――第17話 出会い――
結乃は苦悶の表情を浮かべていた。
藍の脅威は、リネアに由来するものだけだと――
どこかで、そう高を括っていたのかもしれない。
速い。
思考加速を施している自分に、
思考加速なしで追いついてくる。
そして、あの8つの術式陣。
――多すぎる。
自慢ではないが、術式陣を6つ同時に展開できるだけで、
TIMMAでは天才扱いされる。
それを、藍は易々と――まるで呼吸をするかのように展開し、
なお余裕すら残している。
TIMMAに叛逆した天才。
拿捕され、処刑され、
それでもなお――反魂の術によって甦った怨念の塊。
人間だった頃の面影は、もはやない。
だが、その身に宿す経験と知識だけは、
いまなお一切、色褪せていない。
たかだか17年しか生きていない自分とは、
積み重ねてきた時間も、
背負ってきた死も、
そもそも“自力”の次元が違いすぎる。
結乃はTIMMAにおいて研究所に所属している。
だが、その一方で――
執行官への推薦を受けたことがある人間でもあった。
執行官。
術理を用い、社会における殺人、金融秩序の破壊、国家転覆といった重大犯罪を引き起こす者たちを、
鎮圧し、弾圧し、必要とあらば排除するための部門。
当然ながら、それに見合う実力がなければ、
声がかかることすらない。
結乃の両親には、執行官としての才能はなかった。
だからこそ研究所に所属していた。
だが――結乃だけは違った。
幼い頃から、その才能は異質だった。
生まれながらに術理核を有し、
10歳の時点で、すでに並の成人術理士を凌ぐ術式を操り、
そのエネルギー量は比較対象を失うほどだった。
誰もが口にした。
――この子は、執行官になるべき人間だ、と。
しかし、結乃は執行官になることを拒んだ。
争うことを好まない性格だった。
そして何より――
父と母と共に研究する時間が、心から楽しかったからだ。
ひとつ術理を扱えるようになるたび、
両親は、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「さすが、私たちの子だ」
その言葉を聞くたび、胸が温かくなった。
結乃にとって、この両親の子であることこそが、何よりの誇りだった。
――その誇りが、今。
藍によって、踏みにじられようとしている。
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
痛みが走るほど強く、歯を踏ん張りながら、
結乃はひとつの顔を思い浮かべた。
先生。
(……私の誇りなんて、今はどうでもいい)
胸の奥で、何かが切り替わる音がした。
(でも――先生だけは)
(先生だけは、助けるんだ)
ただひとりの人間を守るための、
純粋で、逃げ道のない決意だった。
※※※
2023年10月28日
結乃は15になった誕生日に、
両親から久我家の術理核を受け継いだ。
そのとき初めて、
久我家の過去と、
そして――藍という存在について知らされた。
両親は言った。
自分たちは、いずれ藍に殺される、と。
「私たちが殺されたあと、結乃は一人になる。
だから――強く生きなさい」
そんな言葉、受け入れられるはずがなかった。
いやだ。
いやだ。
声が枯れるまで泣き叫び、
結乃は必死に首を振った。
両親との別れに、どうしても決別できなかった。
だが、両親は分かっていた。
時間が、もう残されていないことを。
――猶予はない。
その言葉だけが、重く胸に残った。
それからの日々は、ただ泣くことしかできなかった。
夜は眠れず、
枕は毎晩、涙で濡れた。
※※※
2024年4月7日
失意に暮れたまま、
結乃は聖嶺高校の入学式を迎えた。
同級生と話す気力など、どこにもなかった。
両親が死んだあと、
自分もきっと殺されるのだろう。
――いや。
1人で殺されるくらいなら、
両親と一緒に殺されてしまおう。
そんな思いが、心の底に根を張っていた。
生きる意味を探すことも、
未来を思い描くこともやめて、
結乃は静かに、人生を諦めていた。
※※※
2024年5月14日
聖嶺高校では、授業の一環として、
