第二話 父
何もする気にならず、リビングのソファに、半ば横たわるようにして座った。待ち合わせは午後三時。大事な日に、遅刻するわけにはいかない。そう思いながらも、体が言うことを聞かない。
母・汀子の夢を見るのは、随分久し振りだった。これから会いに行かなければならないから、それが頭の中にあったせいだろう。
「あーあ」
思わず声に出して言い、大きな溜息をついた。
と、その時、スマホの着信音が鳴り始めた。画面を確認すると、父からだった。すぐに通話にすると、
「光国です」
「今、まだ家かな。今日、大丈夫そうか」
四番目の父だから血は繋がっていないが、いつも気遣ってくれて、オレのことを大事にしてくれる良い人だ。
「どうかな。正直なとこ、自信ない」
父の前では、つい本音が出る。父は、「そうか」と言うと、
「無理しなくていいんじゃないかな。汀子さん、光国には、あたりが強いから」
「夢を見たんだ。久し振りだった」
「夢?」
父が訊き返すが、それがどんな夢かを説明するのは、さすがに憚られた。
「何でもない。今から、家を出る。じゃあ、また後で」
「光国」
呼ばれたが、通話を切った。
心配してくれる、優しい父。オレに対して、厳しい母。そこへ、オレの大事な恋人を連れて行く。
前に、恋人の藤田美子に言われた。
「今すぐじゃなくていいんだけど、いつか私のこと、光国のご両親に紹介してほしいの」
あれから一年以上の時間が過ぎた。彼女は、この前ようやく高校を卒業した。春からは、大学生になる。
卒業式があった日の夜、彼女から電話が掛かってきた。
「光国。今日、卒業したよ」
「そうか。おめでとう」
オレは、少しの沈黙の後、唐突に、
「ミコ。今度、両親に会ってくれ」
「え……」
「ミコに言われてから、ずっと考えてきた。いつか結婚するそのタイミングでもいいかもしれないけど、オレは今会ってもらいたい。オレも、あの人たちに、おまえのことを認めてもらいたい」
「わかりました。会います。会わせてください」
即答だった。その言葉に、オレは安堵して息を大きく吐き出した。
「ミコ。日曜日で調整するから、予定入れないでくれ。向こうに連絡して、決まったら電話するから」
「はい。待ってます」
それから、しばらく別の話をしてから、通話を切った。
とうとう言ってしまった。両親に会わせるなんてことが、本当に自分に出来るんだろうか。
そんな暗い気持ちが襲ってきたが、もう、賽を振ってしまった。スマホの画面をじっと見た後、父に連絡を入れた。父はすぐに出てくれて、
「久し振りだな。元気にしてるのか?」
「ああ。元気にしてるよ。あのさ……」
「光国。今、家かな。外、見えるか? 見てごらん。三日月が綺麗だから」
父は、三日月が好きだ。大好きな父が好きだと言ったから、オレも三日月を好きになった。すぐに窓を開けて空を見上げると、確かに三日月がそこにあって、オレを見守ってくれていた。本当は違うだろうけど、少なくともオレにはそう感じられた。そのことが、オレに勇気を与えてくれた。
「あのさ、父さん。オレね、二人に会ってほしい人がいるんだけど」
「え。二人?」
父は、会ってほしい人、という語ではなく、そこに反応した。
「そう。大事な子だから、二人に会ってほしいと思ってる。やっぱり、無理かな」
無理だろう、やめた方がいい、と言ってほしかったのかもしれない。が、父は、
「汀子さん、そこにいるから、訊いてみるよ。ちょっと待ってて」
自分が望んだはずなのに、心が騒ぎだす。母の名を聞いただけで苦しくなるのは、どうにも出来ない。
「光国。汀子さん、会うって。楽しみにしてるって言ってるよ。それで、今度の日曜日はどうかって」
父の言葉に、オレは深呼吸をしてから、「わかった」と答えた。
「じゃあ、午後三時頃に。待ってるよ。でも、もしも都合が悪くなったら、当日でもいいから、連絡するんだぞ。無理しちゃダメだからな」
都合が悪くなったら、と言ったが、汀子に会うのがやっぱり無理だと思ったら、と言いたいのだろうとわかった。父の言葉に、心の中が温かくなった。
「わかった。ありがとう」
お礼を言って、通話を切った。涙がこぼれそうになっていた。
そして、今日がその日だ。不安な気持ちを抱えたまま、玄関のドアに鍵を掛けた。