第1回 はじめに〜低IQエリートの時代
いつの頃からだろうか。「IQなんか意味がない」「IQよりEQが大事」と声高に言われるようになったのは……。
最近の都市伝説では「IQはユダヤ人が高くなるように作られている」と主張する人たちも出てきた。
それを信じてる人には癪に触る話題かもしれないが、少しお付き合い願いたい。
著者が低IQエリートの問題に気づいたのは、現在、社会問題になっている『中高年の引きこもり』についてのレポートを知ったからだ。2023年の1月の話だ。
この調査をした人たちは、「知能の低い人たちが社会に適合できなくて引きこもる」「登校拒否やニートだった人たちが、引きこもりのまま高齢化した」という仮説を立てて問題の人たちを調べ始めたそうだ。ところが、実際の結果はまったく違っていた。
まず登校拒否やニートの経験はなく、30歳を過ぎてから引きこもるようになった人たちにIQが130以上もある人がゴロゴロと見つかった。しかもIQ138以上になると、顕著な数になることがわかった。その人たちは7〜8年以上の社会経験があり、20代の頃は優秀で30歳前後で昇進の始まった人が珍しくないという共通点もあった。
ところが彼らの共通点は、そこでは終わらない。平社員から管理職へ昇進、ないしは昇進試験に合格して出世レースに加わった直後から、左遷されたりリストラされたりして、職場から追い出されるところまでが共通だった。上司からのパワハラで精神を病んだ人も少なくない。そして再就職しても同じことが続き、やがて就職をあきらめて引きこもってしまう流れだ。
けっしてマスメディアの報道からイメージするような、仕事をしたくない怠惰な人たちではなかった。また「引きこもり」というと報道のイメージから新卒採用に失敗した20代が多いと思い込まされてる人が多いと思うが、もっとも多くなるのは職場から追い出された被害者の増える30代半ばからである。
どうしてIQの高い人たちが、中高年になると引きこもるのだろうか。
その原因を探してる時に、次の大きな時代の変化が見つかった。
・1930年代の帝大合格者の平均IQは133〜4だった
・超ゆとり世代の東大合格者の平均IQは120である
このうちIQの高い上澄みの人たちは学者や研究者、技術者となって研究や技術開発の道へ進むと思われるので、政治家や官僚、企業幹部となって社会を動かすトップエリート──特に文系エリートは、これよりも下の人たちになるだろう。それが戦前と現代では標準偏差一つ分も違っている。
だが、トップエリートの劣化は、すでに大正10年(1921年)には社会問題化していた。高級官僚たちが責任を取らなくなり、「公務員の無謬性──公務員は間違えない(間違いを認めない)」や「前例主義──公務員は自発的に新しいことをやらない」という悪習を始めた頃である。どんなに間違った政策や判断であっても、10年間は何があっても見直しをせずにやり続けるという慣習も始まった。十年一昔。10年経てば「時代が変わった」と言い訳が立つので、「間違ってた」とは認めずに済むという腐った考えだ。そういうルールが必要になるほど、高級官僚の劣化が目に見えてきたとともに、知力が落ちたことを認めたくない人たちも増えたのだろう。
しかし残念なことに、この頃はまだ知能指数という考え方が確立されてない。そのため当時のトップエリートのレベルを数字で窺い知ることはできない。あくまでトップエリートとして働く人の中から「俺の若い頃は」的なフィルターを排除しても、「公務員の無謬性」を言わないと仕事が進まなくなるほど明らかな劣化が起きていた様子が窺えるだけだ。
だが明治大正期のトップエリートのIQに関しては、ある程度の予測は可能だ。
明治時代は女性が正規の大学を受験しても合格できないので、女性専用の大学──いわゆる女子大がいくつも作られた時代だ。その頃の大学生は1学年に千数百人ほど。よく「当時の帝国大学は女人禁制だった」などと言われるが、それは戦後の左翼思想に汚染された自虐史観である。日本は昔から男女同格の国。受験も平等公平だった。
その証拠が大正2年(1913年)だ。帝国大学の定員が増やされたこの年、いきなり複数の大学で女性合格者が4人も出た。これこそが受験が男女平等に行われていた証左だと思う。
その時の人数比から考えると、大正2年における帝国大学合格者の平均IQは150ほどだろうか。
明治時代までは地域ごとに優秀な子供が見つかれば、土地の名士が育てるに値すると判断すれば出資する風潮があった。それゆえに親が裕福かどうかに関係なく、それまでの時代は知力相応の学習環境が与えられていた。そういう人たちが将来、故郷に錦を飾れるかどうかは本人の努力次第だ。
