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第一章 女神は天竺より舞い降りて《1》




 追い詰められ、死を目前に想うことは、妻のことだった。


千代織(ちより)は、泣くだろうな」


 血なまぐさい一族の私闘に巻き込まれた時点で、覚悟はしていた。兄弟で殺し合いをすること自体、愚かなことだと理解もしている。けれど、彼を死なせるわけにはいかない。


良文(よしふみ)叔父っ!」


 上野国(こうずけのくに)群馬郡府中花園村を流れる染谷川(そめやがわ)流域で、弓の弦が鳴る音と、剣戟の音が響く。


「逃げろ、将門(まさかど)!」


 馬から落ちた良文の声が聞こえたのか、将門は渋々首を縦に傾け、馬の足を急がせる。だが、矢が馬の足を掠めたのか、甥の身体は一瞬にして地面へ投げ出される。


「……ったく」


 良文は咄嗟に落馬した将門の元へ駆け寄り、彼の身体を抱き上げる。敵兵はさっきまで降伏しそうな状態だった良文の火事場の莫迦力を目の当たりにして唖然としている。これ幸いと駆け抜け、対岸へ姿を消したふたりを、大柄の男が見据え、呟く。


「あの傷ではもつまい。だというのに弟よ、そこまで将門の肩をもつのか……」


 彼の名は、桓武帝(かんむてい)の曾孫、高望王(たかもちおう)の長子、平国香(たいらのくにか)。良文の兄であり、将門の伯父でもある彼は、敗走した彼らを執拗に追うことはせず、ひとつ、従者に聞こえるか聞こえないかのちいさな溜め息だけを零す。



   * * *



 朽ち果てた祠の中で、良文は緊張の糸が切れたのか、がくりと体勢を崩した。担がれていた将門は、ぐったりした叔父の身体を横たわらせ、傷をみる。

 至るところで失血したというのに、大の男ひとり運び、逃げおおせるという無茶をした彼は、極度の貧血状態に陥っている。血はいまも固まることなく流れている。夜になれば気温は急激に下がる。下手をすれば失血死ではなく凍死という形で命を終えてしまう。


「……いよいよこれまでか」

「何を言うんですか、千代織姫が泣きますよ」


 血まみれの良文は、将門の前ですまなそうに微笑する。


「泣くだろうな」


 だが、この傷では戻れまい。

 数えで二十歳になったばかりの幼妻を思い浮かべながら、良文は刀を抜く。

 しゃらん。


『自害されるのはまだ早くてよ。いっつも口が酸っぱくなるほど命をおろそかにするなとあたくしにおっしゃったのは、彼方だったでしょう?』


 ふいに、千代織の声が、良文の内耳に届く。なんと心地よい空耳か。たとえ恨まれようが嘆かれようが罵られようが、今際の際に彼女の言葉が聞けるなら、それで充分だ。

 だが、刀身が空を切る前に、薄い紙切れが飛び出し、良文の視界を奪う。

 しっかり持っていたはずの刀は、そのはずみに地面へ投げ出され、小気味よい音を立てる。


「何をする将門!」

「何もしてませんよ……俺は」


 そう言って、将門は良文の視界を奪っていた紙切れをひょいと拾い上げる。将門の手のひらに乗った白い紙切れは、季節はずれの紋白蝶のように、ひらひらと舞い上がる。


「夢見鳥……?」


 顔を見合わせているふたりをよそに、一匹の白い蝶はひらひらゆらゆら、祠の奥へと飛んでゆく。暗闇の中だというのにその周囲は光り輝いている。周囲に舞い散る鱗粉が、横たわっている良文の傷口を塞ぐようにまとわりつく。


「傷が、癒えていく……?」

「叔父上、あそこ」

「なんだ?」


 良文が放り投げた刀を鞘に戻し、将門は彼の身体を抱き起こす。傷口からの血はすでに止まっていた。だるかった身体も、随分と軽くなっている。

 身体を起こした良文は、白い蝶が姿を消した向こうにいる人影を見て、敵兵かと緊張した面持ちで将門の表情をうかがう。彼の表情は硬い。


「女がいる」

「女?」

「――女がここにいたらいけない?」


 甘い、鈴を転がしたような声が、天を揺らすように降り注ぐ。


「いや、いけないとは言っていない」


 良文も、表情を硬くする。


「あなたたち、逃げてきたんでしょう? この寒さじゃここにいたって死んじまうよ。退路なら、あたしが案内するわ」


 薄暗かったはずの祠の入り口周辺が、陽光を浴びた雪原のように眩く煌めいている。そこに佇んでいる女は、夜空を彷彿させる紺瑠璃色の(うちぎ)月白(げっぱく)(ひとえ)を纏っている。被いた袿が彼女の顔を隠しているが、声から若い女のものと理解できる。

