第四章 不毛な戦に七星の惑い《4》
射られた者の傷を癒しながら、破れた楯を繕いながら、良正の軍は憎しみを募らせながら、春の終わりを過ごす。
「願わくばお力を拝借致し、将門の乱悪を鎮めたく存じます。国内の騒ぎは我等が力で治め、上総と下総、二国の動きを必ず鎮める所存」
将門に劣らぬ雷電の響きを起こすためには、風雨の助けが必要。戦力が欲しい。重々しい文面で、良正は生き残った唯一の兄、良兼に援軍を求めた。
「よいよい。父を七重の獄にいれて殺害した摩掲陀国の阿闍世王のごとく、昔の悪王然とした過ちを将門は既に犯しておる。しかるに舅である護の掾も、さぞかし愁いているに相違ない。早よ戦いの準備を整え、密かに待つべし」
その応えに良正は安堵した。源一族の長となった良兼と無傷の兵が加わることで、格段と戦力は上昇する。
良正は兵たちの戦力を回復させ、武具を揃え、待っていた。兄が上総で合戦のための兵を集めていると信じて。
密かに。
事は進んだ、筈だった。
「……いや、さすがに露見るでしょ。国司だってあの雲のように湧いた軍勢見たら『なんじゃこりゃあ!』ってたまげるわよ」
こちら、下野国の国境。周囲には大勢の兵がたむろしている。
上総より集ってきた良兼率いる兵と、下総にて合流した良正軍。
「それでも、向こうの方が一段上手だったってことに変わりはねぇな」
そしてただ事じゃないと感づいた国司の静止を踏み切り「舅に会いに来て何が悪い!」と常陸国へ押しかけられて「父親殺されてんのに将門なんかと和睦するなこのボケ!」と良正に批判され渋々参戦する羽目に陥った将門の従兄、貞盛とその兵たちの姿もある。
「国司っていっても桓武平氏の一族に楯突くことはできないのが現状だもんねー、おまけに今回の主将であるヨシカネさんは地方豪族源家の方からも信頼されてる偉大な長……国司さんも正直関わりたくなかったんじゃないの?」
「だろーな」
将門と宴はこっそり良兼たちの軍を観察する。数え切れないほどの騎馬を見た時点で、将門の戦意は喪失していた。仕方のないことだと宴も頷く。
度重なる戦で将門の兵は少なくなっていたし、武器も揃っていなかった。今日も僅か百騎を率いて、国境付近まで様子を見に行っただけなのだ。
そこで見たものは、自分の軍よりも十倍以上はいるであろう騎馬と兵たちが休息をしている風景だった。これで「親戚に会いに行くんですだからお願い通して!」と国司を強引に頷かせたのかと宴は苦笑する。
「まさかヨシマサが、ここまで事を大きくするとはねぇ……」
百騎と千騎ではあまりにも数が違う。ここはひとまず、引き下がった方が賢明かと将門が判断したそのとき、見慣れぬ巫女の姿に気づいた兵が、不審そうな声をあげる。宴は振り返り、将門に困った顔を向ける。
「あら、気づかれちゃったみたい」
「この莫迦っ!」
こうして、あまりにも不利な戦ははじまった。
* * *
「ま、宴のことだから上手に立ち回りするでしょう」
「随分アッサリされているのですね、奥方さまは」
「あたくしがてきぱきしているのは性分よ。きっと」
将門と宴が下総の国境で良兼たちと鉢合わせしたその頃。鎌輪館で留守番をしていた桔梗は、珍客の応対をしていた。
千代織を怖がる茉莉を乳母のもとに預け、桔梗はひとりで訪れてきた彼女の横顔を改めてじっと見つめる。いつ見ても綺麗で、こわいくらいだと思う。
将門の叔父である良文の妻、千代織。
けれど三十代前半であろう良文に比べ、千代織は軽く十歳は若い。もしかしたら桔梗の兄、公元と同い年くらいかもしれない。
夫はどうしたのかと問うと、「野暮用」なんてからかうような応え。もしかしたらお忍びで来たのかもしれない。だからそれ以上きくことは諦め、世間話に興じる。
主に、将門と宴が不在にしている理由……国境付近で良正たちが進軍しているという現実を。
「――やっぱり、良正が動き出したのね」
苦虫を噛みつぶしたような千代織の表情。そういえば良正が良文に援軍を要請したという話もあったという。良文の妻である千代織の耳にその情報が届いているのは自然なことだ。
「良文殿は、お断りされたんですよね?」
桔梗が確認を取るように千代織の表情をうかがうと、当然のように首肯される。
「そうじゃなきゃ、あたくしがここに来るわけなくてよ?」
良正につくとなれば、将門とは決別するということになる。そうなれば、千代織がこうして気軽に将門を訪ねに来ることもなくなってしまう。
桔梗も素直に首を縦に振る。その反応に、千代織は瞠目するが、すぐ無表情へ戻る。
「だけど、桔梗の君。貴女からしてみると今回の戦いは、どちらが優勢だと思う? 教えてくださらない? 貴女からしてみると、どのように映るのかしら、この不毛な争いは」
そして挑むように桔梗を見据える。
将門と良兼が戦をすることを、桔梗はどう思っているのだろう。千代織はその本心が理解できない。たとえ良兼に反発し家出同然に将門の元へ飛び込んできた彼女であっても、夫に父親を殺されたら、平然としていられるであろうか?
桔梗は千代織の冷め切った視線を、軽々とかわし、困ったように呟く。
「……私の目に映ることを、私は信じるだけなのに」
どのように映るかなんて、考える余裕もない。ただ、自分で真実を受け入れるだけ。
そう応える桔梗の前で、千代織は溜め息をつく。ひとつ、ふたつ。
そして、意を決したように、口を開く。
「それじゃあ、わからなくてよ。正直に応えなさい。貴女は、どっちに勝ってもらいたいの?」
問い詰められた瞬間、桔梗の背筋に、氷塊が触れたかのような冷たさが通う。
「どっち……どっちだなんて……」
目の前にいる千代織を、こわいと、漠然と桔梗は感じ、意識を手放す。
千代織は反射的に、桔梗の身体を抱きとめる。
「……目に映ることを信じるだけだなんて、人形でもできることよ」
千代織は瞳を黒紅へ変え、蒼褪めた表情で、無垢な少女に囁く。
「貴女が人形でいると、困るのよ。そろそろ目を覚まして欲しいのに」
千代織は四角い紙を素早く折り、白い小鳥を夕空へ飛ばす。
この場にいない神へ、不毛な戦況を伝えるために。