
梁がそのまま露出した、古い山小屋のような造りだ。
塗装は薄く、年を経た木目の節がそのまま残っている。
天井板の隙間からは、外の冷えた空気が、かすかに入り込んでくる気配がした。
――どこだ、ここ。
そう思いながら、ゆっくりと視線を巡らせる。
家具はすべて木製で、
机も椅子も戸棚も、どれも古風だが丁寧に手入れされていた。
飾り気はない。
それでも、人の暮らしの温度だけが、確かに残っている。
部屋の中央には石造りの暖炉があり、
赤々とした炎が、静かに揺れていた。
薪がはぜる音が、張りつめた静寂をほんの少しだけ破る。
室内は暖かい。
それは単なる温度ではなく、
どこか――「守られている」と錯覚させるような、そんな暖かさだった。
――現代日本にしては、ずいぶん原始的だな。
そう思い、身体を起こそうとした瞬間。
「いっ……!」
全身に鈍い痛みが走り、思わず息を詰めた。
それは筋肉の奥から、骨の芯にまで染み込むような痛覚だった。
腕をわずかに動かすだけでも、体内のどこかが裂ける錯覚に襲われる。
背中の皮膚が乾いた布に擦れる、その感触だけで、冷や汗が噴き出す。
なにも、思い出せない。
俺は――何をしていたんだっけ。
――そういえば。
藍。
そして、結乃……!
ばっと体を起こそうとした瞬間、
走った苦痛に耐えきれず、思わず身をよじる。
「……っ、いてて……」
それでも、痛みより先に思考が逸った。
――それより、いったい。
あれから、どうなったんだ。
結乃と祈は、無事なんだろうか。
胸の奥が、ひくりと痛む。
――いや、それ以前に。
俺は……死んだんじゃないのか?
思考はそこから先へ進めず、
絡まった糸のように、同じ疑問の周りを、ただ行き来するばかりだった。
体をどうにか起こし、
周囲を見渡すと、外へ通じる扉があるのが目に入った。
――とりあえず、外に出てみよう。
この場所がどこなのか。
誰が、なぜ、俺をここへ運び込んだのか。
それを確かめなければならない。
そう判断し、ゆっくりと立ち上がる。
脚に体重を乗せる。
――立てる。
一歩。
二歩。
足取りはおぼつかないが、崩れ落ちるほどではない。
「……よし」
自分に言い聞かせるように呟き、木製の扉に手をかけた。
古い蝶番が、低く軋む。
扉を押し開けると――
森の中だった。
深い森のただ中に、
ぽつんと小屋が建っている。
その周囲一帯には、どこまでも雪が広がっていた。
白い世界。
静寂。
降り積もった雪がすべての音を吸い込み、
人の歩いた痕跡は、どこにも見当たらない。
その無音が、ここにいるのが自分ひとりだという事実を、いやでも際立たせる。
風は冷たい。
だが刺すような痛みはなく、どこか柔らかい冷気だった。
高くそびえる木々は、枝いっぱいに雪を抱え込み、
遠くには山の稜線が、ぼんやりと霞んで見える。
空は薄い灰色で、今は雪も止んでいるが――
いつ、再び降り出してもおかしくはなかった。
「……え?」
声が、思った以上に小さく響いた。
ここには、街の気配がない。
電線も、道路も、車の走行音も存在しない。
ただ、白い森だけが、どこまでも続いている。
「……どこだ、ここ……?」
戸惑いながら、改めて周囲を見渡す。
そのとき――ひとつだけ、明らかな異物が視界に入った。
ハンモック。
木々の間に吊るされたそれに、
ひとりの少女が横たわっていた。
