――第12話 舞と迷い――
屋敷での日々は、気づけば同じリズムを刻みながら過ぎていった。
朝は結乃と軽く挨拶を交わし、昼は祈が運んできてくれる食事をとる。
そして悠斗は、ひたすらランの戦闘記録やネザーヴェイルに関する資料を読み解いていた。
正直なところ、英文資料の翻訳に手間取るせいで、調査は想像以上に時間がかかっている。
――術理とは何か。
――リネアとは何か。
――そして……藍のこと。
結乃は「もし、わからないことがあれば、私が知っていることを教えますよ」と、いかにも言いたげに、わくわくした様子で声をかけてくる。
だが悠斗は、こうした事柄については、できるだけ資料をもとに理解したい性分だった。
(別に結乃の知識を疑っているわけじゃない。
ただ……自分の手で、一つずつ確認したいだけなんだ)
ページをめくるたび、世界の裏側の輪郭が、少しずつ浮かび上がってくる。
それと同時に、自分の足元がきしむような、不安も確実に増していった。
結乃は、悠斗が過剰に深入りしすぎないように、時折その様子を見に来てくれた。
そのたび、彼女の瞳には、どこか心配そうな色と、安堵しているような優しさが宿っている。
そうした日々が静かに積み重なり――
気づけば、1年が終わりを迎えようとしていた。
※※※※※
2025年12月31日 水曜日 21:01
夕食後、いつものように書斎へ戻ろうとした悠斗の腕を、
がしっと何かが掴んだ。
「……?」
振り向くと、結乃が離そうとせずにこちらを見上げている。
理由も言わず、ただ訴えかけるように。
「な、なに? どうしたの?」
「先生」
いつになく真剣なまなざしで、じっと睨みつけてくる。
思わず姿勢を正す悠斗。
「今日は何日か、知っていますか?」
「え?」
悠斗は顎に手を当てて考え込む。
12月――それも、そろそろ終わりかけだということは分かるが、正確な日付までは意識していなかった。
そんな悠斗の様子に、結乃が少し強めの口調で言った。
「もう、12月31日ですよ?
先生は毎日毎日、書斎に引きこもって!」
「い、いや、そう言われても……」
戸惑いながら言い返そうとした悠斗に、
「藍のことですよね?」
結乃の視線が、さらに鋭くなる。
「分かっています。でも、だからって、
いつまでも屋敷に引きこもっていてもしょうがないじゃないですか。
24日だって、出かけようって言ったのに断られましたし……」
そう言って、少しだけ俯く。
その様子に、悠斗は慌てて言葉を探した。
「そ、それは……」
「……」
「いや、結乃が悪いわけじゃないんだ。
ただね、僕はもう28なんだ。正直、
クリスマスイブの街の雰囲気には、もうついていけなくてさ」
12月24日。
結乃に、祈と一緒に行こうとクリスマスのイベントに誘われたが、悠斗はそれを断った。
上賀市では、クリスマスイブの恒例行事として、
カトリック教会主催の催しが行われている。
冬の讃美歌の合唱を聴いたり、ジングルベルの演奏に耳を傾ける。
そして、薄いオレンジ色の明かりが足元に並ぶ遊歩道をランプを持って散歩できるというものだ。
学生時代の悠斗は、何度か足を運んだことがある。
静かで、どこか厳かな雰囲気が好きだった。
だが、さすがにこの年になると話は別だった。
周囲には若いカップルが多く、その中を結乃と祈と一緒に並んで歩くことには、どうしてもためらいがあった。
「祈と行きなよ」
そう言って勧め、悠斗は屋敷の書斎に籠もり、いつも通り書籍を読み込んでいた。
――そして今。
結乃は、そのことを、まだ根に持っているらしい。
「もう! クリスマスイブの話はいいです」
結乃はぷいっと顔を背けてから、すぐにこちらを見上げた。
「確かに、先生が気をつかわれるのも分かります。
ああいうイベントだって、反省もしました。
でも今日は大晦日です」
