転生令嬢は、学園乙女ゲームの舞台を去りたい
しかし実際にマリエルが礼儀作法や貴族のマナーを教えてみると、リラは意外に真面目な生徒になった。
或いはこれも、物語の強制力というものがあったのだろうか。
「今までも、マナーの教育は受けておられましたよね」
「そうなんですけど……何と言うか、言われたことを理解したつもりでも、その場になると全く思い出せなくて。後から『こうすれば良かった』、とか思うんですが」
素朴な疑問を投げたフローラに、リラは情けない顔で応じる。
これまで全く付き合いのない彼女と、いわば派閥のトップでもあるマリエルが二人きりというのは、使用人がいても些か聞こえが悪い。フローラとスザンナはこういう際にも有り難い存在だ。彼女たちも、実際にリラと言葉を交わしてからはこれまでの振る舞いに疑問を覚えたらしい。概ね男爵夫人の偏った認識に基づく教育のせいと、納得するのも早かったが。
リラはサンダンス男爵家に於いて、『優しい虐待』状態だったように思える。ちやほや甘やかし、最低限の食事マナー程度だけ教えて、後はかなり恣意的な意見を吹き込まれていた。
曰く、地位とお金のある男性に嫁ぐのが貴族令嬢の使命で、そのためには既にいる婚約者など追い落とせだの、可愛らしく愛されていれば十分だの、偏っているというか男爵夫人の願望では、と思えるくらい現実の貴族社会に即していない。
その一方父親の男爵はあまりリラを構わなかったらしいし、異母兄たちも彼女の教育に口を挟むことはなかったようだ。
さすがにマリエルたちも若干同情の念を抱いた。何も知らずそれどころか間違った考えを植え付けられたリラでは、学園で浮くのも当たり前だ。
「リラさんは、男爵家に入ってどれくらいになりますの?」
スザンナの問いにきょとんと小首を傾げる様子は、ひどく幼い子どものようだ。
「えぇっと……一昨年の冬、だったと。あの、お母さんが死んじゃったので」
これはダメだろう、というのがその際のマリエルたちの総意だ。
一昨年の冬、ではリラが去年の春学園に入学する直前にあたる。そこからではまともなマナーを身につけるにも時間が足りなかっただろうし、無理があり過ぎる。
「……リラさんの、実のお母様はどんな方でしたの?」
「……お母さん、ですか……あの、そんなすごい美人だった訳じゃないです。ただあの、魔力がちょっと高くて」
「……」
あまり普段は意識しないが、この世界には魔力がある。マリエルも転生を認識してからはかなり鍛えたので、令嬢としてはそれなりに使える能力になっていた。だがリラは、そう思って観察すれば潜在的な魔力は相当強い。それこそ鍛えたマリエルを凌駕するレベルだ。
通常、貴族社会で魔力やそれを行使する魔法はそれほど重視されない。ただ令嬢が高い魔力を有すれば、その子どもにも受け継がれるだろうと見込まれるので、好意的に見られる。
リチャード王子がリラをその面で評価したかどうかは知らないが。
『ゲーム』では、リラの生まれ持った魔力が攻略対象キャラを癒し、その迷いを晴らす、といった描写もあったが。ゲームのパラメータにもそれほど評価はなかった。
だがこれから、卒業後にリチャードと婚姻して地方にいくとなれば、その魔力は使い道もでてくるかもしれない。魔力はこの世界では純粋なエネルギーでもあり、要は社会インフラに還元可能なのだ。特に地方は国内のどこもインフラ整備が追いついていない、そこへ強大な魔力持ちの彼女が加われば、発展が見込める。
その意味では、フォスティーヌでは不足があった。貴族はそこそこの魔力を有するが、辺境で『使える』レベルには達しないことが多い。マリエルだって、幼い頃からの鍛錬で半ば強引に魔力を増やした経緯がある。
そしてリラは、大して鍛錬などしていなくても潤沢な魔力を持っている。使い方もわかっていないので、些か宝の持ち腐れ感はあるが。それでも、周囲が使い方をわかっていれば活用の仕方もある。
