第二章 東国に咲く紫の花《3》
「国香兄様が亡くなられたことで、坂東の混乱は更に深まっちゃったわね」
やれやれと息をつく千代織。同意するように良文も口をひらく。
「将門も必死だからな」
高望王こと上総介平高望には五人の息子がいる。国香、良兼、良将、良正、そして良文。
「結局、惣領の座は国香兄様の息子が継ぐのかしら」
「ああ左馬允の貞盛か……どうだろうな。京から戻ってきたそうだが」
仇討ちするとの話はきいていない。
「たぶんそこまで手が回ってないだけだと思うわ。母君が臥せってしまってこれ以上心配かけられないって噂もあるし」
長男、国香。一族の惣領だった彼だが、常陸国野本での戦で、将門に敗れ命を落として、まもなく一月が経つ。彼の息子で、将門の従兄にあたる貞盛は、そのとき京にいたため参戦はしていなかったが、この戦により、京で右大臣藤原定方に仕えていた頃より宿敵同士だった左大臣藤原忠平に仕えていた将門との関係は更に悪化したと考えてよいだろう。今後、伯父たちに唆され、共同戦線を張る可能性もある。
「それよりも良兼兄様の方が、よからぬことを企んでそうよね」
次男、良兼。国香を蹴落とし、惣領になるべく先の戦では将門の味方であった彼だが、愛娘の桔梗が家出同然に将門の元に転がり込んでしまったのに激昂。現在、敵対関係に陥っている。
五人兄弟の中で一番短気、おまけに乱暴で強欲な男。良文が権力者の縁を欲せず千代織を嫁に迎えたことも快く思ってないため、千代織は彼のことがすきではない。
そのくせ良兼は良正と共に千代織を口説こうとして良文と取っ組み合いの喧嘩をしていたが。
「あの莫迦兄者……」
千代織が兄たちに絡まれたのを思い出したのか、吐き捨てるように良文が声を震わせている。良兼とは折り合いが悪いため、あまり彼のことを話題にしたがらない良文だが、千代織が口にしたため、渋々意見を述べる。
「悪知恵だけは働くからなぁ」
「良正兄様もきっとついてくるでしょうね」
「だろうな……良将の兄者が生きていてくれれば少しは違っただろうに」
三男、良将。将門の父であり、良文をかわいがってくれた兄でもある。剛毅で人情深く、誰からも好かれ頼られた彼だが、昨冬の流感で呆気なくこの世を去っている。将門は父の死を理由に、性に合わない宮仕えをしていた京から帰郷し、今に至っている。
「そうねぇ……」
四男、良正。良文の前では兄として偉ぶっているが、身体が弱い彼は勢いの良い三人の兄を心から慕っている。良将が病死して以来、長兄の国香にべったりになってしまった彼は、国香を失った今、将門を殺したいほど憎んでいる。
「良兼と良正、ふたりの兄様の共通点は助平ってところくらいかしら」
「そういや桔梗姫のことを良正の兄者が狙っていたなんて話もあったな」
五人兄弟の中で唯一妻を迎えていない良正は、女性に幻想を抱きすぎているきらいがある。既婚者だろうが女童だろうが身近にいる女を片っ端から口説き、玉砕の日々を送っている彼は、京にいた頃から浮名を流していた将門を別の意味で恨んでいる可能性も否めない。
「……因縁深いのはよくわかったわ」
どっちにしろ、歳のはなれた末っ子の良文はてんで相手にされていない。領地をめぐる争いにも桔梗にまつわる騒動にも深く関与していない彼は、兄たちからしてみれば毒にも薬にもならないのだろう。
そんな良文を兄のように慕ってくれているのが亡き良将兄者の息子、将門。
だから良文は将門の味方になった。とはいえ、良文が兄たちと敵対する立場になったことを将門は気に病んでいるようで、必要以上に良文を頼ろうとはしない。それでも、援軍を請えば戦地まですぐさま駆けつける彼を、将門が信頼し、心の底より感謝しているのは坂東中で知られる有名なはなし。
千代織も将門を弟のように思っているのか、常に彼がどうしているか気にかけている。良文が共に戦うとなると、戦地まで佐目毛の愛馬に乗り追いかけてくることもある……さすがに命をおろそかにするなと良文に怒鳴られ、それ以降は止められているが。
『あたくしは良文さまの戦巫女なの。だから絶対に死ななくてよ』
そう言って、乳母の目を盗んでは今も時折戦地まで追いかけてくる。どこが深窓の姫君だ詐欺だと良文ははじめのうち苦笑していたが今は諦めてしまったのか何も言わない。
初冬の染谷川で起こった国香との戦で将門と共に敗走したときも、千代織は良文を追おうとしていたらしい。だがその日は運悪く息子たちの面倒を見ていた乳母に見つかり、結局館で悶々とした時間を送っていたという。折しもそのとき、彼は妙見神に命を救われていたのだが。
