――第16話 術理士の攻防――
――結乃。
―――――――結乃!
名前を呼ばれ、結乃ははっと我に返った。
「……先生?」
悠斗は、藍から視線を外さないまま、
じりじりと距離を詰めてくる。
そして、ほとんど息だけの声で囁いた。
(転移術を発動させる。いいね?)
そう言いながら、
以前、結乃が悠斗に持たせた宝石を、
強く握りしめる。
結乃は、先生の目を見る。
赤い目。
藍に痛めつけられたことによる後遺症。
恐怖と、術理によって歪められてしまった――
先生の目。
どれほどの苦痛だったのだろう。
どれほどの恐怖だったのだろう。
――想像するだけで、胸の奥が軋む。
それを、与えたこの男には、
先生が味わった以上の苦痛を与えてやりたい。
同じだけでは、足りない。
恐怖も、絶望も――
すべて、上書きしてやりたい。
しかし――逃げる。
そう、それが今の状況における、最善の選択だ。
別の空間に隔離され、
藍と一対一で向かい合っているこの状況は、明らかに分が悪い。
背後では、川がきらきらと光り、
その向こうには、生活の明かりが見えている。
だが――
見えているだけだ。
世界は、もうつながっていない。
先生に持たせた転移術は、
一度発動すれば、しばらく再使用できない。
そして、私が転移術を発動させるには、
時間も、エネルギーも要する。
それに、藍からだけなら、転移術で逃げられるが、
この術を展開した人間から逃げられる保証がない。
ならば。
確実に、ここから先生を逃がすためには――
水野を殺してからだ。
この空間の術者。
置換術理の核。
だが、その水野が――
どこにいるのか、分からない。
「祈」
唐突に、結乃が祈を呼ぶ。
「はい」
即答だった。
「水野を探して。
――殺害を許可するわ」
「はい」
一切の迷いもなく、祈は答えた。
そのやり取りを、悠斗が聞き逃すはずもない。
「ちょっと待て……洋子先生を?
どういうことだ、結乃」
結乃は視線を藍から外さず、言い切る。
「先生。今は緊急事態です。
説明は、あとで必ずします」
「これ以上は、
藍に隙を与えるだけです。
私の指示に、従ってください」
そう言い捨てるように告げ、
結乃は、静かに――戦闘態勢へ移行した。
その背後で、
祈が、音もなく後退する。
すっ、と。
影に溶けるような動きだった。
(戦闘が開始されたら、私は動きます。
タイミングは、結乃様にお任せします)
「……うっ……」
言葉にならない声が、喉から漏れた。
分かっている。
この状況で、経験があるのは結乃たちだ。
結乃の判断が、きっと正しい。
――正しい、はずだ。
それでも、思考が止まらない。
考えろ。
なぜ、結乃は洋子先生を殺そうとする?
この置換術理は、
本当に、洋子先生のものなのか?
悠斗の思考は、確かに加速している。
だが、加速すればするほど、
断片だけが増えていき、
結論には辿り着けない。
そんな悠斗を横目に、結乃は意識を切り替えた。
一切の迷いを切り捨て、ただ――集中する。
術理核へ。
意識を、深く、鋭く沈めていく。
鎖骨と鎖骨の間、その少し下。
そこに埋め込まれた術理核が、淡く光を放ち始めた。
光は脈打つように広がり、
まるで血管に沿うかのように、
結乃の全身へと術理の刻印を走らせていく。
皮膚の下を、線が描かれる。
一瞬ごとに、身体が“別のもの”へと書き換えられていく感覚。
――ヴゥゥゥン……
低く、鈍い。
生体とは明らかに異なる、
モーターのような起動音。
「起動……セット……!
発動――
思考加速、
並列思考!
展開ッ!!」
その詠唱と同時に、
結乃の周囲の空中に、半径50センチほどの術式陣が浮かび上がる。
ひとつ、またひとつ。
正確な間隔を保ったまま、6つ。
――次の瞬間。
答えるかのように、
藍の周囲にも術式陣が展開された。
数は、8つ。
結乃よりも多く、
より深く、空間に沈み込むような配置。
互いの術式陣が、
見えない線で結ばれたかのように、
空間が、きり、と張り詰める。
――っつ。
結乃は、加速した思考の中で判断を下す。
2つの術式陣を消去。
即座に、別の術式陣を2つ生成。
それに応じるように、
藍も術式陣を、1つ消し、別の術式陣を発生させる。
それを、何度も。
何度も。
繰り返す。
生成と消去。
配置と再構成。
最適解を押し付け合うための演算。
はたから見れば、
二人は、ただ向かい合って立っているだけだ。
動きはない。
音もない。
だが、その静止した光景の内側では、
すでに数十もの攻防が、
加速している思考のもとで交わされていた。
「ゆ――」
悠斗が結乃の名を呼ぼうとした、その瞬間。
ばっと、
祈の手が口元を塞いだ。
「――ダメです。真神様」
(祈……?)
