第二章 東国に咲く紫の花《2》
「おう、よく来たな」
武蔵国村岡から下総国相馬郡へ。将種の馬に長時間乗せられた宴は、尻が痛いとぼやきながら館の前で待っていた将門と邂逅する。
「随分早い呼び出しね」
もうちょっと良文の館でのんびりしていられるかと思ったのに、と言いたそうな宴に、将門は悪びれることなく囁く。
「お前に逢いたくなったのさ」
「よく言うわ」
将種は臆することなく言い合う宴と将門をぼけぇと見ている。呆れているのかもしれない。
「どうせ、また戦がはじまるんでしょ」
「だろうな」
他人事のように呟く将門は、戦を望んでいるようには見えない。だが、彼が望まなくても彼を虐げようとする人間が、彼に挑むべく、戦を起こすのは目に見えている。
戦いへ身を投じるのが日常になってしまった彼にとってそれは呼吸をするように自然な現象なのかもしれない。
そして、戦うのならば、勝たねばならないのが道理。だから神である宴は必要とされたのだろう。鬼神のごとき戦いぶりを見せるこの青年に。
「あたしは、何をすればいいの」
「将種が言ったとおりだよ」
「桔梗の君の、話し相手かしら?」
それでも意地悪く、宴は将門を揶揄するように、問いかける。
「それもあるけど」
わかっているくせに、と少年のような笑顔でかわされる。
「……わかっている、けど」
頷くが、宴は不満そうな表情を残したまま。
「ちゃんと、言ってくれなきゃわからない」
不貞腐れた宴の髪に、将門のおおきなてのひらが触れる。撫でる。撫でられる。
「言霊にしろ、ってか」
こくり、首を振る神の髪を、将門はやさしく撫でつづける。畏怖を抱かれる存在であるはずの神に対して、それは無礼な行為だというのに、彼は当たり前のように触れている。
宴のことを神だと知っているくせに、将門は自然体でいる。戯れに自分の女だなんて言って周囲を驚かせる。宴などというふざけた名前をつけ、人間のように扱うなんて。
……マサカドってやっぱりへん。
気がすむまで撫でたのか、将門の手が、宴の髪からはなれる。
一呼吸をおいて、将門は口をひらく。
そして願いを紡ぎだす。
* * *
あれは、いつのことだったっけ。
思い出そうとすると、頭の中に靄がかかってしまったような気がするけれど、その乳白色に染められた記憶自体が、いとおしい存在だから、彼女は気にしない。
――繰り返し、愛を、囁かれた。
けれど。自分は愛する夫のいる身。だから断ったのだ、彼以外をこの先求めることはけしてない、と。彼もそのことを認めていた、彼にはけしてかなわない、と。
そのことを知りながらも、彼は玉砕する覚悟を持って、想いを告げに来た。繰り返し。
欲しいと求められたのは素直に嬉しい。だからもうこの気持ちは封印すると彼が決意したときに、ほんのちょっとのお節介をしてしまった。今考えるとあまりにも浅はかで、その所為で世間は混乱に陥っているような気がしないでもない。
それでも、彼方の味方でいてあげると誓ってしまった。
それが、最初で最期の祝福。
もしかしたら、祝福でもなんでもなくて、自分本位な呪詛でしかないのかもしれない。
「でも……そうすることでしか、関わることができなかったから、仕方ないのよ」
瞳を天へ向け、彼女は弁明する。
「何を今更。物事は既に動き出しているではないか。北辰を遮るように星が流れたのをお前も見たであろう?」
彼女を打ちのめすように、厳しく告げられる真実。流れた星が、運命を刻み付け、残酷な未来へ一歩、近づかせていく。
「あれは、悪しきモノではありません」
「されど、星に惑わされ、己自身の使命を忘れ人間と混じるとは、感心せん」
「ですが」
「まあよい。スタルシャナ、とな。お手並み拝見といこう」
天に靄が漂うように、灰白色の雲が流れ、覆い尽くしていく。それを、彼女はじっと、睨むように見つめる。
冴えた冬空に煌いていた月星も、隠れていく。
まるで、不吉な予兆のように。
* * *
「兄者、どういうおつもりですか!」
「どうにもこうにも事情は説明したが」
「限りなく説明不足です。将種に伝令を頼んだことは存じておりましたが、女を連れて帰るとは……」
「言ったらお前反対するだろ」
「当然ですっ!」
将門の前で叫んでいるのは、彼より三つばかし若い弟、将頼。頭にちょこんと乗っかっている烏帽子が今にも引っ繰り返りそうなくらいに憤っている。
「……まったく、その女癖の悪さ、どうにかしていただきたいものです。桔梗の君だけでも手一杯だというのに」
暖簾に釘状態の将門の前で、懲りずにぐちぐちと言う将頼を、宴は面白そうに見つめている。
「へえ。マサカドって女癖悪いんだ?」
「こら宴。妙なこときくでない」
「悪いというか節操がないというか自由奔放なんですよいろいろな事に関して特に女性関係」
宴の問いに関して、将頼が丁寧に応えていく。特に京都で滝口の武士として勤めていた頃は激しく浮名を流していたらしい。その中のひとりが京都に残してきた正妻なのだろうと宴はぼんやり考える。
「莫迦。余計なことまで言うな」
「ですが知っておいた方がこの先苦労しなくて済むかと思いまして」
「マサヨリだっけ。ご親切にありがとう」
満面の笑みで礼を告げる宴を見て、得意そうな表情になる将頼。だが、その笑顔がつくったものであると見抜いている将門は、肩を竦めて溜め息なぞついている。
「でも、あたしはそういう意味でマサカドの女に甘んじてるわけじゃないの」
宴は将門が自分を呼び寄せた本当の目的を思い出しながら、くすくす笑う。
「将頼。宴は俺の女であると同時に、戦巫女でもある大切な客人だ」
戦巫女。それは言葉のとおり、戦に勝利をもたらす巫女のこと。けれど宴は神に仕える巫女ではなく、神そのもの。だから。
「戦女神でもいいけど?」
冗談じゃないと挑戦的に、宴は嘯き、妖艶に微笑んだ。