表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弁護士は、現代社会に生きる、辛い過去を持つ魔女達を自己犠牲も問わず救いたい。  作者: れさ
第5章 救いの先

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

110/114

――第2話 大喧嘩――

2026年4月11日 土曜日 4:34


「ただいま……」


屋敷の玄関をくぐりながら、悠斗は小さく呟いた。

だが、その声は自分でも驚くほど頼りなく、空気に溶けるように消えていく。帰ってきたという事実だけを告げる、ひどく情けない声だった。


今日も――結界を突破することはできなかった。


数十回は死んだ。

肉が裂け、骨が砕け、魂ごと押し潰されるような痛みを、何度も味わった。それでも結界は開かない。


同じリネアの力を扱っているはずなのに。

なぜ、あそこまで差があるのか。考えても分からない。その疑問は、苛立ちとなって胸の奥に重く沈んでいく。


「悠斗さん……」


背後から、か細い声が届く。振り返らなくても分かる。祈だ。こんな時間まで、帰りを待っていたのだろう。声だけで、彼女の不安と気遣いが伝わってくる。


「悠斗さん……やっぱり今日も?」


「ああ。だめだったよ」


短く答える。その声には、無意識のうちに棘が混じっていた。祈はそれに気づき、わずかに息を呑む。最近の悠斗は、帰宅直後だけ感情が荒れている。それでも祈は、何も言わず、ただ彼を見つめていた。


