――第2話 大喧嘩――
2026年4月11日 土曜日 4:34
「ただいま……」
屋敷の玄関をくぐりながら、悠斗は小さく呟いた。
だが、その声は自分でも驚くほど頼りなく、空気に溶けるように消えていく。帰ってきたという事実だけを告げる、ひどく情けない声だった。
今日も――結界を突破することはできなかった。
数十回は死んだ。
肉が裂け、骨が砕け、魂ごと押し潰されるような痛みを、何度も味わった。それでも結界は開かない。
同じリネアの力を扱っているはずなのに。
なぜ、あそこまで差があるのか。考えても分からない。その疑問は、苛立ちとなって胸の奥に重く沈んでいく。
「悠斗さん……」
背後から、か細い声が届く。振り返らなくても分かる。祈だ。こんな時間まで、帰りを待っていたのだろう。声だけで、彼女の不安と気遣いが伝わってくる。
「悠斗さん……やっぱり今日も?」
「ああ。だめだったよ」
短く答える。その声には、無意識のうちに棘が混じっていた。祈はそれに気づき、わずかに息を呑む。最近の悠斗は、帰宅直後だけ感情が荒れている。それでも祈は、何も言わず、ただ彼を見つめていた。
最近の悠斗は、毎日この調子だった。
屋敷へ戻ってくる頃には、リネアの酷使による反動なのか、感情が明らかに棘を帯びている。言葉の端々が尖り、視線もどこか乾いている。
だが、一晩眠り、昼に書庫へ籠もって資料を漁り始める頃には、その荒れた気配は薄れていく。熱が下がるように、いつもの穏やかな悠斗へ戻るのだ。
それでも――帰宅直後のこの瞬間だけは違う。
悠斗から漂う感情は、暗く、冷たい。
「結乃を救う」という想いが、いつの間にか「アーサーを殺す」という一点へ収束しているように、祈には感じられていた。
このままでは、取り返しがつかなくなる。
祈は静かに息を整える。言葉を選ぼうとする。だが、遠回しでは届かないと悟った。
「悠斗さん……もう、やめませんか?」
慎重に口にしたつもりだった。それでも声は、覚悟を含んでいた。
「なにを言っているんだ?」
悠斗は、本気で理解できないという顔をする。
祈は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……どういうこと?」
悠斗の声が続く。
低く、冷たく、刃のように鋭かった。
悠斗の胸の奥で、理解できないという感情が静かに膨れ上がる。
なぜ、そんな言葉が出てくるのか。
祈が何を否定しようとしているのか、本気で分からなかった。
結乃を助ける――それ以外に、理由など存在しないはずだ。
そのために、何度も死んだ。
そのために、痛みを受け入れてきた。
肉が裂ける感覚も、魂が削り取られる恐怖も、すべて飲み込んできた。
一か月。
ただ、そのためだけに、苦しみに耐え続けてきたというのに。
それを否定される理由が、悠斗にはどうしても理解できなかった。
しかし、その冷たい言い方にも、祈は一歩も退かなかった。
逃げることも、言葉を濁すこともしない。ただ真っ直ぐに悠斗の目を見つめる。その視線には、震えがありながらも、揺るがない強さが宿っていた。
「悠斗さんは……もう、お体も、お心も、ぼろぼろです。
お分かりにならないんですか? もう……見ていられません」
その言葉に、悠斗はわずかに眉を動かす。そして無言のまま、自分の手を見下ろした。
指先の感覚は鈍く、爪は黒く変色している。明らかに正常ではない。それでも――悠斗にとって、それは止まる理由にはならなかった。
結乃を救うと決めた。
その決意だけが、今の自分を支えている。
「大丈夫だよ、祈」
静かに言葉を返す。
「僕の体のことなんて、どうでもいい。
どうせ……結乃を救えなければ、消える体だ。どうでもいい」
「どうでもよくはありません」
祈は即座に言い返した。
普段は控えめな彼女が、ここまで強く声を張るのは珍しい。それでも今日は、一歩も退く気配がなかった。
「私はもちろん、結乃様が心配です。
でも、それと同じくらい――悠斗さんのことも心配なんです」
祈はスカートの裾を強く握り締める。布が皺になるほど力がこもる。そのまま、逃げ場を失った感情を押し殺すように、悠斗を見つめ続けた。
