――第17話 希望と絶望――
祈の視界が、ゆっくりと色を取り戻していく。
白く滲んでいた世界に輪郭が戻り、揺れる光の向こうに、人影が浮かび上がった。
焦点が合った瞬間、そこに立っていたのは悠斗だった。
その顔は、ひどく歪んでいた。
安堵と喜びが入り混じり、必死に笑おうとしているのに、今にも泣き出しそうで、まるでどちらが救われた側なのかわからない表情だった。
「祈……!」
声が震える。
「よかった……本当に……助かって……」
言葉の端が途切れ、悠斗の目に溜まった涙が、今にもこぼれ落ちそうになる。
その必死な姿を見た瞬間、祈の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
生きている。
その事実が、こんなにも重く、あたたかい。
視界が再び滲む。
悠斗の涙につられるように、祈の目にも熱いものが込み上げてきた。
声を出せば、きっと崩れてしまう。
だから祈は、ただ小さく息を吸い、
震える唇で悠斗の姿を見つめ続けていた。
「真神様……私は、生きているのでしょうか……」
掠れた声だった。
喉の使い方を忘れてしまったかのように、祈の言葉は途切れ途切れにこぼれ落ちる。その問いに、悠斗は一瞬だけ目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「ああ、もちろんだよ。祈は生きている。今も、これからもね」
断言するような声音だった。その言葉を聞いた途端、祈の胸の奥に溜まっていた緊張が、ふっと緩む。
「……そう、ですか……」
安心したのか、力が抜けたように小さく息を吐いた直後、祈は無意識に身を起こそうとして、思わず声を漏らした。
「うっ……」
身体が言うことをきかない。重く、鈍く、自分のものではないようだった。
その瞬間、背中と肩に、そっと手が添えられる。
「まだ無茶はだめだ」
悠斗は祈を抱き起こすように支え、体重を預けさせる。その腕は思ったよりもあたたかく、確かだった。
「外傷は……たぶんない。でも、相当なエネルギーを使ったはずだ。今は休もう」
胸に伝わる悠斗の呼吸を感じながら、祈はゆっくりと瞬きをする。
生きている。その言葉の意味を、ようやく身体が理解し始めていた。
祈は、そっと自分の背中に意識を向けた。
恐る恐る身体をひねり、手を伸ばして確かめる。
――痛みは、ない。
裂けるような感覚も、焼けつくような残滓も残っていなかった。
だが、背中の服は完全に消し飛んでいた。
布の感触はどこにもなく、素肌が冷たい空気にさらされている。その有り様が、先ほどまでの戦いの激しさを雄弁に物語っていた。
わずかな恥じらいが胸をかすめる。けれど、そんな感情に構っている余裕はなかった。
頭の奥に、白い世界が蘇る。
音も、温度も、境界すら存在しない空間。
夢だったのか、それとも――。
「……真神様」
祈は視線を上げ、縋るように悠斗を見た。
「結乃様が……心配なのです。結乃様が……」
言葉の先が、喉で詰まる。
泣き出す寸前の顔で、祈は必死に感情を抑えていた。
悠斗はすぐに異変を察し、表情を引き締める。
「結乃が、どうかしたのか?」
祈は答える代わりに、ふるふると小さく首を振った。身体ごと震えている。
「……わかりません。ですが……」
声が、わずかに掠れる。
「とても、いやな予感がするのです。胸の奥が、ざわついて……。すぐに行かないと……」
その不安は、理屈ではなかった。
けれど祈は知っている。
この感覚は、決して外れることがないということを。
「……そうか。わかった。すぐに向かおう」
悠斗は迷いなく言い、祈の様子を確かめるように視線を落とす。
「立てるかい?」
「……はい。なんとか、行けそうです」
祈は短く答え、ゆっくりと足に力を込めた。膝がわずかに震えるが、立ち上がることはできる。
その瞬間、悠斗が肩を差し出す。
「無理はするな」
祈は小さく頷き、その肩に体重を預けた。
一歩、また一歩。
息を整えながら、二人は階段へと向かう。
エレベーターは使えない。
だからこそ、選択肢はひとつだった。
互いに支え合いながら、
二人は結乃のもとを目指し、