雪の中だというのに、
まるで日向ぼっこでもしているかのように、
穏やかな寝息を立てている。
年の頃は、15歳ほどだろうか。
だが、年齢以上に、目を奪われる。
美しい――
そう形容するだけでは、どこか足りない。
銀色の髪。
雪よりも白い肌。
整いすぎた顔立ちは、
人間というより、
おとぎ話に登場する妖精を思わせた。
長い睫毛が影を落とし、
淡い頬が、
呼吸に合わせてわずかに上下する。
唇は、息をするたび、かすかに動いている。
その姿だけが、この白い森の中で、
異様なほど「絵」になっていた。
――だが。
ノースリーブの、ぶかぶかの白い半袖のTシャツ。
雑に投げ出された、素足。
雪原の只中だというのに、
まるで常夏の海辺でバカンスでも楽しんでいるかのような、
あまりにも場違いな格好だった。
―――――明らかに、普通じゃない。
目を覚ました瞬間、
下手をすれば、
腕を吹き飛ばされてもおかしくない。
そう判断した悠斗は、
反射的に身構え、
足音を殺すように、
慎重に近づいた。
雪を踏む音が、
やけに大きく響く。
心臓が、
喉の奥で強く打つ。
「も、もしもーし……」
声をかけた、その瞬間。
ぱちり、と。
大きな目が開いた。
蒼色。
深海のように深く、
宝石のように澄んだ瞳が、
まっすぐこちらを捉える。
――動けない。
その視線に射抜かれ、身体が硬直した。
敵意はない。
殺気もない。
それなのに、
逃げるという選択肢だけが、
きれいに消える。
捕食者に見つかった獲物のように、
理屈ではなく、
ただ本能が「固まれ」と命じていた。
数十秒――
あるいは、永遠にも思える沈黙。
耐えきれず、悠斗は、ゆっくりと口を開いた。
「……寒く、ないの?」
自分でも思う。
――そこじゃないだろ、と。
だが、ほかに言葉が浮かばなかった。
生きているのか。
敵か、味方か。
ここが、どこなのか。
そういう問いを、喉が拒否した。
くすくす。
少女は、楽しそうに笑った。
まるで、悠斗の緊張そのものが、可笑しくて仕方がないみたいに。
「寒くないわ。それより――」
少女は小さく首を傾げる。
「寝ていなくて、大丈夫?」
鈴が転がるような、澄んだ声だった。
無邪気に、続ける。
「あなた、死にかけだったのよ?」
一拍。
「胸。
ぽっかり、穴が開いていたわ」
とん、とん、と。
少女は自分の平たい胸を指でつつく。
「面白くって、観察してたの」
――――――
「……え?」
「あな……?」
反射的に、自分の胸元へ視線を落とす。
そこには――穴はない。
心臓は、確かに鼓動している。
雪の冷たさも感じる。
感覚は、どこまでも普通だった。
だが、少女の言葉は冗談には聞こえない。
それどころか、
まるで疑う余地のない事実を述べているだけの口調だった。
「じゃあ……なんで、僕は生きてるんだ?」
問いは、かすれていた。
「知らないわ」
少女は、あっさりと言い切る。
「誰にやられたかは知らないけど、
とても綺麗に空いてたわ。
あまりにも綺麗だから、何度も手を入れちゃったの」
くすくす。
冗談めかした、可愛らしい笑い声。
それとは裏腹に、背筋が凍りつく。
想像してしまう。
血。
痛み。
断面。
空気に触れる、臓器。
吐き気が、喉元まで込み上げた。
「……でも」
悠斗は、息を整えながら言う。
「助けて…くれたんだよね…?
