第四章 不毛な戦に七星の惑い《1》
神無月に入り、将門をとりまく環境はめまぐるしく変わっていく。
「将門さま将門さま将門さまー」
「はいはいどうしたどーした子春丸俺がここで武具の準備をしているのがわからんのかね」
「わかっておりまするが大変なのでございます」
「大変? 良正伯父が戦の準備をしているよりも大変なことなのか?」
将門の従僕である丈部子春丸は、あるときは間諜として、またあるときは斥候として、将門と敵対関係にある人間の傍で情報収集を行う頭の回転の速い少年である。
水守で良正が戦を企てているとの情報を運んできたのもこの子春丸だ。
「それに関することがらでございまする。良正殿の軍勢は水守より川曲に進軍するとの模様」
「毛野川か」
将門の驚いた顔を見て、子春丸は満足そうにつづける。
「それゆえ、本郷の館より鎌輪にて待機した方がよろしいかと」
「一理あるな……子春丸、先に移動を」
「あい」
「引き続き、見張りをつづけろ。向こうに動きがあったらすぐ報せろ」
小走りで去っていく子春丸の背中を見送り、将門はそっと深呼吸する。
「……はじまるのね」
「ああ」
表白、裏緑に紅色の単。裏菊と呼ばれる秋特有の小袿姿でいつも以上に艶やかな桔梗は、出陣前の夫に心配そうな眼差しを向ける。
「宴は?」
「先に鎌輪の館で待機してる」
動きやすいからという理由で端女の恰好をしつづけていた宴だが、さすがに戦がはじまるとなると本来の役割を思い出したのか、緋色が鮮やかな巫女装束に着替え、準備を行っていた。
彼女にとってみれば初陣にあたるが、緊張感よりも昂揚感の方が勝っているらしい。将門よりも楽しそうだったのが癪にさわる。
黙りこんでしまった将門を見て、桔梗はぽつり呟く。
「心配?」
「……莫迦なこと言うな」
顔を赤くする将門を見て、かわいいなあと場違いなことを思う桔梗。宴に対して将門が抱いている気持ちを彼女は知っているから、つい、意地悪してしまう。
「そんなこと言ってる暇があるなら、お前もとっとと移動の準備をしろ」
「もうしてるわよ」
勝ち誇ったように、桔梗は呟く。
「準備ができていないのは、あなただけよ。将門さま」
ハッと周囲を見回すと、石井の館の中は、空っぽになっている。どうやら弟たちと彼らの兵、そして子春丸は主人を置いて素早く移動したらしい。
「大丈夫よ」
呆気にとられている将門に、妻である桔梗は囁く。
「宴は強いから」
* * *
常陸国と下総国の境目を南北に流れる毛野川。そこが今回の戦の舞台だ。
曲がりくねった川を挟み、作戦が露見したことを知らない良正率いる軍が進んでいる。
待ち伏せをしていた将門軍は、彼らの到着と同時に、急襲した。
「行け!」
襲う相手に先手を打たれた良正軍は、たじろぎながらも応戦体勢へ入る。
ぬかるんだ川辺で繰り拡げられる戦闘は、宴の目から見ても、激しいものだ。
逃げ隠れた者は数知らず、雨のように降り注ぐ矢は確実に兵を射抜いていく。
人馬ともに泥まみれになりながら、敵を滅ぼすべく、弓を手に矢を放ちつづける兵たち。
その中に、将門の姿もある。
赤鹿毛の馬に乗り、手綱を強く引き、駆けまわる将門。手には弓を持ち、敵兵を見つけるとすぐさま弦を引き矢を放つ。
流星のごとく放たれた矢は敵兵の額や肩を貫き、赤い花を散らせる。
「一族に仇なす忌まわしき鬼め!」
良正がわなわなと唇を噛み締め、将門を罵倒する言葉を投げつけながら負けじと弓を放つが、頑丈な鎧を着た将門は傷ひとつ負うことない。
彼だけが無傷で戦いつづけている。その姿は、鬼神そのもの。
宴はそれがどういう神なのか詳しく知らない。だが、とても強い神なのだろう。将門がそのように呼ばれ恐れられている事実を、ようやく目の当たりにする。
……彼は、鋼鉄の身体を、授けられた者。
将門は、やはり神から、いや、神に準じる者から祝福を受けている。
桔梗は宴に、彼は鬼神であり、北野大臣の化生であると教えてくれた。けれど宴は和国における鬼神も北野大臣も知らない。特に、後者などこの国で人間だったものが神に祭り上げられただけだという。
菅原道真という男が怨霊となり京を騒がせ、それを回避すべく後世を生きる人々が雷神に昇格させたという荒唐無稽な本当の話を宴は人間らしい選択だと苦笑しながら受け入れたけれど。
いま、ここで戦う将門を見て、思い知る。
彼は本当に、人間に恐れられている人間なのだと。
数多の兵に標的とされた将門は、素早く馬で矢から逃げ、お返しにと矢を放つ。その繰り返し。繰り返し。
けれど背後から飛んできた矢に気づかず、宴はつい。
「避けて!」
矢が射抜くであろう軌跡を無意識に変えてしまう。
くるりと方向転換した矢は将門を射ることなく、別の敵兵が集う場所へ飛んでいく。
奇怪な光景に良正は顔を真っ青にしている。それでも怯むことはなく、攻撃をやめる手は止まらない。
「化け物……!」
矢の洗礼をものともせず、将門は馬を駆けつづける。宴はその間、敵兵が射る矢の軌道をゆるやかに反らしながら、矢数を増やしていく。
「ちょいと失礼」
敵兵の胡簶から拝借して。
やがて、敵兵のひとりが異変に気づいたのか、慌てた表情で良正に告げる。
「もう矢数に余裕がございません!」
「な、何っ!」
確かに、大量に準備したはずの矢が、忽然と姿を消している。
その現実に気づいた良正はわなわなと拳を握り締め、声をあげる。
「退くぞ! これ以上やってても勝ち目はない。今回は我が軍の負けだっ!」
散り散りになって水守へ去っていく良正軍を、追いかけようと宴は手綱を取る。周囲にいる兵も当然のように宴につづく。
が。
「やめとけ」
「マサカド……」
なんで追わないの? と問いただしそうな宴を、将門は優しく労う。
良正軍は大敗を期した。射ぬかれた人間の数は六十前後。将門側も、負傷者を大勢出している。この状態で営所まで良正を討ちにいく必要はないだろう。
「――負傷者の手当てを」
熾烈な戦の後に残された落馬し呻いている味方の兵を救わねばならない。そう言って、将門は馬を走らせる。
宴も渋々頷き、彼に従う。鎌輪の館へ、辛くも勝利したことを伝えるがため。