そう言って、今度は少しだけ声を弾ませる。
「今日は、大高野神社のイベントです。
一緒に行きましょうよぉ」
結乃の言う大高野神社のイベント。
毎年大晦日に行われる「翡翠送り」と呼ばれる伝統的な祭りのことだった。
一年の終わりに、”火”で燃やし、その灰を”水”に送る。
火と水を使うことから、正式には”火水送り”と呼ばれていた。
しかし時の流れにより”翡翠送り”あるいは”翡翠祭り”と呼ばれるようになったらしい。
もともとは雨乞いの儀式だったという。
雨巫女が舞を奉じ、土地を清め、その年の悪い行いや穢れを焚火で燃やす。
そして、清められた灰を和紙に包み、川へ流すことで、来年の雨の恵みを願う――
そんな、素朴で神聖な儀式だ。
「イベント」と表現するのは、結乃の高校生らしい感覚なのだろう。
実際、翡翠祭りは屋台も出ているし、巫女の舞も町おこしの一環として宣伝されている。
伝統文化が少しずつ見世物になっていく、その感覚には、どうしても小さな寂しさを覚えてしまう。
だが、それも時代の流れなのだろう。
残すためには、形を変えるしかないものもある。
そう考えれば、悪いことばかりではない。
それに、結乃もこうして誘ってきている。
翡翠祭りであれば、そこまで年齢を気にする必要もないだろう。
境内は暗く、人の顔もはっきりとは見えない。
帽子とマスクをしていけば、
悠斗の目立つ顔と髪でも、変に注目されることもないはずだ。
「いいよ。それじゃあ、行こうか」
その瞬間、結乃の目がぎょっとするほど大きく開いた。
「え? ほんとうに?」
どうやら、一緒に行ってくれるとは思っていなかったらしい。
「ここのところ、根を詰めすぎていたみたいだ。
確かに僕は焦ってはいるけど……さすがに焦りすぎていた」
そう言う悠斗の様子を見て、結乃は少しだけ肩を落とした。
「……私のほうこそ、すみません。
先生は私のために、いろいろ頑張ってくれているのに。
当事者の私が、遊ぶことばかり考えてしまって」
結乃は、はっと我に返ったような表情になる。
「高校生なんだから、気にしなくていいんだよ」
悠斗は苦笑して続けた。
「それより、祭りは22時からだったね。
寒いから、しっかり着込んで。
それと、和紙はある? 水にちゃんと溶けるやつ。
せっかくだから水流しもやっていこう。
向こうでも買えるけど、持参したほうが効果がいいんだ。
自分の厄を流す、ってね」
「おー……」
結乃は目をぱちぱちさせる。
「詳しいんですね。
どなたかと一緒に行ったこと、あるんですか?」
少しだけ、言い方に棘が混じる。
「まあ、今より少し若い頃はね。
それより、ほら、早く準備しな」
何か言いたげな結乃の様子に、
これ以上突くと藪蛇だと感じた悠斗は、軽く話を切った。
「んー……」
眉をひそめながらも、結乃は素直に準備を始める。
※※※※※
2025年12月31日 水曜日 22:11
車は、浅橋社長が経営する不動産会社の駐車場に停めた。
「ここに停めていいんですか?」
結乃が少し不安そうに聞く。
「社長にはさっき電話したから大丈夫。
快く了承してくれたよ」
そう答えたところで、今度は祈が声をかけてきた。
「真神様」
少し緊張したような声音だった。
「このように人目のある場所では、まず藍が襲ってくることはないと思われます。
ですが、念のためご注意ください。
私か結乃様から、決して離れないように。
それと、転移石はお持ちですね?」
「ああ、大丈夫だよ」
そう答えて祈を見る。
屋敷では、いつもメイド服姿しか見ていなかったが、今夜の祈は私服だった。
赤いコートに黒のパンツ、足元はヒールのあるロングブーツ。
普段とはまるで違う装いに、思わず目を奪われる。
「……どうかなさいましたか?」
祈が、不思議そうに悠斗を見つめ返す。
「いや。祈さんの私服姿が珍しくてね。
