第1話 メゾン・ド・マッチョ
「部屋って苗字の人がいるそうですよ。広島とか和歌山の方に多いとか」
「へや、さんですか。へえー……初めて聞いた」
職業柄なのか、車を運転しながら、不動さんはそんな世間話を振ってきた。
助手席の俺は、軽く相槌を返す。
下の名前は何というのか知らないが、はきはきと笑顔で喋る不動さんは、二十代半ばと思われる綺麗な女性。
『不動不動産』という不動産屋の職員だ。一行で三回も不動って出てきちゃったよ。
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住んでいたアパートでボヤ騒ぎがあり、新しい住居を早急に探す必要に迫られた大学生の俺は、不動さんの案内で物件を見に行く途中なのだった。
今は平日の昼間だが、そこは時間が自由に使える大学生の特権。
必修じゃない講義なんて、サボッてナンボである。
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「でも、木芽って苗字も珍しいですよね」
「確かに、俺、家族や親戚以外で同姓に会ったことないッスね」
俺の名前は木芽兼照という。
カーナビ画面と前の景色を見比べていた不動さんが、顔を上げて、フロントガラスの向こうを指差した。
「あ、見えてきましたよ。石段の上に見えるでしょ、ほら。あそこ」
「うわ、神社みたいな長い石段ですね……あれを昇るって大変そうだなあ。見ているだけでめげそう」
「車なら裏手から行ける道があるんですけどね。人の足で入る時は、なるべく石段を使ってほしいそうです。オーナーがスポーツジムも経営されている方で、普段の暮らしの中にも運動を、ってコンセプトらしいので」
「そういえば、この資料だと六畳六間になってるんですけど? 六畳一間の間違いじゃないんですか?」
俺の質問に対して、不動さんはくすっと微笑む。
「間違いじゃないんです。合ってます。普段の暮らしの中にも運動を、がコンセプトなんですよ」
◆
やや小高い丘の上にある建物『メゾン・ド・マッチョ』の外観は、クリーム色の外壁の新築マンションといったところ。
見た感じ、学生向けの物件としては、かなり優良と言えるのでは。
多少、駅から離れているのが難点だが……。
不動さんが自動車を停めた駐車場の脇には、屋根付きの駐輪場があり、自転車が3台ほど停まっていた。
ん……? 自転車? よく見ると違うようだ。
自転車は下のアスファルトにがっちり固定され、電線や装置がついている。
「自転車にやたらとコードが伸びてるんですが、あれは……」
「電気当番の時、やらされるみたいですね。ここの建物の電力、蓄電池に人力発電で貯めてますから」
「電気当番? 人力発電? 普段は聞かないワードが出てきて困惑気味なんですけど俺」
「あ、オーナーがいらっしゃいましたよ」
『メゾン・ド・マッチョ』のオーナーは、筋骨隆々とした体躯で、タンクトップ一枚で自慢の筋肉を堂々と見せつける中年男性だった。
日焼けした黒光りする肌とは対称的に、やたらと歯が白い。
「見学のォッ! 学生さんだねェッ! どうぞごゆっくりィッ!」
オーナーの男性は、言葉を発するたびにいちいちボディビルのポージングを取り、奇声を上げるので、そばにいるとやかましい。
「……あの、よろしくお願いします」
「じっくりィィッ! 見ていってェッ! 決めてェッ! くださいッ! サイドチェストォォッ!」
「それでは木芽さん、行きましょうか」
気圧されながら軽く会釈する俺。
マイペースでポージングし続けるオーナーを横目に、不動さんはまるで何事もなかったかの如く進行する。
俺は不動さんに並んで、歩き始めた。
「あの、不動さん? 自転車置き場の脇でひとりでヘンな声あげながら、オーナーはまだポージングしてますけど、ほっといていいんですか」
「ふふっ、ああいう人なんですよ。私たちだけで先に行きましょう」
にこやかに「ああいう人なんですよ」の一言で片づけられてしまった。
さすがは不動さん、不動心だ。
でも、実際にここに俺が住むとなると、あのマッチョで暑苦しいオーナーと、大家と店子の関係になるわけだ。なんかイヤだな……。
「さあ、ここが入り口です。どうぞ。開けてください」
「ん? 自動ドア、壊れてるんですか」
「自動ドアじゃなくて手動ドアです」
「自動ドアっぽいけど普通のドア、ってことですよね」
「思いっきり、こじ開けてください」
不動さんに言われて、俺は手を掛けたが、ドアは動かない。