十五階への階段を上り始めた。
※※※※※
――十五階に、足を踏み入れた瞬間。
二人は、言葉を失った。
そこにあるはずの光景が、なかった。
いや、正確には――ほとんど何も残っていなかった。
フロアの半分以上が、まるごと消失している。
壁も、天井も、床すらも途中で断ち切られ、建物の内部が無惨に抉り取られていた。鉄骨がむき出しになり、無数の断面が黒く焦げ、ねじ曲がったまま空中に突き出している。
そして、何より異様だったのは――屋根が、ないことだった。
本来なら、その上にはさらに十五層もの階層が積み重なっているはずだった。
TIMMA本部ビルは、確かに三十階建てだった。
それなのに。
十五階より上が、まるごと消し飛んでいる。
破壊された、という表現では足りない。
“存在していた痕跡ごと、削り取られた”――そう言うほうが近かった。
視線を上げると、そこには夜空が広がっていた。
雲ひとつない、澄み切った星空。
無数の星々が規則正しく配置され、まるで精巧に作られたプラネタリウムのように、静かにきらめいている。
あまりにも、きれいだった。
だからこそ、その光景は残酷だった。
本来なら天井に遮られているはずの夜空が、ビルの内部にそのまま流れ込んでいる。
瓦礫と断面の向こうで、星々は何事もなかったかのように瞬いていた。
この場所で、どれほどの力が振るわれたのか。
どれほどの理が、ねじ曲げられたのか。
祈は、思わず息を詰める。
美しいはずの星空が、今はただ不気味で、冷たく感じられた。
まるで――
この惨状を、上から静かに見下ろしているかのように。
悠斗もまた、無言のまま立ち尽くしていた。
崩壊したフロアと、開け放たれた夜空。その対比が、現実感を容赦なく削ぎ落としていく。
ここで、何かが起きた。
取り返しのつかない、何かが。
その確信だけが、重く胸に沈んでいた。
エウラと結乃の姿は、どこにもなかった。
悠斗は視線を巡らせ、崩れた床の端から端までを確認する。瓦礫の影、折れ曲がった鉄骨の向こう、吹きさらしの空間――しかし、二人の気配は見当たらない。
「……いない」
胸の奥に、嫌な空白が広がる。
「真神様……これは、いったい……」
祈の声は、震えを隠しきれていなかった。
悠斗は視線を戻さぬまま、小さく首を振る。
「わからない……。ここで、なにがあったんだろう」
ビルを半分、まるごと消し飛ばすような出来事。
常識では考えられない。いや、術理を知っている悠斗でさえ、これは想定の外だった。これほど広範囲を、しかも一瞬で消し去る力。
脳裏に、最後に見た男の姿が浮かぶ。
大鎌を携えた、あの異様な存在。
だが、あの男に――ここまでのことができるとは思えなかった。
では、他に何がある。
何が、この場所を、ここまで壊したというのか。
思考が渦を巻いた、そのとき。
――がらっ。
背後で、鈍い音が響いた。
崩れた瓦礫が、さらに崩れ落ちる音。空気が震え、微かな粉塵が舞い上がる。
――敵か。
悠斗は即座に振り返り、祈を庇うように一歩前に出た。
そこには、エウラがいた。
そして、その傍らに横たえられた結乃の姿がある。
「……結乃」
胸の奥が、ふっと緩む。
よかった。ここにいる。生きている。
そう思い、安堵しかけた、その瞬間だった。
エウラの表情を見て、悠斗は眉を顰める。
喜びも、安堵もない。ただ、沈んだ静けさだけがあった。
「エウラ……?」
呼びかけに気づき、エウラはゆっくりと顔を上げる。
「悠斗……祈……無事だったのね……よかったわ」
その声は優しい。だが、どこか覚悟を含んでいた。
悠斗の視線は、再び結乃へ向かう。
「……エウラ。結乃は……寝ているのか……?」
恐る恐る絞り出した言葉だった。
聞きたくない。
聞いてしまえば、すべてが変わってしまう。
それでも、聞かなければならない。
エウラは一度、深く息を吸う。
「悠斗……それと、祈……」
祈の肩が、わずかに震える。
「落ち着いて、聞いてね……」
短い沈黙。
「結乃は……」
言葉が、胸を締めつける。
「……目を、覚まさないわ」
世界が、音を失った。
「アーサーに……持っていかれたのよ」
その一言が、ゆっくりと、逃げ場なく突き刺さった。




