第三章 祝祭は狂宴の前に《2》
放牧された馬たちは見慣れない二頭の馬を一瞥し、尻尾をふわりと揺らす。
「良文様、奥方様、あとはこの私にお任せくだされ」
「ああ、頼む」
馬飼いの少年は日が暮れた牧舎から馬たちのために飼い葉を運びながら、客人に告げる。
「いい馬ですね」
少年は緑青と鶸桜を嬉しそうに見ている。心底馬がすきなのだろう。
「でしょう? 大切にしてくださいな」
「もちろんです。いってらっしゃいませ」
緑青と鶸桜を放牧場に預け、ふたりは目の前に佇む将門の館へ歩き出す。
空にはおおきなまるい月が、輝いている。
「……どうかしました?」
月あかりの下で見る千代織の姿は、いつもより神秘的で、良文ですらたじろぐことがある。今日も、さっきまで隣で何事もなかったかのように微笑みあっていたというのに。
良文は、ときどき不安になる。
「暗くて石に躓くかもしれないから、ほら」
千代織の手を握る。
石に躓いて転ぶ、なんて単純な言い訳でしかないけれど。
良文はときどき、不安になる。
目の前にいる自分の妻が、空ばかり見ていることを知っているから。いつか月へ帰るあの日の御伽噺のように、自分の前から忽然と消えてしまうのではないかと。
そんな冗談みたいなこと言わないでよ。
きっと千代織はそう一蹴するだろうけれど。
「ありがとう」
千代織はこくりと頷いて、良文の手を握り返す。ぬくもりが彼を安堵させる。
それでも良文はときどき不安になる。
目の前にいるはずなのに、夜空の下で見る彼女は、手を伸ばしても届くことのないはるか遠い存在のようで。
「……なぁに?」
きつくきつく指を絡ませる良文を、不審そうに見上げる千代織。
「痛かった?」
「ううん。そうじゃない……」
良文はときどき、不安そうな顔をする。
けれど、千代織は彼が何を憂えているのか、知っている。
だから千代織はつないだ手に、力を込め、名前を呼んで、そっと囁く。
「あたくしは、良文さまの傍に、ずっと」
ずぅっといましてよ?
だからそんな不安にならなくてもいいの。怖がらなくてもいいの。こどもに言い聞かせるように、千代織は優しい声で、彼を諭す。
「ああ。わかってるよ。でも」
それでも月の下で微笑む千代織は、宴が姿を顕現させたときに等しいくらい、美しい。
「もうすこし、こうしていたいんだ」
結局、良文は千代織が誰よりも愛しいから、そう考えてしまうのだろう。
「よろこんで」
つないだ手を、はなすことなく、ふたりは将門の館の前まで、ゆっくりと歩を進めていく。
* * *
来客の報せは、宴が夕餉の準備を終えたときだった。
「宴さま宴さま宴さまあー」
「はいはいどうしたの三回も名前連呼しなくてもあたしはここであなたたちのご飯の準備をしていますからね」
お産を終えたばかりの桔梗と彼女についている乳母に代わり、宴は館の使用人たちとともに厨で食事の準備を手伝っている。客人にそのようなことはさせられないと将頼は焦っていたが気にする必要はない。将門がいいと言ってくれたのだから。
人数分の懸盤の上に、甕で茹でたばかりの姫飯を碗に盛り付け、羹と一緒に並べているところで、将門の従僕、子春丸が宴を呼びに来たのだ。
「客人がいらせられましたー。お通ししてもようござんすよね?」
「あたしに? もう館には入られているんでしょう? ならばこっちから行くわよ。厨で客人迎えるわけにもいかないでしょうに」
釵子で額上にお団子をひとつ結い上げたような髪型で、町人のような小袖と小袴に湯巻を着た姿のまま、宴は厨のある雑舎を飛び出し、子春丸が客人を待たせているという殿舎へ向かう。