それに対して今はどうだろうか。
アメリカ型資本主義の影響で、優秀な子が見つかっても誰も出資しなくなった。その子に出資しても、それはその子の利益でしかないという考え方である。
その資本主義社会は自由競争を装いながらも、親の資産を元に緩やかに社会階層を固定化する傾向を持ち合わせている。
まず古い社会が戦争、革命、巨大災害などによって壊された直後は、新しい時代に生き残った人たちが才覚をぶつけ合って世の中を再構築していく。その中には権謀術数で成り上がる人もいるだろうが、最初の世代には裸一貫から一財産を築いた実力者が多く、数多くの伝説や偉人伝を残している。おそらく成功者にはIQの高い人も多かっただろう。その世代が築いた資産のおかげで子や孫は高い教育を受けられて、親に続いて2世、3世の社会エリートになる人も多く出てくる。
ところが初代は高IQでも遺伝子は世代ごとに平均に戻ろうとする傾向がある。そのため2代目はどうにか秀才レベルで親の地位を引き継げたとしても、3代目ともなればエリートとしてのメッキも剥がれるのが世の常だ。
だが、今の社会エリートの劣化ぶりは、このような世の中の自然な流れとは別に、GHQの仕掛けた愚民化政策による影響があるのも忘れてはならない。
アメリカは太平洋戦争で負けた日本人から力を奪うために、GHQによって数々の罠を仕掛けてくれた。
その中に「個人のために国費を使わせない」というルールを作った。これによって国や自治体が主催して、優秀な子に英才教育を施すことが禁じられた。そのため貧しい家に生まれた子は英才教育を受ける機会を奪われ、立身出世する道を閉ざされてしまった。
そして学校教育では「〜してはならない」等とネガティブな言葉で教えるように指導した。こういう教え方をすると、学習力の高い子ほど「この社会はそういうルール」と思い込まされてしまい、徐々にやる気を失ってドロップアウトする傾向がある。一種の呪縛だ。その結果として最後までドロップアウトせずに成績を伸ばすのは、自力では学習する能力のない子という皮肉な事態を招いている。
ちなみに、アメリカでは「〜しなさい」とポジティブな言葉で教えるのが教育のルールだそうだ。
そのアメリカでも資本主義の影響でエリート層のIQは低下してる。それでもエリート大生の平均IQは日本より少しだけ高いIQ124あたりだそうだ。
そして忘れてはならないのが大学受験と受験産業の変化だ。
日本では昭和35年(1960年)頃から受験予備校が偏差値という概念を取り入れて、大学を序列化するようになった。一般的にはこの頃から過激な受験競争が始まったと語られている。
ところが実際には「もはや戦後ではない」という言葉が出てきた昭和31年(1956年)頃には、学校教育と受験の質が変わり始めていたようだ。
それまでは受験でも校内試験でも、教科書や学習指導要領から逸脱した問題を出すことはほぼなかった。上位校は質の高い応用問題で、受験者の理解の深さを問うのが当たり前の時代だ。
それが教科書には載ってない知識を問う空中戦が始まってしまった。いわゆる初見殺しの発展問題というものだ。
もちろん数学や物理学であれば教科書だけで勉強をしていても、知能の高い人ならば初見で難問が解けることもある。だが、塾や予備校で受験テクニックや多くの問題の解き方を学んできた人と、初見で難問に挑んだ人では解答する時間に差が出てくる。
ましてや他の教科となると、教科書に載ってない知識をどれだけ仕入れてきたかの勝負だ。教科書に載ってる知識を100とすると、中学の校内テストで満点を取るには120ほどの事前知識が必要になる。進学校や大学受験となると160〜180の知識が必要になり、難関大学では280もの知識が出てくる問題が出され、220の知識を仕入れてないと合格できない時代と言われている。
そういう知識の一部は市販の問題集や志望校の過去問などで仕入れることはできるが、多くは学習塾や受験予備校で教えられるものである。親に経済力がないと、どんなに知能の高い子であっても通わせるのは難しいだろう。
それでいながら、一時期「IQ85の子を東大に合格させた」と喧伝する受験予備校が出たことがあった。これをもって「誰でも努力すれば」という戦後教育の成功例として語られることがある。
親の経済力と本人の努力があれば、IQ85でも東大に合格できたという事実。当人の努力は称賛に値するが、これは世の中にとって、本当に良いことだろうか。考える必要はある。