低く、しかし迷いのない声だった。
「術理士同士の戦いは、
真剣での立ち合いに、似ています」
祈は、結乃から視線を離さずに続ける。
「術には相性があります。
相手が展開した術に対し、
より有利な術で対抗する」
「だから今、結乃様は――
藍の術式陣を一瞬で解析し、
その術に有利な術を展開して牽制している」
「それに呼応して、
藍もまた対抗の術を重ねているのです」
淡々とした説明の裏で、
祈の声音は、わずかに張り詰めていた。
「高度な駆け引きが、
今この瞬間も続いています」
「結乃様は、
思考を加速させ、
並列で判断を重ねながら、
必死に食らいついている」
一瞬、言葉を切る。
「結乃様でも、
術式陣は6つが限界です」
「ですが、藍は8つ展開している」
祈の視線が、
わずかに厳しくなる。
「正直……底が知れません」
「だから今は、
結乃様の邪魔をしてはいけないのです」
その言葉に、
悠斗は、口を閉ざした。
ただ、
結乃と藍のやり取りを、
息を殺して見つめることしかできなかった。
動きのない二人。
だが、その間で交錯しているものの重さを、
悠斗は、ようやく理解し始めていた。
※※※
――――屋敷での、ある日。――――
悠斗は、術理について勉強していた。
自分の術理は「強化」だと、結乃は言っていた。
だから、使ってみようと思った――のだが。
これが、驚くほど難しい。
まず、
術理核がどこにあるのか分からない。
どうやって発動させるのかも、さっぱりだ。
書籍を読み、考え込み、腕を組んで悩んでいると――
「先生の術理核は、ここですよ」
そう言って、
結乃がトン、と人差し指で悠斗の右肩を指した。
そして、続けて。
「起動……セット……
発動――
目覚めなさい
内なる力
展開」
静かに。
まるで問いかけるように、優しく唱える。
――ブゥゥーン。
答えるように、
淡い光が、悠斗の右肩から滲み出した。
「おお……」
思わず、声が漏れる。
胸の奥が、少しだけ高鳴った。
「この術理核に、念じるように力を流すんです」
結乃は、当たり前のことのように言う。
「コツはいりますけど、
術理核さえあれば、起動自体はそんなに難しくありませんよ」
そう言って、
ひらひらと手を振りながら、
結乃は書斎を後にした。
そこから数時間。
試行錯誤を重ね、
なんとか、術を起動させることに成功した。
手にしていたシャープペンシルの芯が、
淡く光を帯びる。
試しに、それを外から拾ってきた石へ突き刺してみる。
――サクッ。
芯は、抵抗もなく石に突き刺さった。
「……」
直後、どっと疲労が押し寄せる。
「うーん、疲れた……」
悠斗はその場に腰を下ろし、独り言のように呟いた。
「術理核を起動させて、
術式陣を固定して、
それから発動……」
「発動後のエネルギー消費も、かなり大きいな」
今の自分にできることといえば、
せいぜいシャープペンシルの芯を“凶器”に変える程度だ。
正直なところ、
費やした時間と労力に、まったく見合っていない。
ナイフを一本買ってきたほうが、
はるかに速く、確実だろう。
――術理は、万能だと思っていた。
だが実際には、
発動条件は厄介で、
消費エネルギーも激しい。
悠斗は、術理という力の重さに、
思わず舌を巻いた。
※※※
――――その経験があるからこそ、
今、結乃と藍の間で行われているやり取りが、
明らかに異常だと分かる。――――
ひとつの術式陣ですら、
空中に展開し続けるだけで相当な負荷がかかる。
それを――
同時に6つ。
自分がやったら、脳の回路が焼き切れそうだ。
おそらく、
一つは思考加速。
もう一つが並列思考。
残る4つが、攻防に用いられている術式陣。
考えるだけで、
頭が痛くなる。
「真神様」
祈が、静かに悠斗へ声をかけた。
「私は、これより別行動に移ります。
結乃様のもとを、決して離れないでください」
「い、祈――」
呼び止めようとした。
だが、その声が届く前に、
祈は、
まるで最初からそこにいなかったかのように、
闇の中へと消えていた。
残された悠斗にできることは、
ただ一つ。
目の前で交わされる、
人ならざる攻防を、
見守ることだけだった。
それが、今の自分に許された、唯一の役割だった。