士業の人間を招き、それぞれがどんな仕事をしているのかを、紹介してもらう講義があった。
――どうでもいい。
私には将来なんてない。
結乃は、そう思っていた。
その日の講師は、弁護士だった。
弁護士にしては若く、
背広は隙のないほどきちんと着こなされ、
背筋は真っ直ぐに伸びている。
教室のあちこちで、女子生徒たちがひそひそと声を潜め、
憧れの視線をその男性へと向けていた。
けれど――
結乃の目に映る彼は、まったく違っていた。
正気が、感じられない。
虚ろで、
底の見えない闇を抱えている。
話し方は明瞭で、
言葉も分かりやすく、
質疑応答では柔らかな笑顔さえ見せている。
それなのに。
結乃には、はっきりと分かった。
――この人は、生きる気がない。
むしろ、
罰を欲している。
生き延びることではなく、
裁かれることを望んでいる。
そんな人間の目を、
結乃は、今日まで何度も見てきた。
まるで鏡をみている自分の目だった。
※
講義の内容は、未成年後見についてだった。
親を亡くした子どもに、
職業後見人という“プロ”がつき、
財産の管理や身上監理を、亡き親に代わって行う――
そういう制度の話だった。
けれど、結乃はふと疑問に思う。
――それは、弁護士を呼んでやることなのだろうか。
弁護士といえば、
「異議あり!」と声を張り上げ、
法廷で争い、
相手を論破する職業ではないのか。
その違和感は、どうやら結乃だけのものではなかったらしい。
周囲の生徒たちも、同じような顔をしている。
隣の女子は、
一時間続く“地味な話”に睡魔が勝てなかったのか、
舟をこぎ始めていた。
――それでも。
結乃は、
その話を一言一句、逃すまいと耳に入れていた。
言葉が、胸の奥に染み込んでくる。
何に惹かれているのか。
なぜ、こんなにも聞き逃せないのか。
結乃自身にも、分からなかった。
分からないから、見る。
分からないから、聞く。
それでも、分からない。
ただ、いつまでも目は離せなかった。
やがて、一時間の講義が終わる。
プロジェクターを使い、
パワーポイントで説明していたため、
講義室の中は終始、薄暗いままだった。
その薄闇の中で、
結乃はまだ、あの弁護士から目を逸らせずにいた。
恥ずかしさをごまかすように、
結乃はマスクをつけたまま、その弁護士のもとへ向かった。
――すでに、先客がいた。
女子生徒が何人か取り囲み、
「彼女はいるんですか?」
「どうやって弁護士になったんですか?」
そんな、どうでもいい質問を次々と投げかけている。
今の結乃には、そんな話は一切、意味を持たなかった。
――早く、どけ。
胸の奥で、
思わずそう呟いていた。
好意でも、憧れでもない。
知りたいのは、そんなことじゃない。
ようやく、
弁護士は女生徒たちから解放された。
人の輪がほどけ、
視線の通り道が開く。
結乃は、無意識のうちに一歩、踏み出していた。
その弁護士に、聞きたいことは一つだけだった。
「先生」
声をかけると、
彼は「ん?」と小さく声を上げ、
穏やかな笑顔のまま、こちらを見た。
その目を、結乃はまっすぐに見据える。
「あなたは今、幸せですか?」
ただ、それだけの問いだった。
普通なら、
『どうしてそんなことを?』
あるいは、
『急にどうしたの?』
そんなふうに笑って返されて終わるはずだ。
けれど――
その弁護士は、
目を見開いた。
驚愕と、
そして――はっきりとした恐怖の色。
口元が、かたかたと震えている。
まるで、
”自分を殺しに来た相手”を前にしているかのように。
沈黙が落ちる。
薄暗い講義室の中で、
空気だけが、重く張り詰める。
やがて彼は、
壊れ物に触れるような仕草で、
恐る恐る口を開いた。
「僕は……大勢の人を不幸にしたんだ」
それは、
説明でも弁明でもなく、
ただの――罪の告白だった。
彼は、
まるで懺悔室で司祭を前にした罪人のように、
結乃を見つめている。
「大勢の人を不幸にして、不幸にして……
償いきれないことをしてしまった。
本当は、罰が与えられるはずだった。
――与えられるべきだったんだ」
声は震え、
今にも泣き出しそうだった。
「でも……そんな僕でも、
