――第16話 白い世界での別れ――
これは、夢なのだろうか。
それとも――これが、死後の世界なのだろうか。
祈は、真っ白な空間にいた。
白、としか言いようのない場所。色がないのではない。最初から、色という概念そのものが存在していないような、そんな白さだった。
ここは、どこ?
問いかけても、答えは返らない。
下も、上もない。
右も、左も分からない。
立っているのか、浮いているのか、それすら曖昧で、身体の重さという感覚が、どこかへ置き去りにされていた。ただ、意識だけが、ぽつんと宙に浮かんでいる。
音もない。
風もない。
時間が流れているのかどうかさえ、分からない。
そんな不思議な空間の中に、一人。
それだけで、胸の奥が、じわじわと心細さに侵されていく。
……私は、死んだのだろうか。
その考えは、唐突に浮かび、驚くほど静かに受け入れられた。恐怖はない。ただ、現実を確認するような、淡々とした感覚だった。あの痛みも、熱も、息苦しさも、すべて遠くに置き去りにされている。
真神様は、大丈夫なのだろうか。
結乃様は。
エウラちゃんは。
思考は、自然と、残してきた人たちへ向かっていく。ここにいる自分の安否よりも、あちらの世界にいる人たちのことが、気になって仕方がない。あの地下駐車場での光景が、途切れ途切れに脳裏をよぎる。
私は――約束を、守れなかった。
旦那様と奥様に託された、あの言葉。
結乃様のことを、守ってほしい。
あれは命令ではなく、願いだった。
その願いに応えるために、ここまで生きてきた。
仕えることも、戦うことも、傷つくことも、すべてそのためだった。それなのに、結果はどうだろう。自分は倒れ、結乃様の未来を、最後まで見届けることすらできなかった。
もう、守ることはできない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
後悔が、遅れて押し寄せてくる。
すみませんでした。
その言葉だけが、何度も心の中で繰り返された。
もし、旦那様にお会いできたなら。
その時は、ちゃんと、頭を下げて、そう言おう。約束を果たせなかったことを、謝ろう。それ以外に、言える言葉はない。
そう思った、その瞬間――。
白一色だった世界に、
わずかな“違和感”が、生まれた。
空間のどこかが、歪んだ気がした。
音のないはずの場所に、かすかな気配が、混じった。
まるで、
誰かが、こちらへ歩いてきているかのように。
祈は、息をする必要のないはずの場所で、思わず息を呑んだ。
その気配から、目を逸らすことができない。
そして、白の向こう側から――
何かが、こちらへ近づいてきていた。
祈。
その名を呼ぶ声が、確かに聞こえた。
それは、間違えようのない声だった。
祈が守りたいと、あの笑顔を守りたいと、何度も何度も心の中で誓ってきた相手の声。
「……っ」
息を呑み、祈は思わず振り返った。
「結乃様……!」
白い空間の中に、彼女は立っていた。
いつもと変わらない姿で、いつもと変わらない柔らかな表情で。
「祈、会いに来たわよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられ、祈は泣きそうになった。
まさか。
まさか――結乃様も、ここへ来てしまったのだろうか。
私は、死んでしまっただけではなかった。
守ると誓った人を、守れなかった。
その現実が、遅れて心に突き刺さる。
結乃様を守れなかった。
その自責の念で、胸がいっぱいになる。
「結乃様……私は……」
そう言おうとした、その瞬間。
「いいのよ、祈」
結乃は、遮るように、けれどとても優しい声で言った。
「覚えている? あなたと私が出会った頃の話」
その問いかけに、祈は小さく頷く。
「あなた、人形みたいだったわ。感情がなくて、正直、ちょっと怖かった」
「……覚えています」
祈は、少しだけ微笑んだ。
「結乃様は、毎日のように私を外へ遊びに連れて行こうとして……そのたびに、旦那様に怒られておいででした」
「う……それは……謝るわ」
結乃は、気まずそうに視線を逸らす。
「でもね」
すぐに、真っ直ぐ祈を見つめて、続けた。
「今でも、同じよ」
「……え?」
「今でも私は、あなたを“外”へ連れ出したいと思ってる」
祈は、言葉を失った。
「術理士だからって、女の子の幸せを奪うつもりなんて、私にはないわ」
結乃は、少しだけ寂しそうに笑う。
「お父さんもお母さんも、いなくなった今だからこそ……もう、あなたは自由でいいんじゃないかしら」
白い空間に、その言葉が静かに染み込んでいく。
「……そう、かもしれませんね」
祈は、ゆっくりと答えた。
「もう叶わない願いかもしれませんが……もし生まれ変わったら、神様に頼んで、そういう幸せを願うことにいたします」
それを聞いた結乃は、少し目を見開き、そして呆れたように息を吐いた。
「……なに言ってるのよ、祈」
その声は、叱るようでいて、どこまでも温かかった。
「……久我家は、もうないわ。あなたはもう自由なの。分かる?」
その言葉に、祈は小さく首を振った。
「でも……私は死んでしまって、もう生を願うことなんてできません」
「馬鹿ね」
結乃は、呆れたように、けれど優しく言った。
「あなたのそばには、誰がいるの?」
問いかけるように、しかし答えは最初から決まっている声で続ける。
「先生よ。今まで何度も奇跡を起こしてきた人。私の世界で一番大好きな人。世界で一番大切な人」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「その人が、今あなたを救おうと必死になっているのよ。あなたには未来があるの。無限の未来が」
「……結乃様?」
その瞬間、祈は違和感に気づいた。
まるで――まるで、結乃が祈に遺言を残そうとしているような、そんな気配。
あの日の旦那様のように。
あの日、このスティレットを託された日のように。
胸の奥に、嫌な予感が、静かに広がっていった。
「祈、先生のこと、頼むわ」
結乃は、少し困ったように笑いながら言った。
「私はもう、先生のそばにいられないから。私の代わりに、先生を幸せにしてあげて。私の代わりに、先生を愛してあげて」
祈は、言葉を失ったまま、ただ首を振ることしかできない。
「他の女はいや。それは絶対よ」
冗談めかした口調なのに、その瞳は真剣だった。
「あなたなら許せるの。先生を任せられる。エウラに負けないで、水野に負けないで……どこの誰かも分からない女に負けないで」
一つひとつの言葉が、胸に深く沈んでいく。
「それが、私からあなたへの最後のお願い」
結乃は、そっと祈の肩に触れるような仕草をして、続けた。
「――それと、祈。幸せにね」
その声は、別れを告げるには、あまりにも優しかった。
「いや……結乃様、いやです……」
声が震え、言葉にならないまま零れ落ちる。
「そんな……今生の別れみたいな言い方、しないでください。どういうことなんですか……?」
祈は、涙を堪えることができなかった。
止めようとしても、溢れてくる。視界が滲み、結乃の姿が揺れる。
いやだ。
結乃様とは、姉妹のように過ごしてきた。いつも前を歩いて、手を引いてくれた人。祈にとっては、姉であり、妹でもある、不思議な存在だった。その結乃様が、今、遠くへ行こうとしている。それも、二度と届かないほど、はるか遠くへ。
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
拒むように首を振っても、結乃はただ、穏やかに微笑んだ。
「じゃあね。愛しているわ、祈」
その言葉を最後に、
祈の視界は、真っ白に染まった。