一族の私闘は、いつまで続くのだろう。神をも巻き込んで、彼らは争いつづけるのだろうか。良文は将門の元へ渉った宴の楽しそうな表情を思い浮かべ、微笑する。
「まったく。これから、どうなるんだろうなあ、東国は」
どこか他人事のように、良文は呟いて、ため息をこぼすのだ。
* * *
「……なるほどね」
宴は呆れたように目の前の少女を見つめる。その少女こそ、噂の桔梗姫。
みどりの黒髪に隠れているため、表情をうかがうことはできないが、彼女の下腹部が見事に膨れているのがよくわかる。
……マサカドの子を宿したわけか。
良兼が激昂するのも理解できる。源家の縁談を壊した彼女は将門に助けを求め、身体を許したのだろう。そして、孕んだ。
千代織よりも若いのか、二十歳には届いていなそうだ。それなのに、大人びた凛とした雰囲気があるのは、既に『母』であることを自覚しているからなのか。
宴の興味深そうな視線を受けても、桔梗は動こうとしない。
将門が宴を桔梗の元へ案内したのは、宴が将門の館へ入ってから二日してからだった。なぜすぐに逢えなかったのか疑問に思った宴だが、桔梗が宴に逢うことを拒否していたわけではなく、将門が桔梗の体調を気遣っていただけの話だと知り拍子抜けした。
その理由が、桔梗の懐妊だとは思ってもいなかったけれど。
「あと三月もすれば俺の子が生まれるんだな」
将門は動じない桔梗のおおきな腹に、壊れ物に触れるかのようにてのひらを添えている。宴からは見えないが、桔梗が笑んだようだ。将門が嬉しそうにしている。
はにかんだ表情の桔梗は、戦続きで疲れた将門を一瞬で癒す威力があるのだろう。
傍から見れば、どこにでもあるような、夫婦のように見える。
だが。宴は思い起こす。ここにいるのは従妹であり、妾であり、妻であり、母となる少女、桔梗。そもそも将門には京に正妻とした藤原忠平の娘がいるし、他にも関係を持った女は数知れず存在しているはずだ。
しかも、桔梗は父親の反対を振り切り、将門の元へ駆け込んでいる押しかけ女房でもある。そこであっさり彼女に手をだした将門もどうかと思うが、彼によって女にされた桔梗は、おまけに母になっている。
違和感があるのだ、このふたりのちぐはぐな関係に。
けれどその理由がわからない。宴はどこかしっくりこない将門と桔梗のふたりを見て、首を傾げるが、将門たちが気づいた様子はまったくない。
「そちらの方は?」
不躾な視線には気づかぬふりをしていたのか、桔梗はあくまで宴を見ることはせず、言葉を紡ぐ。そのことに気づいたのか、将門が宴を手招きし、桔梗の見える位置へと導く。
「宴だ」
――親に命じられた結婚を嫌がり意中の男の元へ転がり込み責任をすべて男へ転嫁した女。
あの良兼の娘なのだから性格は悪いだろうと予想していたが、どうやらそうではないらしい。
将門に宴を紹介され、ようやく彼女へ顔を見せた彼女は、将門が口にした戦巫女という言葉を素直に信じ、首を軽く振っている。
ようやく顔を見ることができた。宴は桔梗と眼を合わせ、笑いかける。
「よろしくお願いしますね」
狐のような細い瞳だった。千代織のすべてを見極め飲み込むような大きな漆黒の瞳ではないが、つりあがった桔梗の橡色の瞳は鋭く、芯が強そうな印象がある。
それでも、今のところ、敵意は感じられない。宴を恋敵と判断しなかったからだろうか。
「こちらこそ」
桔梗のか細くも甘い声を、宴は静かに受け入れた。
* * *
また空を見ているんだねと、良文に笑われる。彼が先に寝室へ入った後も、千代織は藍色の夜空をじぃっと眺めている。館の者も皆、寝静まったと見ていいだろう。
「おいでなさい」
そっと、消え入るような声で、呼べば、どこからともなく初春の夜風に乗って、ゆらゆらと白い蝶が降りてくる。千代織はそっと両手を差し出し、自らが召喚した蝶を懐に抱く。
やがて、千代織の中で蝶は弾け、淡い光の残滓を宙に戻す。
「……将門ったら、桔梗姫が懐妊したなんてひとことも言ってなかったじゃない」
ぽそりと零し、千代織は立ち上がる。立ち上がりながら淡い黄色の月に向け、そっと手を差し伸べる。その先には、ちいさな折り鶴。
「もう少し、様子を見た方がいいわね」
千代織のてのひらの上から、紙でできた鶴が舞い上がっていく。
千代織はそれを見届けることなく、良文の元へ戻り、何事もなかったかのように眠りに就く。
天空に舞った鶴は藍色が拡がる最奥へと吸い込まれるように消えていく――……