――第3話 夜の林での戦闘――
祈はスティレットを構える。
刃は黒く鈍く光っていた。それは先代当主――久我正義から授けられたもの。そして同時に、祈の父の形見でもあった。
十五のときに手渡されて以来、一度たりとも手入れを怠ったことはない。
大切なものを守れるように――その願いが込められた刃だった。
その切っ先が、今――真神悠斗へ向けられている。
許されざる行為だと、祈は分かっていた。
胸の奥が軋む。
それでも、これは守るための行為だった。
このまま悠斗が礼拝堂で無茶を続ければ、結乃の魂から黒涙が摘出される前に――悠斗の方が壊れる。祈には、その未来がはっきりと見えていた。
目の前に立つ悠斗を見つめる。
冷たい視線。
そこには、普段の穏やかな優しさが欠片もない。
今の悠斗は、もう“いつもの悠斗”ではなかった。
目的と手段が入れ替わり、救うための決意が、破壊するための衝動に塗り替えられている。瞳の奥に宿るのは、ただの静かな殺意だった。
それは祈が求めていた姿ではない。
そして――きっと結乃も、望んではいない。
だからこそ、放置することはできない。
祈はスティレットを握る手に、さらに力を込めた。震えを押し殺し、刃先をわずかに下げることもなく、ただ真っ直ぐに悠斗を見据えた。
――ふっと短く息を吐き、祈は床を蹴った。
躊躇はない。
視界のすべてが、狙うべき一点――悠斗の喉元へ収束する。
スティレットが一直線に走る。
迷いなく突き刺す。
分かっている。これは――悠斗を殺す行為だ。
だが、それでいい。
そうでもしなければ、悠斗は“油断”をしない。
祈はこれまで何度も、悠斗の戦いを見てきた。致命傷を受ける瞬間、悠斗はほとんど無意識の領域でリネアを制御する。未来に訪れる“死”そのものを別の可能性へ押し流し、なかったことにする。どれほど不利な状況でも、その一点だけは絶対に外さない。
だからこそ祈は、躊躇なく喉元へ刃を突き込む。
――とすっ。
乾いた音とともに、確かな手応えが手首に伝わった。
肉を裂き、骨に届いたかのような感触。
祈は、一瞬だけ呼吸を忘れる。
殺した。
そう確信してしまうほどの、完璧な手応えだった。
あまりにも確実すぎて、逆に恐怖が胸を締め付ける。本当に――刺してしまったのではないかと。
だが。
悠斗の喉元には、何の変化もなかった。
穴も開いていない。
血も流れていない。
その代わりに――悠斗の周囲を、黒いイバラが取り囲んでいた。
空間そのものに絡みつくように蠢く棘。禍々しい光を帯びながら、現実を書き換えるように揺れている。
――これが、【虚飾】のリネア。
もし悠斗が、人類に敵対する存在だったなら。
その想像に、祈は背筋が凍るのを感じた。
だが同時に、理解する。
今の悠斗は、“致命”にしか意識を割いていない。
それ以外の行動には、反応が鈍くなるはずだ。
祈は迷わず踏み込む。
スティレットを引き、腕を交差させるようにして悠斗の胸へ叩きつける。
「――っ!」
衝撃が走る。
エウラの術理によって付与された身体強化が、祈の筋肉を限界まで引き上げていた。体が羽のように軽い。悠斗の体重など、障害にもならない。
悠斗の体が大きく浮き上がる。
そのまま玄関を突き抜け、屋敷の外へと弾き飛ばす。
祈は間髪入れず追撃する。
夜明け前の冷たい空気が肌を刺す。屋敷の敷地を越え、林の中へ――意図的に、悠斗を誘導する。
枝葉が揺れ、湿った土の匂いが漂う。
ここが、祈の領域だった。
祈は、気配遮断と暗殺術を得意とする。
障害物が多く、視界が制限される空間こそ、彼女の真価が発揮される場所だ。
林の闇が、祈の姿を溶かしていく。
この暗がりと遮蔽物の中でなら、悠斗は祈の位置を完全には把握できない。
そう判断し、祈は静かに呼吸を整えた。
「なるほど……ここが祈、君の戦場というわけだ」
林の闇を見渡しながら、悠斗は静かに呟く。
「確かに、ここでは君の姿を捉えるのは難しそうだね」
感情のない声だった。
油断も、過信もない。ただ事実を確認しているだけの、空虚な響きだった。
その背後で――すっと黒い光が走る。
「――っ」
刹那、悠斗はその一撃を“未来”へ押し流した。
空間がわずかに歪む。
「エウラちゃんのおかげで……体が軽い」
その声と同時に、空気が裂ける。
祈の速度は、すでに人間の領域を超えていた。
常人であれば、自身にかかるGに耐えきれず、意識を失う速度。
祈が地面を蹴るたび、破裂音が林に轟く。
ぱあん――と、音速を超えた衝撃波が夜気を震わせる。
もはや暗殺には程遠い、暴力的な轟音だった。
そのたびに地面が抉れ、立木が折れる。
黒い影が、閃光のように悠斗へ襲いかかる。
胸。
脚。
肩。
首。
次々にスティレットが振るわれる。刃は確実に急所を捉えていた。
いつの間にか、悠斗の周囲は祈の高速移動が生み出した衝撃波によって、林の木々がなぎ倒され、ぽっかりと開けた空間へ変わりつつあった。
嵐の中心に立つような光景だった。
それでも――
悠斗は膝すらつかない。
まるで無風の野を歩くかのように、静かに立ち続けている。
祈は奥歯を噛み締める。
(やっぱり……だめ……)
傷一つ、付けられない。
致命の一撃に意識を集中している隙を突き、脚、腕、関節――動きを封じる箇所へ攻撃を叩き込む。だが、それらの攻撃すら、ことごとく“未来”へ送られている。
結果だけが消える。
攻撃という事実そのものが、存在しなかったかのように。
(このままじゃ……埒が明かない)
そう判断した、その瞬間だった。
悠斗が、ふいに右腕を持ち上げる。
その動きは、あまりにも自然だった。
まるで、目の前の嵐など存在しないかのように。
そして――
ぼそり、と呟く。
「――嫉妬窃取罪」