 旅の途中だろうか。それにしては供の姿も何もない。妙齢の女、しかも高貴な地位にある人間が一人で旅をするということは到底考えられない。

 不審そうにしている良文の横で、将門が物怖じせずに問う。


「あんた、何者だ?」


 その瞬間、風が吹き、女が被っていた袿がずれる。二十歳前後の麗しい容貌(かんばせ)がふたりの前に現れる。雪のように白く透き通った肌。瞳の色は夜の群青と白銀を混ぜたような、なんとも言いがたい色彩を放つ。どうやら左右で若干、虹彩が異なるようだ。煩わしいのか長い髪をひとつに結い上げている。髪の色も黒ではなく、果てしなく藍色に近い。異国の人間だろうか。

 凍てついた冬の原野にひっそり咲く可憐な花のような清楚な憂いと、どこか大胆な艶っぽさを併せ持つ矛盾した雰囲気と美しさに、ふたりは息を飲む。

 同時に、外へと飛び去ったはずの白い蝶が、女の前で、様子をうかがうように舞っている。

 女は煩わしげに蝶を払う。


「あたしの方こそ尋ねたいわ。こんな術を扱うなんて……あなたたち、何者?」


 ぽとり、蝶が払い落とされる。良文がまじまじと泥の上に落ちた蝶を見ると、それはただの紙切れだった。こんな術、とはきっと紙切れで癒しの蝶を生み出すことだろう。だが良文も将門もそんな器用な真似はできない。首を傾げながら、良文は質問する。


「これは、あなたではないのか?」

「あたしだったらこんな煩わしいことしないよ」


 そう言って、良文の塞がりかけた傷口に唇を寄せる。突然の行為に良文の頭は真っ白になる。


「ちょ、ちょっと待て!」

「ほら治った」


 傷痕ひとつ残すことなく、良文の右腕はまっさらになっていた。


「人間じゃないな」


 呆れたように呟く将門に良文が窘めようと口を開くが、それよりも先に女が応える。


「ご名答」

「――あなたは、何者ですか」


 良文が怪訝そうに女を見る。女は困ったような表情をするが、やがて決心したように呟く。


「スタルシャナ」


 良文は咄嗟に口にしていた。同じ意味を抱く言葉を。


妙見神(たえみのかみ)……」


 驚愕の声を、女は満足そうに内耳に留めている。


「タエミノカミ?」


 将門だけが蚊帳の外だ。良文は安堵したかのように、女に傷口を舐めさせている……彼がこんな表情をするのは、妻の前だけだというのに。

 唖然としている将門を見て、良文は我に却り、言い訳のように言葉を告げる。


「将門、傷を見せろ」


 だが、叔父の良文が神と認めるならば信憑性はある。将門も頷き、傷口を女に舐めさせる。


「はい」


 信じられなかったが……女に傷口を舐められたことで、完全に血が止まり傷口も塞がれ、きれいさっぱり回復したのであった。



   * * *



 北辰を横切るように流れた星を見上げ、千代織は立ち上がる。


「ほどけた……?」


 闇夜よりも深い漆黒の双眸を持つ彼女は、藍色の空の向こうをキッと眇める。

 表紫、裏濃縹の袿と紅の単。存在感のある竜胆の重ねは、京と異なるこの東国では浮いているようにも見えるが、彼女が纏うと、不思議とよく似合う。

 小柄でありながら埋もれることなく華やぐ彼女は、坂東(ばんどう)の豪族たちにも一目置かれていた。

 大蔵卿大野茂吉おおくらきょうおおのもきちの娘。京の都より東国の名もなき武将の下へ嫁いできたやんごとなき姫君。

 白粉を使わずとも輝いている乳白色の柔肌、桜花のように淡く染まる両頬、腰までのばしっぱなしの真っ直ぐで艶やかな黒髪、華奢な指先、ちいさな口許とそこを彩る唇の紅、そして森羅万象を司るといっても過言ではないつぶらな瞳。

 当然、京の都でも評判が立ち、数多の男が彼女に求婚した。牛車より垣間見えた外見の麗しさと少女のあどけなさに、彼らは心酔していた。

 彼女は彼らに応えなかった。まさか拒否されると思っていなかったのか、彼らは彼女の反撃と本音に、卒倒した。


 ……あたくしは、お人形じゃなくてよ?


『そりゃそうだな』


 あっさり応えを返したのが、今の夫だ。

 まさか求婚者に付き添っていた優男の妻になるとは思ってもいなかった。

 夫の名は、桓武帝が曾孫、高望王の五男、村岡五郎平良文。

 自分よりひとまわり年上の彼の生き様に惹かれた。彼の話す東国へ行きたいと、そう思った。

 だから千代織はいま、こうして命からがら帰ってきた彼を迎えて。


「良文さまっ! 誰よその女っ!」


 ――叫ぶ。

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