「僕の心配をしてくれるのは嬉しい。……でも悪いけど、祈。もう、僕の心配はやめてくれないか」
静かに告げられた言葉には、拒絶の色が滲んでいた。
それは本心だった。
自分を案じられるほど、足が止まる。躊躇が生まれる。今の悠斗にとって、それは何より邪魔だった。むしろ――放っておかれる方が、ずっと楽だった。
投げやりにも見えるその態度に、祈の表情がさらに険しくなる。
「そんなこと……できると思っているんですか?」
声が震える。だが、視線は逸らさない。
「私の命の恩人が、ぼろぼろになっていく姿を……黙って見ていろと?」
「そうだ」
悠斗は、迷いなく答えた。
「ぼろぼろになって……結乃様を救えず、何も得られず、ただ朽ちていく姿を、見過ごせと?」
「そうだ」
「それを、黙って見ていろと?」
「そうだ」
祈の唇が強く噛み締められる。
言葉を重ねるほど、胸の奥が軋む。それでも、問いをやめることができない。
「……酷なことだと思いませんか?」
「思う」
悠斗は短く答えた。
「それでも――飲み込んでもらう」
「できません」
即答だった。
「それでもだ」
祈の指先が震える。スカートの裾を握る力がさらに強まる。
「……お願いします」
その声は、懇願だった。
悠斗は、何も答えない。
答えは決まっている。
だからこそ、言葉にできなかった。
……。
言葉が途切れる。
玄関ホールに、重たい沈黙が落ちた。空気が張り詰め、互いの呼吸音だけがやけに大きく響く。
「……悠斗さん」
祈は、ゆっくりと名前を呼ぶ。その声音には、迷いと決意が入り混じっていた。何かを飲み込み、何かを切り捨てようとしているのが分かる。
「あなたは、今……“大けが”をしました。
しばらく……動けそうにありません」
悠斗は、その言葉の意味を正確に理解した。
祈が何をしようとしているのか。
それでも、止まるつもりはなかった。
「無理だよ、祈。君には――僕を傷つけることはできない」
淡々と告げる。その声音には、揺らぎがない。
祈の力量を知っているからこその、冷たい確信だった。
祈は、小さく息を吸う。
「私は……あなたを止めます」
腰元からスティレットを抜く。細身の刃が、淡い光を反射する。
「【虚飾】のリネア使い――真神悠斗さん。
しばらく動けなくなることを、覚悟してください」
祈は構える。
自分では勝てない。
それは、誰よりも祈自身が理解していた。
それでも――今の悠斗を、このまま進ませるわけにはいかない。
その想いだけが、祈を立たせていた。
悠斗は、感情の消えた瞳で祈を見下ろす。
構えない。
構える必要すらないと、思っている目だった。
屋敷の玄関ホールに、今にも弾けそうな緊張が満ちる。その均衡を、軽やかな声が横から断ち切った。
「私も賛成よ、祈」
二人の間に割って入るように響いた声。その主は――最古の魔法使い、エウラだった。
いつの間に現れたのか、玄関脇の柱にもたれかかりながら、呆れたように肩をすくめている。
「毎日朝帰りなんて健康に悪いし。私の睡眠妨害もいいところだわ。……それに、こうやって祈と口論するのも何回目よ。いい加減になさい」
エウラはゆっくりと視線を悠斗へ向ける。
「私も手伝うから、しばらく寝てなさい。悠斗」
「……エウラ」
悠斗は、その名を静かに呼ぶ。だがその声音に温度はない。
「君まで、僕の邪魔をするのかい?」
「もちろんよ。」
軽く言い放つ。その瞬間、空気が微かに震えた。
玄関の壁、天井、柱――屋敷を囲むように、淡い光が連なっていく。術式陣。既に屋敷全体に魔法が展開されている、完全な臨戦構成だった。
悠斗は、それを一瞥する。
そして、小さく息を吐いた。
「いいよ。祈、エウラ。……勝った方が、今後の方針を決める。それでどうだ?」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「死ぬ気で来た方がいいよ。安心して。僕は絶対に、君たちを殺さないから」
「私を殺せるなら、殺してもいいのよ?」
エウラは軽口を叩く。だがその瞳は、すでに戦場に立つ者のそれだった。
久我家の屋敷で――
初めての“大喧嘩”が、静かに幕を開けた。