「だったらリラさん、王都にいる間に魔力の使い方を学ぶのはどうかしら。せっかくお母様から受け継いだのなら、生かさないのはもったいないわ」
学園には、そうした魔力を扱いかねる学生にもその方法を教授する講座がある。人によって千差万別だけに、あまり大っぴらにはされていないのだが、必須講義でもあるので。昔は、大きすぎる魔力を扱いかねて周囲に被害を及ぼす者もいたというから、その対策だったのだ。もっとも近年そこまでの魔力持ちは少ない。
逆に言えば、その状況で魔力の指導をしようというような人物は些か奇矯な……いってみれば『変人』ではある。
「やあ、リラ」
「あれっ、アールくん?」
攻略対象の一人、魔術師のアールは魔力研究の第一人者を師と仰いでいる。年齢より下に見える可愛い少年だ。ただしそこそこ性格は悪い。
「久しぶりだね、殿下は元気?」
「うん、今はあんまり会えないけど」
にこにこ交わす会話は和やかだ。『ゲーム』では腹黒ショタ、とあだ名されていたアールはしかしこうして見るとごく普通の学生だ。ちょっとばかり容姿が整っていて些か不遜ではあるが。だがそれも、この世界の魔術師は変人が多く能力があれば多少の無礼は黙認される、という認識で上書きされてしまう程度。
攻略対象としては、それなりに好感度は高かったのかもしれない。リラとの会話は楽しそうで、機嫌も良さそうだ。
「それでリラ、魔法の勉強したいんだって?」
「そうなの、魔法使えると辺境で便利じゃないかって」
「あー、うん。それはあるかもね」
リラに応じながら、アールはちらりとマリエルおよび彼女の友人に目線を投げる。それにマリエルは微笑んだ。
「辺境では、魔力があるだけでも助かる局面がありますから。王都のように施設が完備されている訳ではありませんもの」
王都では、貴族の場合個々の屋敷には照明や水道が備えられているのが普通だが。地方では、まだ一から整備しているのが現状だ。その整備に、魔力を動力源とする魔道具が使われる。そのため、王都やにぎやかな都会では芽が出ない貴族の子弟が、一旗あげるために地方に出ることも稀にある話だ。魔力を提供するだけで、そこそこの報酬が得られるし場合によっては文官や騎士として雇われることもある。地方の領主にしても、動力源になる人材がくれば有り難い。その辺りはWin-Winの関係なのだが、王都に拠点のある貴族が、自分の家の領地でもない地方にいくのはなかなか体裁が悪い。
「うーん、それはわかるけど……ねえ、リチャード殿下の領地ってどの辺りになるの?」
「え?領地、ですか?」
急な問いにマリエルは目を瞬いた。視線を向ければリラもきょとんとしている。
仮にも王族であるリチャードが臣籍に降って新しい領地を与えられる、というのは国内政治にとってもそれなりの大ごとだ。故にその与えられる領地の位置も取り沙汰されてはいるが、まだ正式な発表はない。
ただある程度推測はできる。おそらくはリラの故郷に一番近い王領の可能性が高い。周囲もそういう認識で準備を進めていた。
おそらくアールも分かって聞いているのではないか、と思うのだが、未確定な情報を流すわけにもいかない。
「直接は伺っていませんわ。リラさんはお話聞いてらっしゃいます?」
「よく知らないですー、心配しなくていい、とは言ってました」
「心配、というか……じゃあまあ殿下に聞いてみるか」
リチャードが自分の判断で告げる分には、何の問題もないだろう。そう思っていたのだが。
「ちょっと状況が変わった」
数日後、辺境伯家のタウンハウスにリラとアールを従えて訪ねてきたリチャードは、険しい表情だった。
「まあ、いかがなさいました?」
驚いて問うマリエルにリチャードは渋い顔で一言告げる。
「サンダンス男爵が、亡くなった」
「えっ……」
サンダンス男爵、ということはリラの父親だろう。
詳しく話を聞いてみると、彼は娘の結婚に当たって王都にくる予定になっていた。しかしなかなかその連絡がなく、サンダンス家としてはリラの次兄がたまに顔を出す程度で、彼も父親の現況は把握していなかった。男爵家は兄が継ぐので、自分は父が興した商会を盛り立てていくつもりだ、とも主張していた。