……ありがとう…ございます」
礼を言うのも、どこかおかしい。
それでも――
少なくとも、悠斗は生きている。
「何もしてないわ」
少女は、軽く肩をすくめた。
「運んできて、観察してただけ。
死ぬなら、それでもいいと思ってたもの」
あまりにも率直で、
逆に笑ってしまいそうになる。
「……正直すぎるね」
悠斗は、苦笑しながら続けた。
「それでも、感謝はしてるよ」
そう言って、周囲の雪原を見回す。
「こんな場所に放り出されたら、
普通は凍え死んでしまう」
「しょうがないわね。
じゃあ、受け取ってあげる」
少女は、えへん、とでも言いそうな勢いで胸を張った。
その仕草は、どこまでも子どもっぽい。
それなのに――
なぜか、芯の通った落ち着きも感じさせる。
無邪気さと確かさが同居した、
妙にちぐはぐな存在だった。
「君の名前は?」
そう問いかけると、
少女は一瞬の迷いもなく答えた。
「エウラよ。
家名は、ないわ」
「……エウラ?」
その名を口の中で反芻した瞬間、
脳裏で、何かが弾けた。
知識として詰め込んだはずの情報が、
封を切られたように、
一斉に形を持って浮かび上がる。
エウラ。
日のリネア使い。
日の――魔女。
リネア使いの中でも、別格。
被害の規模は常に災害級。
資料で。
報告書で。
何度も、何度も目にした名前。
世界に7人しか存在しない、
規格外の力を持つリネア使い
その中で、「最古の魔女」―――。
息が、止まりかけた。
――目の前にいるのは、
雪の中で無防備に眠っていた、ひとりの少女だ。
それなのに。
その存在だけが、
周囲の景色すら、書き換えてしまう。
「……君が、日のリネア使い……」
悠斗は、喉を鳴らす。
「エウラ……なのか?」
声が、わずかに震えたのを、
悠斗自身も自覚していた。
「そうよ」
即答だった。
否定も、誤魔化しもない。
まるで、その問いが投げかけられることを、
最初から知っていたかのように。
口調は、驚くほど軽い。
けれど、その瞬間――
空気が、一段冷えた。
森の静寂が、さらに深く沈み込む。
雪の白さが、やけに目に痛い。
エウラの表情が、ほんの一瞬だけ曇った。
「……そうか。
君が“日”……。
いくつもの町を壊滅させた魔女だと、資料にはあった」
背中に、じっとりと汗が滲む。
それでも悠斗は、
できるだけ平静を装って言葉を続けた。
声が震えないよう、
言い回しの一つひとつに、
神経を張り詰めさせる。
相手は、世界に7人しかいないリネア使い。
その一角だ。
どんな地雷が、どこに埋まっているか分からない。
「そうよ。それで?」
エウラは、まるで天気の話でもされたかのように、
軽く笑って答えた。
罪悪感も……ない。
ただ事実を確認するだけの口調だった。
「君がリネア使いなら、
聞きたいことも、頼んでみたいことも、いくつもある。
けど……君は、答えてくれたりする…かな?」
探るように言う。
この少女の気分ひとつで、
命が簡単に消える世界だ。
問いを投げること自体が、賭けだった。
「いいわよ?」
返事は、即座だった。
「私、おしゃべりが大好きなの。
頼られるのも、大好き!」
そこで、言葉を切り。
エウラは、少し首を傾ける。
無邪気とも、残酷とも取れる笑みを浮かべて、続けた。
「それに――
あなたが、いつまで私のそばにいて、
生きていられるかも分からないし」
口調は、どこまでも淡々としている。
それなのに、言葉の重さだけが、場に沈んだ。
悠斗の背筋を、
冷たいものが、ゆっくりと這い上がっていく。
「そうかい……」
悠斗は、苦笑しながら、
冗談めかして続けた。
「じゃあ…いきなり拷問を始めたりは、しないよね?」
軽口のつもりだった。
だが内心では、藍の顔が脳裏をよぎっていた。
リネア使いに対する、消えないトラウマ。
痛みを伴って学ばされた、確かな教訓だ。
「しないわよー」
エウラは、両手を大きく振る。
「そんなことしても、つまんないもの。
私は、楽しいことが好きなの」
くるりと身体を揺らし、雪景色を見渡す。
「人の苦痛の声を聞くのは、好きじゃないわ。
おいしい食べ物の話。
きれいな景色のおはなし。
それから――冒険のお話」
最後に、楽しげに微笑んで言った。
「そういうのを、しましょう?」
蒼色の瞳が、きらきらと輝いている。
子どものように純粋で――だからこそ、底知れない。
「……じゃあさ」
悠斗は、少しだけ間を置いた。
こんなことを頼んでもいいのか。
迷いが胸をよぎる。
それでも、意を決して口を開いた。
「僕が、藍を倒したいって言ったら……
協力してくれる?」
正直、期待はしていなかった。
断られて当然。
下手をすれば、怒りを買う可能性だってある。
「いいわよ」
即答だった。
「……え?」
思わず、素で聞き返してしまう。
あまりにも、あっさりしすぎている。
「でも」
エウラは、続けた。
「私には、そんな力はないわ」
「え……?」
「藍って“月”でしょう?
