――第22話 奪われたもの――
「……はあ、……はあ、……はあ……」
呼吸をするたび、胸の奥が軋んだ。
限界だ――結乃は、はっきりとそう理解していた。
もう、指一本動かすだけでもつらい。
痺れる感覚を確かめるように、わずかに指先へ力を込めようとする。だが、応えはない。命令は確かに出しているのに、身体は沈黙したままだった。
かろうじて、立っている。
――はずだ。
自分が今、立っているのか、それとも倒れかけているのか、その区別すら曖昧だ。重力の向きが分からない。足裏の感覚も、床の存在も、遠い。身体が、世界から切り離されていく。
視界が揺れ、滲む。
結乃は、ゆっくりと顔を上げた。
崩れ落ちた天井の向こうに、夜空が広がっている。
満天の星空だった。
不思議なほど、静かで、澄んでいる。
煙も、炎の名残も、その一角には届いていない。まるで、この戦場だけが世界から切り取られ、空だけが本来の姿を保っているかのようだった。
「……きれい……」
声にならない声が、喉の奥で消える。
ロンドンの星空。
こんなにも星が見える夜があるなんて、知らなかった。
人工の光に覆われた街の上で、これほど無数の点が、静かに瞬いている。
まるで――プラネタリウムだ。
整えられ、配置され、完璧に再現された偽物の夜空。
けれど、これは本物だ。
壊れたビルの上に、戦いの残骸の上に、何事もなかったかのように広がる、本物の宇宙。
その対比が、ひどく残酷で、同時に優しかった。
――ああ。
もし、ここで終わるのなら。
こんな景色を、最後に見られたのなら。
そんな考えが、ふっと頭をよぎる。
すぐに否定しようとしたが、もうその力すら残っていなかった。
星は、何も語らない。
ただ、静かに輝いている。
結乃は、かすれる視界のまま、その光を見つめ続けた。
意識の縁で、冷たい夜風が頬を撫でる。
肺の奥に残っていた空気を、結乃はどうにか絞り出すように吐き出した。
喉がひくりと鳴り、視界が揺れる。それでも、顔だけは動かし、藍が立っていたはずの場所を見る。
――そこに、藍はいた。
正確には、残っていた。
下半身は完全に吹き飛び、そこにあったはずの輪郭は跡形もない。瓦礫の上に横たわっているのは、ほぼ上半身だけの姿だった。
その残った肉体も、ところどころが黒く焦げ、裂け、焼き切られている。
鼻を刺す、つんとした匂い。
人体が焼けたとき特有の、鉄と焦げが混じった、否応なく現実を突きつけてくる臭いだった。
結乃は、ただ、それを見つめる。
――終わった。
言葉にしなくても、分かる。
それは結乃だけでなく、エウラも同じだった。
世界を覆っていたあの圧も、あの歪みも、確かに消えている。
【月】を冠するリネア使い。
理の樹の力を直接引き出す存在。
そのリネア使いに――勝った。
それがどれほど異常なことか、考えるまでもない。
これまでの歴史の中で、前例はない。
とてつもない功績。
世界の理を揺るがす、出来事。
だが結乃は、誇りも、達成感も、今は感じていなかった。
ただ、
終わったのだという事実だけが、重く、確かに胸に落ちていた。
そして、その横たわるリネア使い――藍が、ゆっくりと口を開いた。
下半身を失っているというのに、苦痛に顔を歪める様子はない。むしろ、どこか満ち足りたように、余裕すら感じさせる笑みを浮かべていた。
「……はは……結乃、そしてエウラ……」
掠れながらも、声ははっきりしている。
「君たちは……素晴らしかったよ。私の、完敗だ」
そこに悔しさはなかった。
負け惜しみでも、虚勢でもない。
ただ、真実をそのまま口にしただけの、純粋な称賛だった。
「……」
「……」
結乃とエウラは、言葉を返さない。
否、返せなかった。
もはや声を出すだけの気力すら残っておらず、ただ黙って、その言葉を受け止める。
「君たちは、いずれ……ヴォルクハルトの真意を知り、彼と対峙するだろう」
藍の視線は、天井の向こう――星空のさらに奥を見ている。
「そのとき、君たちは彼の強さに、きっと絶望する。逃げ場も、希望も、何もかも奪われたように感じるはずだ」
それでも、と藍は続けた。
「……忘れてはいけない」
一瞬、視線が二人に戻る。
「君たちは、魔法使いだ。この人類の歴史の中で――一番の希望なんだ」
息を整えるように、わずかに間を置き、
「そして……私というリネア使いを倒した」
その事実だけは、と念を押すように言った。
「……それだけは、忘れるなよ」
そして、藍は最後に言い残す。
「――“アズ・ラ=ケール”へと至ったなら、君たちは選択することになる」
掠れた声だったが、不思議とよく響いた。
「その選択を……決して、誤るなよ……」
それが、忠告なのか、祈りなのか、あるいは自分自身への言葉だったのかは分からない。
だが、その声音には、三百年という時間を生き、抗い、迷い続けた者だけが持つ重みがあった。
