第十九話 黒いスーツ
待ち合わせの時間が近づいてきた。お父さんの部屋をノックすると、返事が聞こえた後、ドアが開いた。
「じゃあ、行こうか」
喫茶店に行くにしては、何だか堅苦しいような格好だ。何故、仕事に行く時のようにスーツを着ているのだろう。
「何だ? 不思議そうな顔して」
「え。だって、お父さん。喫茶店に、ケーキを食べに行くのよ。仕事に行くんじゃないのよ」
私が言うと、お父さんは微笑んで、
「今日は、この格好がふさわしいんじゃないかと思ってね」
「え?」
「何となくそう思っただけだよ。いいじゃないか。じゃあ、行こう」
何も説明していないのに、何か知ってるみたいな言い方だ。
アリスまで行く道で、お父さんは、
「こうやってミコと歩くなんて、何年振りだろうな。思い出せないな。いつもおまえは一人だったから」
私は、ただ頷いた。私にしても、お父さんと連れだって歩くのが何年振りなのか、全く思い出せない。
「いつも忙しかったから、帰るのも遅かったし、おまえには寂しい思いをたくさんさせたんだろうな」
「そんなこと……」
「そういえば、いつだったか、うちに帰ったら知らない青年がいて、びっくりしたっけ」
鼓動が速くなった。何故今その話をするのだろう。
「飯田くんって言ったね。昨日、解散したんだろう、彼のバンド。さっき、ネットのニュースで見たよ」
私は何も言わず、ただ俯いていた。
「あの時は、お世話になったね」
お父さんが一人で話している内に、アリスに辿り着いてしまった。お父さんがドアを開けて、私を先に入らせた。
中に入ると、ミッコさんが、
「あ。やっぱり、待ち合わせの相手は、ミコだったんだ。でも、それにしては、あの人、あんな格好だし……」
ミッコさんの視線の先を見ると、スーツ姿の人がいる。しかも、黒。驚き過ぎて、言葉が出て来ない。
ミッコさんは、私の後ろに立つお父さんに、
「初めまして。ここの店主の娘で店員の、斉藤美代子と申します。いつもミコさんが来てくれているんです。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。今日は、ミコに誘われて一緒に来ました。ここのケーキはおいしいと聞かされているので、楽しみにしています」
お父さんとミッコさんの方に視線を戻す。ミッコさんは、軽く頷きながら、「それでか」と、納得したように呟いていた。
ミッコさんは、私の肩を軽く叩くと、
「ま、頑張りなさい。じゃあ、いつものを三つ準備するから、あの人の所に行ってて」
「はい」
「あの人?」
お父さんが、繰り返す。私は、お父さんを見ずに、まっすぐ前を向いたまま、
「さっき、お父さんが名前を出した人です。あそこに座っている、黒いスーツを着ている人」
目的のテーブルまで行くと、椅子に座っていたその人が、さっと立ち上がった。