私じゃ、絶対にあの男には勝てない」
それは、当たり前の事実を述べるような声音だった。
「で、でも……君は――」
悠斗は慌てて、資料の記憶を掘り起こす。
「TIMMAの資料だと、
“火”のヴォルクハルトですら、倒せなかったって……」
「そうね」
エウラは、静かにうなずく。
「彼じゃ、私を殺せないわ」
その言葉は、淡々としているのに、重かった。
「というか、世界中の誰にも、私は殺せない。
でもね――」
視線を落とし、続ける。
「私は、リネア使いの誰も、殺せないの」
俯いた横顔は、どこか寂しげだった。
リネア使いの強さの基準など、悠斗には分からない。
だが、当事者がこう言うなら――
それは、紛れもない真実なのだろう。
藍を倒すための、直接的な力。
それを、エウラに期待することはできない。
だが――
「……じゃあ」
悠斗は、真っすぐに彼女を見据えた。
「できるだけ、藍のことや、
他のリネア使いの情報を教えてくれないか?」
「いやよ」
エウラは、ぷいっと顔を背けた。
「え、!?
さっきは、協力してくれるって……」
「だって」
エウラは、再びこちらを向く。
その視線は、冗談めいたものではなかった。
「私、あなたのこと――
全然、知らないもの」
一瞬、言葉に詰まる。
「協力するとは言ったわ。
でも、教えてほしいことがあるなら……
私も、あなたのことを知りたいの」
「ぼ、僕のこと……?」
悠斗は、思わず言葉を失う。
「でも、君に教えられるようなことなんて……」
「エウラよ」
不意に、そう言われた。
「え?」
「私の名前は、エウラ」
少しだけ、強調するように繰り返す。
「あなたは、私の名前を知っていたみたいだけど……
私は、あなたの名前を知らないわ」
ハンモックに腰掛け、
足をぶらぶらと揺らしながら、彼女は言う。
悠斗は、はっと息を呑んだ。
――確かに、そうだ。
恐怖と焦りに追われ、
名乗るという、ごく当たり前のことを失念していた。
「あ……ああ、そうだね」
慌てて、頭を下げる。
「僕は、真神悠斗だ。
遅れて、ごめん」
「いいわ」
エウラは、くすくすと笑った。
「まだまだ、
たっぷり時間はあるもの」
そう言ってから、ふと空を見上げる。
「悠斗。
お話は、今日はここまでにしましょう?」
「え?」
「あなた、まだ体は自由に動かないでしょう?
体力も、戻ってないみたいだし」
そう言われた瞬間、
身体が思い出したように、どっと疲労を訴えてきた。
張り詰めていた気が、一気に緩む。
脚が重い。
視界が、わずかに揺れる。
「あ、ああ……そう、みたいだ」
苦笑しながら、息を整える。
「いろいろあって、疲れてる」
「でしょう?」
エウラは、満足そうにうなずいた。
「私の家に、しばらく泊まっていいわ」
ぱっと両手を合わせる。
「客人なんて、初めてだもの!」
無邪気で、可愛らしい仕草。
だが、その微笑みには――
どこか妖艶で、不気味な色も混じっている。
ミステリアスな雰囲気。
ああ、きっとこの子は「魔女」なんだ。
そう確信してしまう。
「……気づいたら、
鍋の材料になってないか心配だよ」
悠斗は、冗談めかして言った。
くすくす。
エウラは、楽しそうに笑う。
「面白いことを言うお兄さんね」
そして、にっこりと微笑んで、付け加えた。
「今日は――
一緒のお布団で寝ましょうね♪」
どこまでが本気で、
どこからが冗談なのか、分からない。
「……」
可愛らしい。
だが、やっぱり――怖い。
悠斗は、心の底から、そう思った。