とてもよく似合ってる」
そう言うと、祈は少しだけ目を見開き、それから、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
そのやり取りを横目に見ながら、結乃は後ろ髪を払うようにして言った。
「そんなに私服姿が珍しいですか?」
言外に、自分だって私服なのにと言いたげだ。
「祈は、こう見えて服選びにはうるさいんです。
この前なんて、ショッピングに何時間も連れ回されたんですから」
そう言う結乃も、今夜は私服だった。
黒のジャンパーに青いスカート、ストッキングに茶色のブーツ。
動きやすさを意識した、控えめな装いだ。
「その服も、祈さんが?」
悠斗が結乃の服装を見て尋ねる。
「それは違います」
祈が、やや疲れたようにため息をついた。
「結乃様は、服装にはあまり頓着がなくて。
機能性さえあれば、割と何でもいいという方ですから」
「ですので、社交の場などでは、
いつも私がコーディネートを担当しております。
結乃様お一人では、正直……恐ろしくて送り出せません」
その言葉に、結乃はぷくっと頬を膨らませ、無言の抗議を示した。
そんな微笑ましいやり取りを眺めながら、三人は駐車場を後にし、神社へと向かって歩き出す。
――歩くこと、10分。
夜の空気が少しずつ冷たさを増し、遠くに、祭りの灯りが見え始めていた。
大通り沿いに、大きな赤い鳥居が立っている。
そこをくぐると、寒空の下にもかかわらず、参道の左右には屋台が並び、深夜だというのに多くの人が集まっていた。
地元の人々は肩をすくめながら談笑し、新年を、まだかまだかと待ちわびている。
さらに奥へ進むと、本殿が見えてきた。
その前では、ちょうど巫女の演舞が始まろうとしているところだった。
演舞を目当てに訪れるのは、地元の人だけではない。
最近では、わざわざ県外から見学に来る者もいるという。
近くの駐車場はすでに満車で、電光掲示板には「満」の文字が光っていた。
そのため、悠斗は事前に浅橋社長へ連絡し、不動産会社の駐車場を借りる手筈を整えていたのだ。
「ちょうど、始まるみたいだね」
そう呟いた直後。
”和太鼓の重い音が腹に響き”
”琵琶の低い音色が空気を震わせ”
”そこへ笛の澄んだ音が重なる”
和の音に包まれながら、巫女は風を纏うように舞っていた。
近代化が進むこの時代に、それでも伝統を残そうとする人々の営み。
その姿は、悠斗の目には、どこかまぶしく映っていた。
悠斗は、久しぶりに祭りの参加だった。
大学1年のとき、最後に来たきり、もう随分と足が遠のいている。
――10年近くになるだろうか。
そんなことを思いながら、改めて巫女の顔をよく見てみる。
どこかで見覚えがあることに気づいた。
「あれ……もしかして」
その小さな呟きに、結乃が顔を向ける。
「お知り合いなんですか?」
「ああ。たぶん、そうだと思う。
まさかとは思ったけど……」
悠斗は視線を舞台から離さないまま、静かに言った。
「僕の“先生”だ」
そう言いながら、再び巫女の舞を見つめる。
(先生の……先生……?)
結乃は、その言葉の意味を噛み砕こうとした。
その胸の奥に、かすかな不安が芽生えるのを感じていた。
自分の知らない悠斗。
当たり前のことなのに、結乃は、悠斗の過去を”何も知らない”。
彼は自分のことを進んで語る人ではなかった。
それに、そういう話題になる機会も、これまでほとんどなかった。
(思えば、先生はいつも人のことばかり考えている。
自分のことは、あまり見ていない――そんなふうに感じる)
その思いが胸に広がっていった。
結乃は、もはや舞を見ていられなくなっていた。
巫女の動きより。
太鼓や笛の音より。
悠斗が舞を見つめる”その横顔”から目が離せなかった。
そこにあるのは、自分の知らない時間を見つめる人の表情だった。




