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第三章 祝祭は狂宴の前に《1》




 承平五年、初夏。相馬小次郎平将門の側室、桔梗が無事に女児を出産した。

 宴は彼女に祝福を与えた。国土を守り、災いを消し、敵を退け福寿を増進させる星神である彼女にとってみれば、それは戦巫女としての役割よりも安易なものである。

 将門が宴を相馬郡の館へ呼び寄せてからまもなく半年が経過しようとしている。季節が冬から春を過ぎ、夏を迎えたその間、不思議なことに戦はひとつも起こっていない。


「だからって安心してちゃ駄目よ。ヨシカネはきっと愛娘が無事に出産したのを見届けてからマサカドを討ちに来るはずだから」

「はいはい」

「相変わらず緊張感ないわね」


 産屋でやすんでいる桔梗の状態は悪くない。己が生命をかけて自分の子を産んだ従妹を、将門は早く労いたいと言い募るが、桔梗つきの乳母がもうすこし待ってくれと止めているため、未だに彼は桔梗と娘を見ていないのだ。


「名前は決めたの?」


 女児の名前を決めるのは将門に委ねられたようだ。桔梗は自分と同じく花の名前がいいと希望しているようだが、なかなか思い浮かばないなぁと将門は苦笑を浮かべている。

 宴のことはすぐに名づけたくせに、自分の娘となると責任重大だからか……すぐには決められないらしい。


「……女の子が生まれるとは思ってもいなかったから」

「あたしのことはすぐに名づけたくせに」

「あれは勢いだ」


 その言葉に宴はカチンとくる。


「じゃあ勢いで決めればいいじゃないのあたしみたいに。自分の娘なんだし桔梗の君にも任されてるんだからっ!」


 怒りだした宴を見てしょんぼり肩を落としながら将門は言い訳をするようにぼやく。


「でもできれば花の名前がいい、って……俺に言われてもわかるわけないだろうに」

「じゃあ、花の名前じゃなければ思いついたわけ?」


 両頬を軽く膨らませたまま、宴は将門に問う。


「まあ……安直かもしれないが」

「何? 教えてよ」

「宴ときたから、祭だ」


 自信なさそうに口にした将門を、宴はきょとんとした表情で見つめ、沈黙する。


「それはまた安直な……ん? 祭、まつり、茉莉! 茉莉も花の名前じゃない!」


 突然叫びだした宴を見て、今度は将門が首を傾げる。


「どういうことだ?」

「良かったじゃない名前が決まって。これなら桔梗の君も喜ぶわ!」


 茉莉の花。天竺原産の耶悉茗(ジャスミナム)と呼ばれる香料植物の一種なので宴にとってみると親しみのある花なのだが、この国での知名度はイマイチのようだ。

 夏の夕方に芳香の高い五弁花を開き、その花は佳香を楽しむ茶として使われることを将門に説明すると、彼は狐につままれたような表情のまま、両手を上下に鳴らし、頷く。


「ああ、茉莉花の茉莉!」


 ……こうして将門と桔梗の間に生まれた女児は、茉莉と名づけられ、育てられることになる。



   * * *



 青鹿毛の緑青(ろくしょう)は嫌がることもせず、良文を相馬の地まで運んでいく。五日はかかるかと思われた旅程も、愛馬が走りつづけてくれたおかげで随分短縮されたように思える。


「この調子なら、日が暮れる前に館へ行けるんじゃなくて?」


 良文の隣を並行するように走るのは、千代織の愛馬、鶸桜(ひわざくら)。朝廷貢馬として陸奥(みちのく)より交易目的で渉ってきた稀少な佐目毛と呼ばれる全身象牙色の馬である。

 彼女が佐目毛という神社などで奉納される貴重な馬をなぜ所持しているのかというと、嫁入り道具として京の蔭の重鎮である父親が贈ってくれたからなのだが、良文は彼がどうしてこの馬を手に入れ娘にポンと贈ったのか未だによくわからないでいる。


