第三章 祝祭は狂宴の前に《4》
茉莉はよく眠る。人見知りをしないのは将門に似ているからだろう。
けれど、たったひとりだけ、茉莉が気に食わなかった人間がいる。
桔梗は彼女の姿を思い浮かべ、首を傾げる。どうして、彼女を恐れるのだろう、この子は。
彼女が茉莉を抱き上げようとした途端、変化は起こった。火がついたように泣く、というのがどういうことか、いままで知らなかった桔梗はその現象を見て慄いた。
不思議と、彼女が茉莉の傍からはなれると、それはなくなった。
桔梗がおろおろしているのを見て、彼女は気にしないでと笑った。いつものことなの子どもに嫌われるのは……そう言って、淋しそうに笑っていたけれど。
神聖な存在と言われる戦巫女である宴より、桔梗はすべてを知っているようなおおきな漆黒の瞳を持つ、彼女が怖い。
――千代織。将門の父親の末弟である良文の正妻。地方豪族源家との接点を何一つ持たない京の重鎮を父に持つ美しき娘。幼い容貌であるにもかかわらず、その心の裡では何を考えているのか、まったくわからない。
彼女の夫である良文や、彼女を知る将門、そして彼女たちの元で暮らしていた宴は千代織のことを悪く言わないし、怖がっているようにはみえないが、彼らが館に来たとき、他の人間が千代織を避けるようにしていたのは気のせいではない。
京での高貴な風格というものが滲み出ていたから、周囲の人間はたじろいでしまったのだろうか……だとすれば納得はできるが、それでも彼女が自分を見た時に抱いた感情、恐怖もしくはそれに準ずるものの原因としては弱い気がする。不思議だ。
「桔梗? どうしたの、浮かない顔して」
顔をあげると、宴がいた。彼女は、千代織をどう思っているのだろう。自分のように、恐れおののいているのだろうか。
「ねえ宴、変なこと、聞くけど……」
――良文さまの奥方さまって。
「なんか、怖い気がするんですけど」
宴は桔梗の言葉を耳にして、瞠目する。けれど、冷めた表情で、応える。
「……気のせいでしょ」
「でも」
「彼女が醸し出す神々しい雰囲気や、豹変する物言いは、確かに怖いと思うけれど」
宴も、千代織のその姿を見た時、畏怖を感じた。けれど、よくよく考えると、それは彼女だけに起こる現象ではない。
「彼女はどこにでもいるような人間でしょ」
……あたしと違って。心の裡で呟きながら、宴は桔梗を見つめる。
現に、目の前にいる彼女だって戦の引き金を引いた、恐るべき少女なのだ。
弱々しく頷く桔梗は、自分もその怖がられている人間であることに気づいていないのだ。
だから不安そうに、神に仕えていると将門に紹介された宴に訴えるのだろう。
「もともと、女は怖い生き物。それだけのことでしょう? あたしだって、ヨシフミの館で奥方さまと逢った時、誤解されて大変だったんだから!」
だから気にすることはない、と宴は微笑う。
「奥方さまに誤解されちゃったんですか、それは怖いかも」
茉莉を抱いた桔梗は、くすりと笑う。宴が言うのだから、きっと、気のせいなんだろう。
宴はよく眠る茉莉の薄い髪を撫で、身じろぎひとつしない彼女を見て苦笑する。千代織の前では火がついたかのように泣き、暴れたというのに。
「この子の機嫌が悪かっただけなのかしら」
「そうかもしれないわね」
桔梗の腕の中で、茉莉は気持ちよさそうに眠っているのだから。
* * *
「ウタゲがマツリを祝福する、か」
面白くなさそうな声が、千代織の耳元で響く。宴が祭、いや、茉莉を祝福したことを彼女は余計なことをされたと思っているのだろう。
「嫌われてしまったみたい」
茉莉は千代織のまじないに応じなかった。それどころか拒否されてしまった。なぜなら異国の神、宴の祝福を受けたから……やっぱり彼女は神なのだ。淋しそうに、千代織は虚空に囁く。
彼女の手の上には、ひとひらの花びらのような、白い紙切れ。
「紙姫よ」
生まれつき紙を操る能力を持つ千代織を、かの神は千代紙の姫、紙姫と呼ぶ。そして、紙を操る彼女を眷属に命じた。幼かった千代織は、折り紙をしたいがためにその神と契約した。
それ以来、千代織は貴重な資源である上質な紙を好きなだけ手に入れられるようになり、その紙を使い、一柱の神を補佐するという役割を担うことになってしまった。
それは、良文の元へ嫁いだ今も密かに続いている。
良文は千代織が純粋に折り紙を楽しんでいるものだと思っている。その折った鶴や蝶が、空を飛んでその場で見聞きしたことを千代織に伝えているなんて知らずに。
「他の神に関わると、碌なことにならぬ。紙姫よ、早よ追い出せ」
「そう急かさなくても……あなたの害になるとは思えませんよ?」
なぜ彼女は宴の存在を気にかけているのだろう。千代織には理解できない。
様子を見ようとしたり、追い出せと言い出したり、最近の彼女は支離滅裂だ。千代織は困惑した表情のまま、神の言葉を待つ。
「だが、紙姫よ」
千代織の手の上にあった紙切れが、ゆらりと立ち上がる。月のひかりの下で、紙切れは巨大化し、千代織より背の高い人型になる。鎖帷子を纏った武士が、千代織を見下ろす。その姿は、どことなく良文に似ている。千代織は目を見開き、その人型に魅入る。
「……何を」
「戦がはじまろうとしておる」
その言葉が切れると同時に、武士の人型は刀傷を受け、血を潤びらせる。
良文ではない。良文は寝所で安らかに寝息を立てている。
けれど意地悪な神は、千代織に見せしめのように、幻を表す。
「戦は――お前の愛する人間をも戦渦に巻き込む」
「や……おやめ、ください」
鮮血が飛び散る幻が、千代織を苛む。
「やめて……!」
良文を模した武士が、崩壊する。首が、切れ味のよい刀によって、すっぱりと。
瞬間、切り裂かれた紙切れが夜空に舞った。桜吹雪のように散った紙ふぶきを浴びて、千代織は正気に却り、空に浮かぶ神を睨めつける。
「これは警告じゃ」
「……悪趣味」
言葉を詰まらせる千代織に、降り注ぐのは無慈悲な警告。
「戦が起これば、お前もわかるであろうよ。スタルシャナの、真の恐ろしさが、のう」
風の音とともに神の気配は消える。威圧感から解き放たれた千代織は、その場にくずおれる。
神は、良文を巻き込む気だ。巻き込んで、千代織を本気にさせようとしている。
本気にして、邪魔者となるであろう星神スタルシャナ、宴を排除させるつもりだ。
これからはじまるであろう戦の数々に思いがけない打撃を与えるであろう星神の存在というものを彼女は危惧している。それだから、押さえつけよとか、挙句の果てには殺してしまえと千代織に無理難題を押し付ける。そんなこと、できるわけないのに。
人間たちと楽しそうに日々を過ごす宴を思い出し、千代織は唇を噛む。
良文をも利用しようと画策する卑怯な神に対抗する術のない自分が腹立たしい。
「そんな……良文さまっ」
千代織の悲痛な助けを乞う声は、誰にも届かない。