見捨てずに手を差し伸べてくれる人がいる」
一瞬、
彼の視線が遠くを見た。
「だから、決めたんだ。
自分の幸せは、捨てるって」
その言葉は、決意というより、
自らに課した刑罰のように響いた。
「自分の幸せを捨て、人に幸せを捧げる。
僕は人を幸せにすることはできない。
僕は、人を幸せにするんじゃなくて、
僕の幸せを捧げ、他の人の不幸を和らげる。
それが今、僕の生きる意味だ」
――それで、自分が救われなくてもいい。
そう言外に告げているようだった。
「じゃあ――」
結乃は、言った。
「今、目の前に女の子がいます。
その子の両親は、もうすぐ死んでしまいそうです。
取り残されるその女の子を……
先生なら、どうやって幸せにしますか?」
一瞬の、間もなかった。
「僕の命を、あげるよ」
男は即答した。
「……え?」
思わず、結乃の口から声が漏れる。
「僕のすべてを捧げて、その子の不幸を和らげる」
淡々と、まるで当然のことのように続ける。
「知識も、経験も、財産も……
それから、愛情も」
そこで、男は少しだけ言葉を切り、
自嘲するように、視線を伏せた。
「僕程度の器に入ってるものだから、
大したものじゃないんだけどね」
「……幸せには、できないかもしれない」
そう言って、
彼は悲しそうに笑った。
何の根拠もない。
ただの虚勢だ。
――そう、切り捨てることはできた。
それなのに。
なのに、
その言葉は、今の結乃の心に、
深く、あまりにも深く突き刺さった。
結乃は、未来などないと告げられた。
幸せにはなれないのだと。
久我家の宿命から、逃れることはできないのだと。
両親から、そう言われた。
それなのに――
目の前のこの男は、
何の根拠もなく「すべてを捧げる」と言った。
ただの口先だけの男だと、
そう断じることもできたはずだ。
にもかかわらず、
この男の言葉には、確かな重みがあった。
なぜだろう、と考えたとき、
結乃ははっきりと気づいた。
――目だ。
この男の目。
笑っているのに、
決して笑っていないその目。
逃げ場を失い、
それでもなお、前を向こうとする、
罰を引き受ける覚悟だけが宿った目。
その目が――
この男の言葉は嘘ではないと、
そう告げているように、結乃には感じられた。
「……そうですか」
結乃は、ふっと笑った。
久しぶりに、
本当に久しぶりに。
笑うことができた。
理由は分からない。
救われたとも、希望を持てたとも言えない。
それでも。
――確かに、その瞬間、
結乃は生きていた。
※
その日、家に帰ってから、
結乃は両親に、学校であった出来事を話した。
その弁護士のこと。
講義の内容。
交わした言葉。
話し終えると、
父と母は顔を見合わせ、
何かを思案するように、しばらく黙り込んだ。
それからだった。
その弁護士のことを、
やけに詳しく、しつこいほどに聞いてきたのは。
名刺から弁護士を特定し、
弁護士会に問い合わせ、
セミナーや相談会、
その弁護士が参加するイベントがあるかどうかを調べ上げた。
そして――
実際に、足を運び始めた。
1回目は、両親だけで行ったらしい。
2回目からは、結乃も連れて行かれるようになった。
恥ずかしかったので、
結乃はマスクをつけた。
あのとき講義室で質問した生徒だと、
分からないようにするためだった。
先生の話を聞いた。
両親が参加できない日には、
ひとりで足を運ぶこともあった。
先生の声が、好きだった。
あの目が、好きだった。
理由は分からない。
ただ、聞いていると落ち着いた。
気がつけば、
イベントに参加すること自体が、楽しくなっていた。
先生に会える。
――先生に、会いたい。
その思いは、
いつのまにか、結乃が生きるための目的になっていた。
別に、先生と会話ができなくてもいい。
こちらを認識してもらえなくても、かまわない。
遠くから眺めて、
声を聞いて、
ふいに目が合って――
その瞬間、胸の奥がどくんと鳴る。
不快な感覚は、まったくなかった。
むしろ、それは心地よかった。
生きている、と
ただ、それだけを確かめられる感覚。
結乃は、
そんな日々を過ごしていったーーーー