最近の悠斗は、毎日この調子だった。


屋敷へ戻ってくる頃には、リネアの酷使による反動なのか、感情が明らかに棘を帯びている。言葉の端々が尖り、視線もどこか乾いている。


だが、一晩眠り、昼に書庫へ籠もって資料を漁り始める頃には、その荒れた気配は薄れていく。熱が下がるように、いつもの穏やかな悠斗へ戻るのだ。


それでも――帰宅直後のこの瞬間だけは違う。


悠斗から漂う感情は、暗く、冷たい。

「結乃を救う」という想いが、いつの間にか「アーサーを殺す」という一点へ収束しているように、祈には感じられていた。


このままでは、取り返しがつかなくなる。


祈は静かに息を整える。言葉を選ぼうとする。だが、遠回しでは届かないと悟った。


「悠斗さん……もう、やめませんか?」


慎重に口にしたつもりだった。それでも声は、覚悟を含んでいた。


「なにを言っているんだ?」


悠斗は、本気で理解できないという顔をする。


祈は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


「……どういうこと?」


悠斗の声が続く。

低く、冷たく、刃のように鋭かった。


悠斗の胸の奥で、理解できないという感情が静かに膨れ上がる。


なぜ、そんな言葉が出てくるのか。

祈が何を否定しようとしているのか、本気で分からなかった。


結乃を助ける――それ以外に、理由など存在しないはずだ。


そのために、何度も死んだ。

そのために、痛みを受け入れてきた。

肉が裂ける感覚も、魂が削り取られる恐怖も、すべて飲み込んできた。


一か月。

ただ、そのためだけに、苦しみに耐え続けてきたというのに。


それを否定される理由が、悠斗にはどうしても理解できなかった。


しかし、その冷たい言い方にも、祈は一歩も退かなかった。


逃げることも、言葉を濁すこともしない。ただ真っ直ぐに悠斗の目を見つめる。その視線には、震えがありながらも、揺るがない強さが宿っていた。


「悠斗さんは……もう、お体も、お心も、ぼろぼろです。

 お分かりにならないんですか? もう……見ていられません」


その言葉に、悠斗はわずかに眉を動かす。そして無言のまま、自分の手を見下ろした。


指先の感覚は鈍く、爪は黒く変色している。明らかに正常ではない。それでも――悠斗にとって、それは止まる理由にはならなかった。


結乃を救うと決めた。

その決意だけが、今の自分を支えている。


「大丈夫だよ、祈」


静かに言葉を返す。


「僕の体のことなんて、どうでもいい。

 どうせ……結乃を救えなければ、消える体だ。どうでもいい」


「どうでもよくはありません」


祈は即座に言い返した。


普段は控えめな彼女が、ここまで強く声を張るのは珍しい。それでも今日は、一歩も退く気配がなかった。


「私はもちろん、結乃様が心配です。

 でも、それと同じくらい――悠斗さんのことも心配なんです」


祈はスカートの裾を強く握り締める。布が皺になるほど力がこもる。そのまま、逃げ場を失った感情を押し殺すように、悠斗を見つめ続けた。


「僕の心配をしてくれるのは嬉しい。……でも悪いけど、祈。もう、僕の心配はやめてくれないか」


静かに告げられた言葉には、拒絶の色が滲んでいた。


それは本心だった。

自分を案じられるほど、足が止まる。躊躇が生まれる。今の悠斗にとって、それは何より邪魔だった。むしろ――放っておかれる方が、ずっと楽だった。


投げやりにも見えるその態度に、祈の表情がさらに険しくなる。


「そんなこと……できると思っているんですか?」


声が震える。だが、視線は逸らさない。


「私の命の恩人が、ぼろぼろになっていく姿を……黙って見ていろと?」


「そうだ」


悠斗は、迷いなく答えた。


「ぼろぼろになって……結乃様を救えず、何も得られず、ただ朽ちていく姿を、見過ごせと?」


「そうだ」


「それを、黙って見ていろと?」


「そうだ」


祈の唇が強く噛み締められる。

言葉を重ねるほど、胸の奥が軋む。それでも、問いをやめることができない。


「……酷なことだと思いませんか?」


「思う」


悠斗は短く答えた。


「それでも――飲み込んでもらう」


「できません」


即答だった。


「それでもだ」


祈の指先が震える。スカートの裾を握る力がさらに強まる。


「……お願いします」


その声は、懇願だった。


悠斗は、何も答えない。


答えは決まっている。

だからこそ、言葉にできなかった。


……。


言葉が途切れる。


玄関ホールに、重たい沈黙が落ちた。空気が張り詰め、互いの呼吸音だけがやけに大きく響く。


「……悠斗さん」


祈は、ゆっくりと名前を呼ぶ。その声音には、迷いと決意が入り混じっていた。何かを飲み込み、何かを切り捨てようとしているのが分かる。


「あなたは、今……“大けが”をしました。

 しばらく……動けそうにありません」


悠斗は、その言葉の意味を正確に理解した。


祈が何をしようとしているのか。

それでも、止まるつもりはなかった。


「無理だよ、祈。君には――僕を傷つけることはできない」


淡々と告げる。その声音には、揺らぎがない。

祈の力量を知っているからこその、冷たい確信だった。


祈は、小さく息を吸う。


「私は……あなたを止めます」


腰元からスティレットを抜く。細身の刃が、淡い光を反射する。


「【虚飾】のリネア使い――真神悠斗さん。

 しばらく動けなくなることを、覚悟してください」


祈は構える。


自分では勝てない。

それは、誰よりも祈自身が理解していた。


それでも――今の悠斗を、このまま進ませるわけにはいかない。


その想いだけが、祈を立たせていた。


悠斗は、感情の消えた瞳で祈を見下ろす。


構えない。


構える必要すらないと、思っている目だった。


屋敷の玄関ホールに、今にも弾けそうな緊張が満ちる。その均衡を、軽やかな声が横から断ち切った。


「私も賛成よ、祈」


二人の間に割って入るように響いた声。その主は――最古の魔法使い、エウラだった。


いつの間に現れたのか、玄関脇の柱にもたれかかりながら、呆れたように肩をすくめている。


「毎日朝帰りなんて健康に悪いし。私の睡眠妨害もいいところだわ。……それに、こうやって祈と口論するのも何回目よ。いい加減になさい」


エウラはゆっくりと視線を悠斗へ向ける。


「私も手伝うから、しばらく寝てなさい。悠斗」


「……エウラ」


悠斗は、その名を静かに呼ぶ。だがその声音に温度はない。


「君まで、僕の邪魔をするのかい?」


「もちろんよ。」


軽く言い放つ。その瞬間、空気が微かに震えた。


玄関の壁、天井、柱――屋敷を囲むように、淡い光が連なっていく。術式陣。既に屋敷全体に魔法が展開されている、完全な臨戦構成だった。


悠斗は、それを一瞥する。


そして、小さく息を吐いた。


「いいよ。祈、エウラ。……勝った方が、今後の方針を決める。それでどうだ?」


口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「死ぬ気で来た方がいいよ。安心して。僕は絶対に、君たちを殺さないから」


「私を殺せるなら、殺してもいいのよ?」


エウラは軽口を叩く。だがその瞳は、すでに戦場に立つ者のそれだった。


久我家の屋敷で――

初めての“大喧嘩”が、静かに幕を開けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