次の瞬間、藍の身体が、ゆっくりと崩れ始める。
肉体が崩壊するのではない。存在そのものが、役目を終えたかのように、光の粒へと分解されていく。
三百年の間、世界を敵に回し、
理に背き、
最悪の術理士と呼ばれ続けた男。
その最期は、叫びでも呪いでもなかった。
ただ静かに、受け入れるような終わりだった。
ざあっと、風が吹く。
そこに残ったのは、わずかな残滓だけ。
光とも、灰ともつかない粒子が宙を舞い、やがて塵となって散っていく。
跡形もなく。
本当に、何一つ残さず。
結乃とエウラは、その場から動けないまま、それを見届けていた。
終わったのだ、とようやく実感が追いつく。
「……藍……」
エウラが、つぶやくように名を呼んだ。
「よくやったわ、結乃……」
「ありがとう、エウラ……でも、もう休みたいわ」
力の抜けた声に、エウラは小さく笑う。
「そうね。今くらいは、どんな小言でも聞いてあげるわ」
「それ、私のセリフなんだけど……」
「ふふ」
エウラは柔らかく笑い、続けた。
「本当に、あなたはすごいわ。リネア使いを倒すなんて……ありえないことなんだもの」
そう言いながら、彼女は少し寂しそうに、そしてどこか羨ましそうに、崩れた天井の向こう――夜空を見上げる。
「私にはない“終わり”を、あなたは藍にもたらした。それは……私が、ずっと欲しているものよ」
「……エウラ……」
呼びかけると、彼女は首を振った。
「勘違いしないでね。今の生活も、私は気に入っているのよ?」
視線を戻し、穏やかに続ける。
「だから、悠斗と結乃、それに祈も。あんたたちの最後を見届けるまでは……私も生きてあげるわ」
その言葉は、約束のように、静かに胸に残った。
そういうエウラの笑顔は、ひどくまぶしかった。
その光にあてられたみたいに、結乃の頬は思わず緩む。疲れ切ったはずなのに、胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
エウラとは、いつも口論ばかりしていた。価値観も距離感も違って、ぶつかって、言い合って、それでも並んで立ってきた。
けれど今日は、はっきりと分かる。
今この瞬間、確かに心が通じ合ったのだと。
エウラは言った。
私たちと生きてくれる、と。
それは冗談でも、気まぐれでもない、確かな意思だった。
それが、どうしようもなく嬉しい。
――先生を渡す気は、まったくないけれど。
その事実に、結乃は思わず小さく笑ってしまう。
それでもいい。
みんなで一緒にいられる。
屋敷に戻れば、きっとまた、何気ない日常が待っている。
食事をして、話をして、時には言い合って、それでも穏やかに過ごす時間が。
だって、もう――藍はいない。
久我家を縛り続けてきた運命は、ここで断ち切られた。
血と因縁と予言に縛られた未来から、解放されたのだ。
そう、解放された。
これからは、自分の運命を歩こう。
選ばされた道じゃない。
自分で選ぶ道を。
幸せになろう。
胸を張って、そう思っていい。
十五のとき、結乃は泣いた。
両親も、自分も、藍に殺される運命だと定められていると知って、声が枯れるまで泣いた。未来なんて、最初から存在しないのだと、そう思っていた。
でも、その運命は――今、確かに終わった。
ということは。
自分は、普通の女の子の人生を歩んでもいいのではないだろうか。
悩んで、迷って、笑って。
誰かを好きになって。
先生と一緒に歩む未来を――
歩んでも、いい。
――なんで?
なんで?
なんで、エウラはそんな顔をしているの?
必死な顔で。
今にも泣き出しそうで。
何かを失いそうで、失わないように、縋るように手を伸ばして。
一体、なんで――?
結乃は、ゆっくりと自分の胸元に視線を落とした。
白い。
――真っ白な腕が、胸元から生えている。
最初は、それが何なのか分からなかった。
自分のものではない。
血も、温度も、重さも感じない。
ただ“そこにある”という事実だけが、異様なほどにはっきりしていた。
「……あ……?」
声が、出ない。
白い腕は、結乃の胸の奥へと差し込まれ、何かを掴んでいる。
それが“何”なのか、理解するより先に、感覚が失われていく。
鼓動が、遠のく。
息をしているはずなのに、肺が空っぽになる。
――魂だ。
「――テオス……エイミ……」
背後から、男の声がした。
低く、落ち着いていて、ぞっとするほど“満足そうな”声。
振り返ろうとしても、身体が動かない。
いや――もう、身体ですらないのかもしれない。
結乃の視界が、完全に白く塗り潰されていく。
最後に見えたのは――
エウラの、泣き崩れるような表情だった。
伸ばされた手は、
届かない。
声も、
もう、聞こえない…
男の手に握られているのは結乃の魂。
そして、“黒涙”だった。