さて、そもそも論としてIQとは何だろうか。よく「頭の良さ」とする説明はあるが、その定義は漠然としすぎている。
世の中で「頭の良さ」を語る時、人によって何を目安にして言ってるかはバラバラだ。IQで語る人もいれば、学力で語る人もいる。何かを思いつく頭の柔軟さや発想の豊かさを言う人もいる。知識の広さや教養の深さや豊かさで言う人もいる。また物語ではよく、記憶力の高さや暗算の速さ、それと物知りぶりなどを「頭が良い」を示すエピソードとして使う傾向がある。どれも違う物差しであり、一緒くたに語られると話が混乱する。
IQで示される「頭の良さ」とは、洞察力、推理力、想像力、深く考える能力、傾向に気づく能力、疑問を感じる能力など高さである。
このIQは親からの遺伝の影響が大きいため、努力で何とかできるものではない。記憶力もある程度以上は遺伝の影響もあるだろう。
それに対して学力や暗算の速さは、誰でも努力すれば高めることはできる。これとIQの間に大きな相関はない。あくまで学力はいかに速くたくさん憶え、そこから教えられた通りに物事を処理するという能力の高さだ。教わってないものは能力の対象外である。
とはいえ学習塾や予備校で受験テクニックを学んだ人の方が有利になるから、イヤでも学力は親の経済力と強い相関が出てくる。
だが、親の年収が高ければ学力が高いかというと、世の中は単純ではない。年収千数百万円のあたりでピークを迎え、それを超えると親の年収が増えるほど少しずつ学力を落としていく傾向がある。親に経済力がありすぎると、子供が甘えて努力しなくなるからだろうか。
それではIQの良し悪しで、知的活動にどのような違いが出てくるだろうか。
IQの高い人は洞察力や想像力を働かせて物事を広く捉えて後先のことまで考える。物事をいくつもの場合に分けて、深く考えることも可能だ。
IQが少し下がってくると、徐々に物事を場合分けして深く考えるのが不得手になっていく。中には知力を口達者に割り振って、思考をヒャクゼロで済ませる人も出てくる。
更に低い人たちは、物事を目先の損得でしか考えられなくなる。しかも後先を考えないから、行動が無責任でずる賢くなっていく。このあたりの人が上司になった場合、職場は無責任な指示に振りまわされて苦労するだろう。
そして、あるレベルよりも下の人たちとなると、目先の損得ですら自分では判断できない。学習や他人からの受け売りでしか考えられないからだ。知らない物事が出てきたら、説明されても理解できないので答えだけを求めてくる。ところがそんな人たちでも高学歴ともなれば、前例や上からの指示に従って黙々と我を出さず(出せず?)に働いてくれる優秀な歯車となる。学力があればIQの低さは必ずしも欠点とはならない。
それからIQには20ほど離れると「互いのコミュニケーションが難しくなる」という現象がある。IQの低い側の人が、相手の考えを理解も想像もできなくなるためだ。こういう場合、「高い方の人が下に合わせれば良い」という意見が出てくるが、それを言えてしまう人の思考はよほど浅墓だろう。
IQの高い側が目上の立場なら、それも可能だろう。だが、世の中にはその逆の方が多い。
IQの低い側が目上で自分の方が知力も知識もあると思ってると、あとは人間の防衛本能が働いて、自分が理解できないのは「相手の考えには裏があって、それを隠そうとしてウソを言ってるせい」という被害妄想が生まれるためだ。そこからIQの高い相手に対して「反抗的だ」「危険分子だ」「サイコパスだ」と決めつけて攻撃的になることも起こる。
IQ130以上の人──中でもIQ138以上の人が顕著に上司からのパワハラなどで職場から追い出されて引きこもるのも、現在のトップエリートになりやすいIQ120あたりと、IQが20ほど離れていることと無関係ではないだろう。
当然、これは子供の頃にも起こり得る。学校の先生が子供よりもIQが20以上低いと一方的に問題児と決めつけて邪険に扱い、学習意欲を奪っていく。教育の現場でそういう問題が起きてないという保証はない。
それと先ほど現在のトップエリートになりやすいIQを120と書いたが、それはあくまで平均だ。後ほど詳しく語るが、現在のトップエリートの6割が、IQ100未満である疑いがある。今はそういう時代である。
そこで最後に、最初に触れた「IQなんか意味がない」「IQよりEQが大事」「IQはユダヤ人が高くなるように作られてる」という言葉を思い出していただきたい。何か奇妙な違和感を覚えないだろうか。もしかしたら、この言葉のウラには、何らかの意図や思惑が隠されてないだろうか。
このシリーズでは、そのあたりのことを深く掘り下げていきたいと思う。