――第18話 【月】ふたたび――
――数十分前。
コルソンは、結乃を止めるために一歩を踏み出した。
躊躇はなかった。命を刈り取るため、その大鎌を振るう。狙いは明確で、次の一撃で終わらせる――その意思が、刃に重く宿っている。
だが、踏み込んだ瞬間、彼は目を見開いた。
結乃の周囲に、術式陣が浮かんでいる。ひとつ、ふたつではない。
――十二。
「……ありえない」
思わず、そんな言葉が喉から漏れた。
熟練の術理士であっても、同時展開は四つが限界だ。それ以上は制御が破綻し、術者自身を焼き潰す。理屈として、それは絶対だった。
だが、目の前にいるのは――魔法使いだ。
しかも、ここには二人いる。
ありえない話では、ない。
そう理解してしまった瞬間、背筋に冷たいものが走る。
それでも、やることは変わらない。
距離を詰め、首を跳ね飛ばしてしまえば、それで終わる。
どれほどの術式があろうと、発動する前に刈り取れば関係ない。
コルソンは鎌を構え直し、さらに踏み込んだ。
勝負は、一瞬で決めるつもりだった。
そう決意した、その瞬間だった。
コルソンの足元が、ぐらりと揺らぐ。
「……?」
なにもないはずの空間で、突然バランスを崩し、その場に倒れ込む。なぜだ――そう問いかける思考が形になる前に、右足に激痛が走った。
焼けつくような感覚。
いや、それですら一瞬だった。
次の瞬間、そこに右足は――なかった。
炎の槍が、膝から下を完全に消し飛ばしていた。
「……ばかな……」
ありえない。
目の前の少女は、まだ術理を発動させていない。詠唱も、陣の変化もない。
では、この炎の槍はどこから飛んできた。
空を見上げる。
背後か。側面か。
否――どこにも“発射源”は見当たらない。
混乱が思考を支配した、そのとき。
「――四方から、よ」
淡々とした声が、落ちてきた。
考えていたことを、そのままなぞったような言葉。
コルソンは、はっとして結乃を見る。
彼女は静かに立ち、十二の術式陣に囲まれたまま、冷たい視線を向けていた。
「あなたが踏み込んだ瞬間、もう詰んでたの」
「周りにある術式陣、あれ――今は“全部”私の制御下にあるの」
結乃はそう言って、何でもないことのように髪をかき上げた。
「つまり、どこからでも、無詠唱で、どんな術理でも撃ち放題ってわけ」
あまりにも軽い口調だった。
だが、その言葉の意味を理解した瞬間、コルソンの思考が凍りつく。
――理解しているのか?
自分が、いったい何をしているのかを。
この周囲に浮かぶ数百の術式陣。
もし、それらすべてが“ブレイク”状態だとしたら――。
そんなこと、ありえない。
いや、ありえないはずだった。
それが可能なら、彼女は今この瞬間、世界でもっとも偉大な術理士と呼ばれても過言ではない存在になる。
理論も、限界も、常識も、すべてを踏み越えている。
それを、この少女は理解しているのか。
それとも、理解する必要すら感じていないのか。
「……君は……すごいね」
気づけば、そう口にしていた。
「これほどの術式陣を操るなんて……神技だ。俺の負けだよ」
負け惜しみではなかった。
恐怖でも、諦めでもない。
それは、ただの――
心からの称賛だった。
「……殺せ」
それだけを、命令するように短くつぶやいた。
声には怒りも懇願もなく、ただ結果を受け入れる響きがあった。
「いやよ」
結乃は即座に答える。
その声音は、冷静で、揺らぎがない。
「勝負はついたし、あなたはもう戦えないでしょう。これからは……引退して、田舎にでも隠居なさい」
ふ、と小さく息が漏れる。
甘い。
甘すぎる。
そうコルソンは心の中で呟き、静かに笑った。
思えば、炎の槍で足を焼き切ったのも、即死させるためではない。血を止め、確実に“戦線から退かせる”ための処置だったのだろう。負傷すれば、もう前には出られない。
非情なのか。
それとも、ただ優しいのか。
判断がつかず、だからこそ可笑しかった。
彼女は、勝ち方を選んだ。
そして、殺さないという選択をした。
「……その甘さが」
コルソンは、空を仰ぐように視線を逸らし、静かに言った。
「いつか、命取りにならないことを祈ることにするよ」
それは忠告であり、
そして、敗者からの――唯一の餞だった。
「ええ、祈ってなさい。私はもう行くから……じゃあね」
結乃がそう言いかけた、その瞬間だった。
『――じゃあ、私が引導を渡してやろう』
どこからともなく、低く冷たい男の声が響く。
次の瞬間、コルソンの周囲に黒い球体が出現した。光を拒むような完全な黒。音すら吸い込むそれが、彼を包み込む。
「な――」
抵抗する間もなかった。
球体は内側へと収縮し、コルソンの身体は引きずり込まれるように小さくなっていく。骨が軋む音も、悲鳴も、すべてが圧し潰されていった。
「ら……ん……様……」
最後に、かすれた声が漏れる。
それは祈りにも、呼びかけにも聞こえた。
次の瞬間、その声は完全に途切れた。