将門の本拠地にある本郷館は京にある一般的な寝殿造りを簡易化させたような感じがする。良文の館の方が京を模った貴族的な造りであるのに対し、こちらは使用人たちが過ごす雑舎と住居である殿舎を対の屋で結んだだけである。対の屋自体が渡殿の役割をしているようだ。
実際のところ、放牧や農耕が彼らの仕事なので、住居を華美にするという考えはないのだろう。宴も迷子になりそうな良文の館よりこの場所の方がすぐに馴染めたし、今では目を閉じていてもどこにいるか理解できる。
この時期にあたしに客人ってことは良文だろうなぁ……
ウキウキした足取りで殿舎へ行くと、想像したとおりのふたりがいた。
「宴、何その恰好」
「似合う?」
「垢抜けすぎ。どこの端女かと思ったわ」
千代織はみすぼらしい恰好の宴を見てげんなりしている。だが、良文はにこにこしている。
「千代織、そんなこと言わないの。お似合いですよ」
「ありがとうヨシフミ。そう言ってくれるのはあなたとマサカドだけよ」
ふたりの反応を面白がる宴は、思い出したように将門の姿を探す。
「あれ? マサカドには逢ったの?」
「とっくに」
どうやら先に将門と逢っていたようだ。彼はきっと産屋へ桔梗と娘の茉莉の様子を見にいったのだろう。良文たちと顔を合わせられるかどうか判断するために。
「おめでただったのね。ちっとも知らなかったわ」
「あたしも館に来てから桔梗の君が懐妊されていたことを知らされたから、驚いたわよ」
「それで端女?」
「あ、これはあたしがすきではじめたことだから」
けろりとした顔の宴を見て、良文がギョっとしている。神さまがなぜ端女などに甘んじているのか周囲の人間はどう思ってるんだと不審そうに彼が問う。
「将門は止めなかったのか?」
「弟たちに止められたわ」
要するに将門が容認したということか。呆れたように良文が溜め息をつく。千代織はやれやれと言いたそうに肩を竦めている。いや、笑っている。
「さすが将門ね! 宴も宴よ、戦巫女として迎えられたのに溶け込んだように厨にいるなんて」
普通、神がかり的な存在というものは近寄りがたく、誰もが畏怖を抱くもの。
なのに、神である宴にはそういった気配がない。本人があっけらかんとしているからか、館の人間も宴を特別扱いしていないようだ。むしろ彼女がそう望んだのかもしれない。客人としておとなしくしているより動き回りたいというのが本音かもしれないけれど。
――宴、人間みたい。
息子たちに畏怖される自分よりも人間らしい彼女を見て、千代織は不謹慎なことを考えてしまう。だって千代織は彼女が不思議の能力を操ったところをじかに見ていない。良文がそう伝えただけで……
「別にいいじゃない。あたしとマサカドが合意してるんだから」
「いや、周囲の人間はそうは思ってないと思う」
良文がボソっと呟いているが、あっさり無視されている。
「でもでも、ご飯の調理の仕方も釜で炊くのと甕で茹でるのとあって、そうすることでそれぞれ異なる味わいを楽しめるのよ。今日は姫飯にしたんだけどヨシフミも食べる? 食べるよね、あたしが頑張って作ったんだもの!」
調理方法について熱く語る神の姿に、良文は圧倒されている。
「ああ食べるよ。だけど宴」
圧倒されついでに、尊敬している神の名を呼び捨てしていることに気づいていない。とはいえ宴はそんなことてんで気にしていない。むしろ咎められるのを遮るように早口で言い返す。
「そんなマサヨリみたいなこと言わないでよあたしはすきでやってるんだしマサカドだってそれは承認してるってさっきも言ったでしょ?」
「……ま、宴がそれでいいのなら」
口下手な良文は、渋々首を縦に振る。宴はそれならよし、と嬉しそうに笑う。
とてもじゃないが神さまと会話しているとは思えない。
千代織はふたりのほのぼのとした会話をぼんやり聞き流し、今更のように宴の存在を疑う。
……宴は、ほんとうに神なの?