第二章 東国に咲く紫の花《1》
「淋しくなるわ」
ちっとも淋しくなさそうな千代織の見送りの言葉を、宴は苦笑しながら受け入れる。
「何を言っているの。あたしがいなくなれば、ヨシフミは奥方さまだけのものでしょうに」
「良文さまを物扱いしないでくださる?」
女ふたりが別れを惜しむ様子を、良文が物珍しそうに眺めている。
……そういえば、千代織には同世代の友人がいなかったもんな。
その眼差しは、見るものを優しくさせる、穏やかなもの。
「でも、あたしもヨシフミも、そんな些細なこと、気にしないよ」
ふふふと笑いあいながら、千代織は宴の腕をとる。そうね、と頷いてから、耳元へ囁く。
「特に、人間じゃないあなたにとってみれば、些細なことよね」
サッ、と宴の顔色が蒼白になる。
「……チヨリ? 何を言っているの?」
「しらばっくれなくてもいいのよ。あたくしも、すべて知っておりますから」
千代織が「も」と口にしたのを見て、宴は納得する。良文が教えたのだろう。
異国から仏教の神が舞い降りてきたなんてふつう、素直に信じられることではない。だが、妙見神を信仰している良文なら、妻にも事情を説明できるのではないか。
……現に彼女はあたしを人間ではないと言い切っている。たしかに、誰にも言うなとは言っていない。良文を責めるのもお門違いだ。
「なんだ、そうだったんだ……」
良文の妻を怖がらせないよう、黒髪に榛色の瞳へ姿を変えたのは、無駄な努力だったのかもしれない。だが、この恰好でいた方がこの先も都合がいいだろう。今更本性を現す必要もない。
「だから、将門のこと、頼むわね。戦巫女さん」
けれど、千代織は自分が戦巫女として将門の味方になることを望んでいる。神である宴が加わることで、東国の混乱を早く治めたいのかもしれない。確かに、平和主義の夫を見ていると、そう考えるのも頷ける。
「りょーかい」
そう簡単にいくとは思えないけどね。
内心とは裏腹に気軽に応えて、宴は良文の館をあとにするのだった。
* * *
「随分あっさりした別れですね」
「別に今生の別れってわけでもないし」
「……はぁ」
将種の馬に乗せられた宴は、名残惜しそうに良文が治める村岡の地を振り返ることもせず、ただ前を向いている。
「そうよ。逢いたければいつでも逢いにいける。けれど彼らにしてみたら、あたしがマサカドの元へ赴いた方がいまは都合がいいの。わかる?」
「いえ」
将種は何も知らない。だからわかるわけがない。ただ、長兄の将門に命じられたから、戦巫女である彼女を連れている。馬を操る自分の肩に両手を乗せているのが天竺から舞い降りた神さまだなんて知らずに。
宴は言葉を濁した将種を一瞥して、視線を空へ傾ける。
「……それにしても、随分お呼びが早かったこと」
桔梗の件が片付いたとは、まだ言いがたいというのに。なぜこの時期に将門は宴を自分の本拠地へ招くのだろう。
「兄者は、宴さまを桔梗さまの話し相手にしたいとお話しておりました」
「ふぅん」
宴は興味なさそうに応える。
将門の元へ転がり込んできた従妹、桔梗。彼女が地方豪族の源家との縁談を壊したというのに、彼女を庇った将門が、一族の敵とみなされた皮肉。
常陸国で起こった野本の戦いに将門軍が勝利したことにより、桔梗が源家へ嫁ぐことはなくなったが……
「桔梗の君はマサカドのもとから離れないわけね」
それでも桔梗が将門の館から離れることはなかった。
「そうなんですよ」
「はた迷惑な妾さんね」
しかも、桔梗が将門のもとから離れないのを伯父の良兼が快く思っていないらしい。京都に正妻を残している将門の妾になるより、地方豪族と縁を結んだほうが彼女のためにもなるというが、結局のところ、娘を政略結婚の駒として、自分がオイシイ思いをしたいだけなのだろう。
まったくだ、と将種が同意している。
「野本の戦いでは兄者の味方をされていたのに、桔梗さまが戻らないと知ったら、良兼伯父にも目の敵にされてしまったんですよ」
兄者が不憫でなりませぬ、と零す将種。どうやら、桔梗は将門以外の人間にしてみると迷惑極まりない厄介者でしかなさそうだ。
「マサカドは敵だらけだもんねー」
それにしても、将門を一族の敵、という位置へ至らせる決め手となった紫の花の名を持つ姫君は、いったいどんな女性なのだろう。
将門は妹のような、と言っていたが、きっと彼女は彼をそうは思っていないだろう。
だとしたら。
宴はくっ、と声を詰まらせる。
「どうされました? 気分でも?」
「……ううん。そうじゃない、そうじゃないけど」
桔梗が将門に兄以上の想いを抱き、執着しているのは事実なのだろう。
そんな中、あたしが将門に招かれていいのだろうか。まぁ、戦巫女って建前があるからまだいいだろうけど……
桔梗にとってみたら宴は将門を奪う可能性のある邪魔者でしかないだろう。
「チヨリより、たちが悪かったりして」
* * *
良文が手を合わせている。
足元に泥がついていた妙見菩薩像も、良文が丁寧に拭いたことで、いまはきれいに清められている。
妙見菩薩、妙見神、スタルシャナ。
すべて、同じ意味を抱く、星神の称号。けれど彼女は将門につけられた「宴」という名前を気に入っているようだ。
千代織は先刻別れたばかりの宴の顔を思い浮かべる。黒髪に榛色の瞳、という姿はきっと偽りのものだろう。
北辰の化身とも、北斗七星の化身ともいわれる妙見神が本性を現したら、夜空のような髪と星のような白銀の瞳を煌かすはず。その姿を見てみたいような、見てみたくないような……
「千代織?」
祈祷を終えた良文が、文机に頬杖をついたままの妻を心配そうに見下ろしている。千代織は首を左右に振って、なんでもないと微笑する。
「……宴は、どうしてこんな東国に来たのかしらね」
妙見神も、八百万神のうちの、一柱であることに相違はない。それだけの数の神がいるのだから、人間に興味を抱く神がいてもおかしくはない。
気まぐれな神が人間に逢いにくることも、ないとは言い切れないのだから。
「助けてくれたんだ」
「それは聞いたわ」
宴は、自分を信仰してくれている良文の危機に現れたという。日頃の恩返しのつもり、だったのかもしれない。
「けれど……助けたら、そのまま姿を消すんじゃないかしら?」
「個人的興味があるんだと」
「なにそれ」
「神さまの事情って奴だろ」
文机の後ろにまわり、良文は歳の離れた妻の頬を背後から両手で優しく撫でる。千代織はくすぐったいと身をよじらせるが、やがて自分から良文の胸へ頭をもたげる。
「そうね」
神さまの事情。きっとそれは神さまにしかわからない事情なのだろう。けれど千代織はそれがどういう事情なのか気になって仕方がない。
「良文は気にならないの?」
「別に」
俺は神じゃないからわからないよと千代織の髪に手を触れる。
「あたくしも、神さまのことなんか、わからなくてよ」
千代織はふぅと溜め息をつく。文机の上に置かれていた白い紙切れが、溜め息とともに、生きた蝶のように舞い上がるのを見咎める者は、ここにはいない。