第五話 怒り
ソファに座る音がした後、
「あら、光国。何で下を向いてるのよ。話があるからここに来たんでしょう」
背筋が寒くなるような響きの声だった。
汀子の言うことには従わなければいけない。そう思いながら、どうしても顔を上げることが出来ずにいると、フォークと皿がぶつかる音がして、
「いい加減に、顔、上げなさいよ」
怒りを帯びた声で、汀子が言った。思わず顔を上げて汀子を見ると、きつい目つきでオレを睨んでいた。
「あんたの為に、こうやって時間を作ってあげたんだからさ。わかるでしょ。何しに来たのよ」
言わなきゃいけない。そう思うばかりで、夢の中の自分と同じように、言葉が出て来ない。そんなオレの様子を見ると、汀子はますます強い視線を向けてきて、ソファから立ち上がりオレのそばに来ると、「あんたなんか」と叫ぶように言って、右腕を振り上げた。
(殴られる)
とっさに両腕で頭をかばった。
その時、「ダメだよ」という父の声が聞こえた。交差させた腕の隙間から見てみると、父が汀子を後ろから押さえつけていた。
「汀子さん。ダメだよ。光国が可哀想だろう」
「光洋さん、放してよ。光国は、可哀想じゃないわよ。全然可哀想じゃない」
汀子の言葉が、オレの心を突き刺していた。
「汀子さん。やめてあげてくれ」
「嫌よ。この子が私の一生を台無しにしたんだから」
「違う。光国のせいじゃない」
汀子は、押さえられていた腕から逃れると、父の方に向き直り、
「じゃあ、私が悪いって言うの? 私のどこが悪いのよ。言ってよ」
「君も悪くない。だけど、光国は、もっと悪くない」
汀子が、声を上げて泣き始めた。父が、そんな汀子の背中を優しく撫でてやっている。
「君は悪くない。誰も悪くない」
言い聞かせるように、何度も言っていた。
二人のやりとりを見ながら、オレは短い呼吸を繰り返していた。頭をかばっていた腕を下ろした時、ミコの存在を思い出した。そっとミコを見てみると、目を大きく見開いたまま、固まったようになっていた。無理もないことだ、と納得した。
汀子の泣き声が止まると、二人はソファに戻った。汀子は目元を指先で拭うと、
「もう。全く、やんなっちゃうわ。ねえ、光国。早く用事を済ませましょうよ。わかってるよね。私、あんたのこと、見るのも嫌なの。だけど、あんたが用事があるって言うから、こうやって会ってやってるのよ」
「汀子さん。落ち着いて」
父の言葉に、汀子は表情を変えずに、
「私は落ち着いてるわよ」
「わかった。君は落ち着いてる。じゃあ、光国。本題に入ろう」
父がそうやって取りなしてくれているのに、何も言えずにいた。汀子の怒りを見た後では、何もまともに出来ない。
二十八歳になった今でも、小さい頃と変わってないことに気が付いて、そんな自分が滑稽に思えた。
「何も言えないのね。あんた、本当に嫌。そういう、はっきりしない所も、あんたの父親にそっくり。いらいらするのよ。あんたなんか、顔も見たくない。いいから、さっさと出てってよ」
「汀子さん。光国が話そうとしてるのに、君がそう捲くし立てたら、言いたいことも言えなくなるだろう」
「私は悪くないわよ。この子が、はっきりしないから」
「わかった。でも、とにかく一旦黙って」
父の言い方は、いつもになく押しが強かった。父は、汀子を見つめながら、
「光国が話し終わるまで、口を開いたらダメだよ」
汀子は、叱られた子供のような顔をしたが、
「わかったわよ」
「ありがとう、汀子さん」
部屋の中が静まり返った。さっきまでの、あの恐ろしい状況は何だったのだろう。そんな気分にさせられた。