黒い球体は、何事もなかったかのように消え去り、そこにはもう、コルソンの痕跡すら残っていない。
静寂だけが、取り残されたように漂っていた。
「……藍……!」
結乃は、睨みつけるようにその名を呼んだ。
タキシードに身を包んだ男は、場違いなほど整った佇まいでそこに立っている。美しいエメラルドグリーンの瞳――だが、その奥に映るのは現実ではなく、歪んだ虚構だけだった。
結乃の父と母を殺害し、久我家と長年の因縁を刻み続けてきた存在。
そして今もなお、結乃の持つ《黒涙》を狙い続けるリネア使い。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
「やーあ。こんなところで再会するなんて、奇遇だね」
藍は楽しげに声を弾ませると、わざとらしく一歩前に出る。
「久我家の後継者さん」
そう言って、大げさにぺこりと頭を下げた。
その仕草の一つ一つが、結乃の神経を逆撫でする。
再会を喜んでいるのか、それとも――
次の悲劇を、心から楽しんでいるのか。
結乃は、無言のまま拳を握り締めた。
「あなた……こんなところで、なにをしているのかしら」
結乃は一歩も引かず、正面から藍を見据えた。
「それと、さっきの……非常に不愉快だわ」
感情を隠そうともしない声音だった。
藍は肩をすくめ、いかにも楽しそうに笑う。
「いやー、部下の不手際の後始末も、上司の役目でしょう?」
軽薄な口調のまま、言葉を続ける。
「それに彼はもう戦えない。生きているほうがつらいんだ。だから、楽にしてあげただけさ」
その一言で、結乃の中ですべてが整理された。
――話にならない。
どれほど言葉を重ねても、どれほど理屈を並べても、この男とは絶対に相いれない。
価値観の違いですらない。根本から、世界の見え方が違う。
結乃はそれを、瞬時に理解した。
「……そう」
感情を抑え、声を低くする。
「それで?」
視線を逸らさず、冷たく続けた。
「最初の質問に、まだ答えていないわ」
これ以上、無駄話に付き合う気はない。
答えろ――その意思だけが、静かに、しかし確実に伝わっていた。
「決まっているじゃないか」
藍は、さも当然のことのように言った。
「TIMMAは、ずっと邪魔だったんでね。ちょうどいいチャンスだったから、ぶっ壊しに来たんだよ」
言葉は軽い。
「ヴォルクハルトは今、ここにはいないだろう?」
藍は視線を泳がせることなく続ける。
「私が残したアルカナ・リミナの奪還に向かったはずさ。おかげでね、四大悪魔のうち三人を、そっちに向かわせる羽目になっちゃって」
困ったように肩をすくめるが、そこに本気で残念がっている様子はない。
「それに……君がコルソンをやっちゃったから」
くすりと笑う。
「もうネザーヴェイルは、ボロボロだ。組織としては、ほぼ壊滅だろうね」
そう言い放つ声は、あまりにもあっけらかんとしていた。
人の死も、組織の崩壊も、ただの結果に過ぎないと言わんばかりに。
結乃は、言葉を失ったまま、ただ男を見据えていた。
「そこまでして……TIMMAを破壊して……いったい、どうしようって――」
結乃が言いかけた、その言葉を藍は遮った。
「この前も言っただろ?」
声音は軽いが、目は笑っていない。
「魔法を取り戻す。理の樹を破壊する。そのために、君の《黒涙》が必要なんだ」
一歩、距離が詰まる。
「今日こそ、渡してもらおうか」
藍は肩をすくめ、わずかに溜息をついた。
「ここまでヴォルクハルトを怒らせちゃうとね、もう引き返せなくてさ。悪いけど――今日は、強引にいかせてもらう」
そう言って、藍は構えた。
空気が、はっきりと変わる。
リネア使いとの、初めての真剣勝負。
これまで対峙したことは何度もあった。だが、どれも小手調べか、互いに本気を出さない形ばかりだった。
――今回は、違う。
藍の視線に、迷いはない。
殺意が、はっきりとそこにある。
本気で、本気で、結乃を殺しに来ている。
そう理解した瞬間、結乃の背筋を、冷たい緊張が貫いた。
逃げ場はない。
ここが、決着の場だ。
「……結乃」
ふいに、エウラの声が届いた。
張り詰めていた空気の中で、その呼びかけだけが、やけに近く感じられる。
「大丈夫よ。私がいるから」
そう言って、エウラは結乃の方を見て、柔らかく微笑んだ。
「あなたと私が組めば、藍も怖くない。そうでしょう?」
その笑顔を見た瞬間、結乃の胸を締めつけていた緊張が、すっとほどけていく。
恐怖よりも先に、闘志が湧き上がった。
「……ええ!」
結乃は力強く頷く。
「私の背中は任せるわ、エウラ! 一緒に、あいつをとっちめてやりましょう!」
その言葉に応えるように、空気が震えた。
「元・宮廷術理士。筆頭術理士第一位――」
藍が名乗りを上げる。
「【月】のリネア使い、藍・明華、参る」
宣言と同時に、世界が戦場へと塗り替えられる。
リネア使いと魔法使い。
二つの理が激突する、その瞬間。
――戦いの火蓋が、切って落とされた。




