タイトル未定2025/07/04 10:07
子供の頃、水たまりに映る空を、もう一つの世界だと思ったことはないか?
その夏、記録的な豪雨が、僕の住む町を何日も洗い流した。
雨がようやく上がった日の午後、僕は、長靴を履いて、外へ飛び出した。世界は、生まれ変わったように、きらきらと輝いていた。アスファルトの匂い、湿った土の匂い。そして、あちこちにできた水たまりが、鏡のように、雨上がりの真っ青な空を映している。
僕は、水たまりを渡り歩くのが好きだった。一つ一つの水たまりに、それぞれの小さな「空」が閉じ込められているようで、わくわくした。
住宅地の外れ、造成中の空き地の真ん中に、ひときわ大きな水たまりができていた。直径は、三メートルほど。不思議なほど、その水は澄み切っていた。そして、水面に映る空の色が、本物の空よりも、なぜか、ずっと濃くて、深く見えた。
僕は、その水たまりの縁に、うつ伏せになった。まるで、巨大な青い瞳に、吸い込まれそうだ。
水面に映る白い雲が、ゆっくりと流れていく。だが、ふと、空を見上げると、実際の雲の形や、流れる速さが、微妙に違うことに気づいた。
好奇心に駆られて、僕は、水たまりの「空」に浮かぶ、綿菓子のような雲に、そっと、指を伸ばした。
指先が、冷たい水面に触れる。そう、思った。
だが、指先に、水の感触はなかった。何の抵抗もなく、僕の指は、するりと、水たまりの中へと沈んでいく。そこにあるはずの水面が、まるで存在しないかのように。
「……え?」
パニックになって、僕は、勢いよく腕を引き抜いた。
腕は、濡れていなかった。その代わり、指先から肘にかけて、銀色の、きめ細かい砂のようなものが、びっしりと付着していた。太陽の光を浴びて、それは、まるで星屑のように、きらきらと輝いている。そして、嗅いだことのない、オゾンのような、乾いた匂いがした。
恐怖よりも、好奇心が勝った。
僕は、もう一度、水たまりに腕を入れた。今度は、もっと深く。肩まで、沈めてみる。腕の先には、冷たい、真空のような、不思議な感触だけがあった。まるで、宇宙空間に、直接、腕を突っ込んでいるかのようだ。
これは、水たまりじゃない。どこか、別の世界への「窓」なんだ。
僕は、ごくり、と喉を鳴らし、今度は、水面に、自分の顔を、ギリギリまで近づけてみた。この窓の向こう側を、この目で、見てみたかったのだ。
水面に映る僕の顔。その向こうに広がる、深い、深い、青色の宇宙。無数の星々が、銀河が、渦を巻いている。
なんて、綺麗なんだ。
僕が、その光景に見とれていた、その時だった。
その「宇宙」が、ゆっくりと、まばたきをした。
僕が、星だと思っていた、無数の光。銀河だと思っていた、渦巻く星雲。そのすべてが、一つの、巨大な、巨大な「瞳」の中に映る、虹彩の模様に過ぎなかったのだ。
僕が、ずっと宇宙だと思っていたものは、誰かの、巨大な「目」だった。
その瞳が、僕の存在に気づき、焦点が、ぴたり、と合った。
そして、脳内に、直接、声が響いた。それは、男でも、女でもない。星々が、その一生をかけて震えるような、途方もなく、古く、そして、寂しげな声だった。
『……ああ。やっと、見つけた』
『僕の、涙の中に映り込んだ、小さな、小さな、世界の住人』
『ずっと、一人で、寂しかったんだ』
僕は、理解した。
僕のいる、この世界。僕が見上げていた、この空。僕が信じていた、この宇宙。その全てが、この巨大な「誰か」が、ただ一粒だけ、こぼした「涙」の中に、映り込んでいただけのかげろうだったのだ。
そして、その涙の主は、今、僕に、気づいてしまった。
水たまりの水面が、静かに、内側へと、歪み始めた。僕を、涙の奥深くへと、招き入れるかのように。
人間の存在なんて、宇宙から見たら、水たまりに映る風景みたいなもんなのかもしれねえな。