――第20話 雷鳴とともに――
※※※
「もう、やめにしないか。祈ちゃん」
そう、ひどく気楽な声で言ったのは、
赤茶色のロングヘアを冬の風になびかせる女だった。
水野洋子。
この置換術理を展開している犯人と思われる女。
「……何を言っているんです」
祈は一歩前に出る。
「この置換術理は、あなたのものでしょう。
時間がない。――今すぐ、決めます」
そう言って、
祈は漆黒のスティレットを構えた。
「まあまあまあ」
水野は両手を軽く振り、まるで冗談を宥めるように言う。
「アナライズ術理、使ってみなよ。
こんな広範囲に置換術理を張れるほどのエネルギー、
私にあると思う?」
――アナライズ術理。
相手のエネルギー残量や術理状態を確認する術だ。
だが簡単にレジストされるため、
術理士同士の戦闘で使われることはほとんどない。
しかし――念のため。
祈は術を起動した。
(……?)
弾かれない。
レジストされない。
しかし、表示された数値は、
この置換術理を維持できる水準から、明らかにかけ離れていた。
「ほらねー」
水野は、どこか得意げに笑う。
「私に、こんな馬鹿げた置換術理、できないでしょ」
祈は、警戒を緩めない。
「……置換術理は、
術者がこの空間に存在している必要があります」
冷静に、事実を積み重ねる。
「この空間は、先ほど全域をスキャンしました。
現在存在しているのは――
結乃様、真神様、私、藍、
そして……あなたです」
「へえ」
水野は、面白そうに相槌を打つ。
祈は続ける。
「あなたが無関係だと言われても、
信じろというほうが無理な話です」
水野は、手のひらを向けて軽く制した。
「まあ、そうなんだけどさ」
その声色は変わらない。
だが、言葉の奥に、妙な重さが混じる。
「……これは、ちょっと大事なことなんだよねー」
祈の表情が、険しくなる。
「……殺します」
感情を削ぎ落とした、
はっきりとした宣告。
「殺せないよ」
水野は即答した。
「祈ちゃんじゃ、私を殺せない。
――それ、祈ちゃんももう分かったんじゃない?」
その言葉に、祈の脳裏に先ほどの光景がよぎる。
祈は、
最高のタイミングで奇襲をかけた。
隙だらけで、のんきに歩いていた水野。
確実に仕留められるはずだった。
――にもかかわらず。
水野は、避けた。
自然に。
反射のように。
そして次の瞬間には、
「あ、祈ちゃんじゃーん」
などと、
まるで散歩中に知り合いに会ったかのように声をかけてきたのだ。
(……何だ、この女は)
理屈では説明できない。
術理でも、技量でも、経験でもない。
正体の分からない不気味さが、
水野洋子という存在から、確かに滲み出ていた。
「お、祈ちゃん。始まったようだよ?」
「え?」
そう言った、その直後だった。
――背後で、
ガァァァン!!
雷鳴にも似た、しかし雷とは決定的に違う音が炸裂した。
空気そのものが殴りつけられたかのような衝撃。
鼓膜が軋み、肺の奥まで震える。
次の瞬間、
床に走った青白い光が、空間を引き裂く。
ばちり、ばちりと稲妻が絡み合い、
重たい電撃が渦を巻くように集束していく。
風が巻き起こり、
祈の髪と外套が激しく煽られた。
視界の奥で、
“それ”は、ゆっくりと輪郭を持ち始める。
――巨大な影。
人の形を模してはいるが、
その大きさは常軌を逸していた。
雷光を纏った筋骨隆々の身体。
幾重にも走る稲妻が、血管のように脈打ち、
一歩動くたびに、ばり……ばり……と空気が焼ける音を立てる。
頭上には、怒りを具現化したかのような雷雲。
手には、雷そのものを凝縮した巨大な武器を携えていた。
――雷神。
それは“召喚”という言葉では生ぬるい。
現象が、そこに立っている。
水野は振り返り、
その光景を見て、ふっと息を吐いた。
「あれは……セクステットだね」
水野が、まるで感心したように呟いた。
「6重奏とは……すごいよね。
あれが、久我家の秘術かな?」
その言葉が、祈の思考に突き刺さる。
――セクステット。
6重奏。
(まさか……)
喉が、ひくりと鳴った。
魂の連携を……?
(結乃様…まさか、真神様を……?)
結乃の性格からして悠斗と
魂の連携をするのはありえない。
理解が追いつかない。
状況が、あまりにも異常すぎる。
一体、何が起きている。
背後で、雷神の放つ電光が空間を裂く。
ばちり、と空気が焼ける音がして、
祈の肌を静電気が這い上がった。
そのとき。
「……早く行ったほうがいい」
水野の声が、急に真剣なものに変わる。
軽さが消え、
冗談めいた響きが、影も形もなくなる。
「君が行かないと、
悠斗くんは――死んじゃうよ」
祈の心臓が、強く脈打った。
「……」
言葉が、出ない。
「それはさ」
水野は、少しだけ首を傾げて、
そして――
「結乃ちゃんが、悲しむだろ?」
そう言って、
いたずらをする子どものように、笑った。
「……っ」
祈は、奥歯を噛みしめた。
迷っている時間はない。
疑っている余裕もない。
真実がどうであれ、
確かめなければならない。
祈は、踵を返す。
外套が翻り、
床を蹴る音が乾いた。
全身の感覚を研ぎ澄まし、
走る。
息が、白く弾ける。
心拍が、耳の奥で鳴り響く。
(結乃様……)
祈は、全速力で、その場を後にした。
――背後で、水野はその背中を見送りながら、
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「……始まったねえ」
風に紛れて、
その言葉は、すぐに消えた。