「そうだな。千代織は大丈夫か?」

「平気よ」


 千代織は父親から馬に乗ることを教わったという。きっと辺鄙な東国へ嫁ぐと決めた愛娘のために大枚はたいたと考えるのが妥当なところなのだろう。

 今日も、良文の緑青に負けず劣らず、鶸桜は千代織を乗せて元気に走っている。

 良文の愛馬である青鹿毛の緑青は、外見そのものから名づけているが、千代織の佐目毛馬は瞳の色から名前をつけている。

 佐目毛の特徴は象牙色の全身と、淡い紅色の粘膜に覆われた藍色の瞳。だが、この馬は中の瞳の色が桜色で、遠めから見ると鶸が集う中にぽつんと桜が咲いているように見えるため、千代織は『鶸桜』と名づけた。もしかしたら瞳の色が異なっていたから神社へ奉納されなかったのかもしれないが、だからといってこの馬が不吉であるわけではないだろう。むしろ千代織はこの桜色の神聖な瞳がすきだ。

 良文が戦地へ赴くときも、鶸桜に乗って可能な限り彼を追いかけていく。自分は戦えないと理解しているくせに、愛するひとが命を賭して飛び出す姿を黙って見守ることができずにいる。良文は危ないから来るなと怒るけれど、千代織はそれでもついてくる。


 ――今日だって。良文は苦笑を浮かべながら妻に言う。


「息子たちを置いて来るとは思わなかったよ」


 まだ幼い息子たちを置いて、千代織は良文を追いかけてきたのだから。戦に出るわけでもないというのに。とはいえ、千代織は良文に窘められようが気にするそぶりは見せない。


「だいじょうぶよ、あの子たちはあたくしよりも安里(あさと)に懐いているから」


 乳母の名を口にされると良文も弱い。たしかに息子たちは安里に懐いている。


「だからって拗ねるなよ」


 息子たちは千代織を母親だと認識はしているのだろうが、彼女の存在にどこか怯えているようで、自ら彼女へ近づこうとはしない。たしかに千代織は高貴な女性で、ときに神々しい雰囲気を纏う。けれど良文の隣にいる千代織は、たったひとりの大切な妻なのだ。


「拗ねてませんよ」

「ほんとかなぁ」


 初夏の風を切って、仲睦まじいふたりが乗る二頭の馬が疾走していく。千代織の長い黒髪が、夕暮れどきの田んぼの黄金によく映えている。馬を走らせるのにその髪は邪魔にならないのかと不思議に思いたくなるほど、千代織は上手に手綱を操る。


「……良文さまったら浮かれちゃって」

「そりゃ、浮かれたくもなるさ」


 甥の将門と姪の桔梗の間に第一子が誕生するという。その祝賀のため、良文は千代織と共に、あともう少しで到着できるであろう相馬に向かっている。


将平(まさひら)が教えてくれなきゃきっと生まれるまで教えてくれなかったでしょうね」


 将門の弟のひとりである将平はお調子者で嘘や隠し事ができない人間なのだ。だから兄の子どもがもうすぐ生まれるということを早く知らせたくてたまらなかったのだろう。


「あいつも唐突に訪れたからな。『あと十日もすれば生まれますよ!』っていきなりだぞ……」


 別に生まれてから報告しに来てもよかったのに、と言いながらも良文はどこか嬉しそうだ。お産が失敗することなどちっとも考えていないのだろう。まぁ、将門の傍には宴がいるから大丈夫だろうけど……千代織は半年前に仲良くなった神を思い浮かべる。再会したら、自分は彼女と何を話すのだろう?


 武蔵平野の地平線へ、吸い込まれていくように橙色の西陽が傾いていく。


「ちょっと急いだほうがいいかも」


 太陽が沈みそうなのを見て、ふたりは馬を急がせる。

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