が、その次兄が昨日リチャードを訪ねてきて男爵の死を伝えたという。海路で帰国する途上で、誤って船から落ちて見つからなかったのだと。長兄は父親と同行していた母親が、錯乱しているのに付き添っているらしい。彼はあちこち商会で出歩きがちな父の代わりに、ずっと領地を守っていたのだが。
「それは……お悔やみ申し上げますわ、急なことでしたわね」
とりあえずタウンハウスの応接室に通した彼らから、一通りの話を聞いたマリエルも溜息を吐いた。
学園を舞台とする『ゲーム』でも、主人公の家族についての描写はほぼなかった。本筋とは違うので無理はないが、現実に目の当たりにすると違和感がある。リラ本人はあまり意識していなかったようだが、サンダンス男爵家で彼女は明らかに一線を引かれていた。要はさっさと学園で相手を見つけて嫁に行け、という扱いだったのだろう。
そのこと自体は家庭には事情のあることだし、責められる話ではないが、リラ自身がそのことを全くわかっていなかったのはどうかと思う。
ただそのリラが想定以上の大物を釣り上げてきた。おそらくそれに恐れをなしたのだろう、実際に男爵がどのような状況で死んだかはわからないし、さすがに夫人や息子が殺したとまでは思わないが、これを好機として彼女を放り出すことにしたわけだ。
「しかし、それで爵位も領地も返上して国を出る、とは思わなかった」
リチャードは溜息交じりに告げる。
そう申し出てきた、というのが胡散臭いというかちょっと尋常ではない。サンダンス男爵家の領地はほんの僅かで、国内でも最小の部類だが、それでも一応はちゃんと叙爵された領地なのだ。税収もろくにないとはいえ、贅沢をしなければそこそこやっていける。
元々サンダンス男爵は、その領地運営も真面目ではなく必要最小限でむしろ商会の経営に熱心だった。夫人もその関係で商人の娘を娶ったくらい。その父親を見ていた息子たちも、貴族であることに重きを見いだせなかったのかもしれない。
「それで、どうなさいますの?」
「……サンダンス領をまるごと、今度新しく拝領する領地に組み込むことになるだろうな。規模的にはそれほど変わるわけではないが」
領地の運営に気遣う必要がなくなるとはいえ、形ばかりでも貴族家の実家がない、というのはリラにとっては不利だ。本人は今一つ状況がわかっていないようで、でも置き去りにされたことはなんとなくわかっていてしょげている。
「……私は、どうすればいいんでしょうか……」
「リラさんにできることは特にないわね……」
その当人には悪いけれど。そもそもサンダンス男爵家では、もともと後ろ盾としても弱すぎてあまり意味はない。それと承知で彼女を望んだのはリチャードだし、この事態になってしまえばなおさらできることはない。
一言で言えば『逃げられた』わけだが、爵位も領地も投げ出して逃げた男爵家の人間が、なぜそんな行いをしたのかはわからない。マリエルはもちろん、リチャードもリラさえ理由は聞かされていなかったが、リラはともかくとして他の者は何かしら問題があったので逃げた可能性が高いと考えている。それも、王家との婚姻でばれるとまずいような、相当にヤバい事態だ。国外との交易もあったことから、密輸とかその辺りの自国内に収まらない犯罪の可能性が高い。
実際、リチャードもそれを案じて魔法使いのアールを連れてきたのだろう。
「一度、サンダンス領にいってみるつもりなのだが……マリエル嬢、辺境伯領とは方角が違うのだったな」
「ええ。街道も直接は通じていませんし……つながりのある地域ではないです」
辺境、と一口に言っても国内でそう呼ばれる地域はそこそこ広くまた散らばっている。王都から離れたあまり拓けていない土地の俗称、といったところで正規に「辺境伯領」として名がついているのはマリエルの祖父が治める土地だけだ。それ以外は簡単に言えば土地のあだ名である。